24話「蹂躙の序曲」
三回生、柘榴坂凱が持つ固有定義――"切削研磨"。
それは極めてシンプルであり、それゆえにハッカーとしての地力が問われる凶悪な能力だった。
両腕のガントレットに纏わせた Will-Bit を、超高周波で振動・回転させることで、触れるものすべてを情報の最小単位へと削り取る。物理的な装甲も、論理的な防御障壁も、奴の拳の前ではただの薄紙に等しい。
「死ねよ、炭崎ィィ! その小賢しいツラごと、削り屑にしてやるッ!」
柘榴坂が咆哮し、地面を蹴った。
右拳のガントレットから、キィィィィィィンという鼓膜を劈くような高周波音が響く。空間そのものが奴の意志に削られ、火花を散らしながら歪んでいく。
狙いは湊。だが、その攻撃の軌道は狡猾だった。
わざと湊の背後に転がっている琥珀川芽依香を巻き込むように、広範囲の薙ぎ払いを繰り出す。
「……っ!」
湊は舌打ちし、一歩も退かずに、"ヴォルテクス"からビットの渦を展開する。多層に重ねた防御障壁を盾に、柘榴坂の突進を真っ向から受け止めた。
バヂバヂバヂッ、と激しい火花が散る。湊の障壁が、"切削研磨"の振動によって瞬く間に削られ、薄くなっていく。
「ハハハ! どうした、守るのが精一杯か!? Level 2 が調子に乗るからこうなるんだよ!」
柘榴坂の顔は、どす黒い悦楽に歪んでいた。
奴は止まらない。左拳、右拳と交互に叩きつけられる猛攻。一撃ごとに障壁は砕かれ、湊の身体を Will-Bit の余波が突き刺す。
湊は、無言だった。
ただ冷徹に、ヴォルテクスの出力を調整し、致命傷だけを逸らし続ける。
その沈黙が、柘榴坂をさらに逆撫でした。
「何とか言えよ! あの時みたいに、『品性がどうこう』とか抜かしてみせろよ! このゴミ野郎! テメェのせいで俺がどれだけ恥をかいたか分かってんのか! ログにも残らねぇこの深層で、テメェをデータの塵に変えて、その一年生は俺の愛玩動物にしてやるよぉ!」
狂ったような呪詛を吐き散らし、柘榴坂は出力をさらに引き上げた。
不正なプラグインによる過剰供給か、奴の全身から赤黒いノイズが噴き出す。それはもはや、学園の生徒が振るうべき力ではなく、ダンジョンの怪物そのもののような荒々しさだった。
嵐のような"研磨"の乱撃。
湊は防戦一方に見えた。ヴォルテクスのフレームが悲鳴を上げ、足元のタイルが粉々に粉砕される。
だが、その嵐の只中で、湊は静かに、獲物を待つ蜘蛛のような冷徹さを保っていた。
数分。いや、湊にとっては数秒の出来事だっただろう。
柘榴坂の息が上がり、最高潮に達した出力が、一瞬だけ揺らぎを見せた。
「――もう気は済んだか? 若造」
その声は、驚くほど平坦で、驚くほど冷たかった。
「……あ?」
柘榴坂が呆けたような声を漏らす。
次の瞬間、奴の視界から湊の姿が消えた。
ハッキングでも、Will-Bit による加速でもない。
ただの、最適化された最短経路による肉体の踏み込み。
ドッ、という重い音が響いた。
「が、はっ……!?」
柘榴坂の頬にめり込んだのは、最新のギアでも、高度な定義でもなかった。
ただの、固く握られた湊の"拳"だ。
Will-Bit による防御すら間に合わなかった。
あまりに無防備、あまりに原始的な一撃。
柘榴坂の巨躯は木の葉のように舞い、数メートル先の壁に激突して、無様に転がった。
「……え、あ……?」
頬を抑え、信じられないものを見るような目で湊を見上げる柘榴坂。
湊はそんな奴を一瞥もせず、背後で震えていた琥珀川の側に、静かに屈み込んだ。
「せ、先輩……? 今の……」
「……琥珀川。よく頑張った。少しだけ、眠っていろ」
湊の指先が、琥珀川の首筋に触れる。
L-Gearを介した極低出力のハッキング。脳内の情報処理を一時的に停止させる、慈悲深い強制スリープ。
「……あ……」
琥珀川の瞳から光が消え、彼女の身体は湊の腕の中に預けられた。
湊は彼女を丁寧に地面に寝かせると、ゆっくりと立ち上がった。
その背中からは、先ほどまでの"劣等生"の気配が、一欠片も感じられなかった。
立ち上る威圧感は、もはや学生のそれではない。数多の死線を潜り抜け、世界の終焉を背負った戦士――SS級ハッカーとしての、本質的な"毒"が漏れ出していた。
「――琥珀川は気絶させた。ここで、見ているのはお前だけだな」
湊は、のろのろと立ち上がろうとする柘榴坂へと、静かに歩みを進める。
「……ひっ、な、なんだよ、その目は……! テメェ、何をした!」
柘榴坂の喉が、恐怖で鳴った。
目の前にいるのは、炭崎湊という、落ちこぼれの下級生ではない。
何万ものエラーを、何万もの命を、冷徹に"処理"してきた、底知れない深淵だ。
「さっきまで元気だったじゃないか。……続けようぜ、先輩」
湊は、黒鉄のギア、ヴォルテクスの文字通りリミッターを解除した。
キィィィィィィィン……。
ヴォルテクスから発せられる音は、柘榴坂のそれとは比較にならないほど高く、澄んでいた。
「……ああ、心配するな。殺しはしない」
湊の瞳の奥に、暗い炎が灯る。
「ダンジョンでは事故がつきものだ。……30年分の経験を込めて、存分に――教育してやるよ」
その瞬間、ダンジョンの最下層に、絶望を告げる冷徹な駆動音が鳴り響いた。
柘榴坂凱の、本当の地獄は、ここから始まる。




