23話「悪意の深淵」
中野第2ダンジョンの内部は、数日前とは完全に別物へと変貌していた。
かつての公園の記憶を残していた通路は歪み、コンクリートの壁には血管のような赤い電子回路がのたうち回っている。空間全体が、まるで高熱に浮かされた病人のように、不規則なノイズを撒き散らしながら脈動していた。
(――クソが。これほど広範囲の定義を強引に書き換えるなんて、正気の沙汰じゃないぞ)
俺は隣を走る結衣を気にかけつつ、奥へと急ぐ。
ダンジョンを意図的に不安定化させる行為は、ハッカーの世界では禁忌中の禁忌だ。一つ間違えば空間ごと崩壊し、内部の人間は情報の塵となって消える。犯人の目的が何であれ、そこにあるのは純然たる"悪意"だ。
(それをやっちまうのが、ガキの怖さ――無鉄砲、ってやつか)
「湊、あそこ! ガイストの反応が急増してる!」
結衣の警告と同時に、前方の闇から十数体の小型ガイストが溢れ出した。先日戦ったハニカム・ビーの残党か、あるいはこの異常な環境で自然発生したバグの群れか。
奴らは俺たちの姿を認めるなり、耳を劈くような電子音を上げて一斉に襲いかかってきた。
「結衣、下がれ!」
俺は腰元の漆黒のギア――ジジが魂を込めて作り上げた"ヴォルテクス"を起動した。
30年後の愛機、"フラクタル"とは比べるのもおこがましいが、今の俺にとって最高の相棒だ。
「――『最適化』:全ロジック展開。消失」
コンマ数秒の間に、群れ全体の移動軌道と論理的な弱点をすべて解析する。
抜いたギアから放たれたのは、一筋の細い閃光。それが空中で幾何学的な模様を描きながら跳ね回り、すべてのガイストの核を一瞬で貫いた。
爆音すら残さない。十数体の怪物は、断末魔を上げる暇もなく、霧のように消え去った。
「……え?」
隣で結衣が、唖然とした表情で立ち尽くしていた。
無理もない。Level 2の劣等生が見せた、Level 20以上の鋼級ですら不可能な、あまりに鮮やかで無駄のない殲滅劇。
(――マズったな。この状況じゃ、言い訳も誤魔化しようもない)
だが、今の俺に"無能な湊"を演じ続ける余裕はなかった。ダンジョンのノイズは刻一刻と強まり、琥珀川の命が危うい。これ以上結衣を連れて行けば、彼女を危険に晒すだけでなく、俺も全力を振るうことができなくなる。
俺は足を止め、厳しい表情で結衣を振り返った。
「結衣。……今のは見た通りだ。だが、説明している時間はない」
「湊、あんた……今の、何……?」
「いいか、よく聞け。この奥のノイズは、俺たち二人では手に負えないレベルに達している。誰かが意図的に罠を張っている可能性があるんだ」
俺は彼女の肩を強く掴み、真っ直ぐにその瞳を見据えた。
「俺が琥珀川を助けに行く。その間に、お前は地上に戻って、大至急学園に連絡してくれ。翡翠先生か、動ける教官を呼んできてほしい。……頼めるのは、お前だけなんだ」
「……っ、でも! 湊一人で行かせるなんて――」
「信じろ。……俺は絶対に死なない」
30年前、俺は彼女と共に在ることができず、彼女を死なせてしまった。
だが、今は違う。彼女のハッカーとしての誇りを認め、そして俺の力を信じさせる。
結衣は数秒間、俺の瞳の奥にある"何か"を測るように見つめていたが、やがて唇を強く噛み、力強く頷いた。
「……分かったわよ。その代わり、死んだら承知しないんだからね! 絶対、絶対にすぐ戻ってくるから!」
結衣は踵を返し、来た道を全速力で駆け抜けていった。
その背中が見えなくなるのを待って、俺は身体を反転させる。自分を偽るための笑みを消し、30年前に置いてきた――SS級ハッカーの仮面を被り直す。
「さて。……邪魔者は消えた。徹底的に掃除させてもらうぞ」
俺は"ヴォルテクス"の制限を一部解除し、深層へと飛び込んだ。
最奥部。
かつてハニカム・ビーが鎮座していた広場は、今や赤黒い情報の渦が巻く地獄絵図と化していた。
その中心で、一人の少女が力なく横たわっている。
琥珀川だ。その手足は、実体化した Will-Bit の鎖によって拘束され、周囲のノイズによって精神を削られているようだった。
「――っ、琥珀川! 大丈夫か!」
俺の声に、ぐったりとしていた彼女が顔を上げた
。
「……みな、と……先輩……? 駄目です、先輩! 逃げて……! これは、罠……っ!」
その叫びと同時に、背後の闇から鋭い殺気が奔った。
振り返る暇はない。
俺は"ヴォルテクス"を背後へ向け、直感的に防御膜を多層展開する。
キィィィィィィン!!
硬質な衝撃音が響き、火花が散る。
何者かが放った高密度の情報を纏った Will-Bitの刃が、俺の展開した盾を半分ほど食い破っていた。
俺は衝撃を逃しながら距離を取り、攻撃が放たれた方向を鋭く睨みつける。
そこには、歪んだ喜びと、粘着質な殺意を瞳に宿した男が立っていた。
「何だよ。今の防げんのかよ。……雑魚のくせに、小癪な真似してくれんじゃねえか」
嘲笑うような、耳障りな声。
「……柘榴坂先輩。やっぱり、あなたでしたか」
そこにいたのは、三回生の柘榴坂凱。
彼の手にあるガントレット型L-Gearからは、明らかに学園の制限を外した、禍々しいまでの出力が立ち上っていた。
「ひでぇ顔だぜ、炭崎。……せっかくの週末、女とパフェなんか食って浮かれてた罰だ。そのガキの泣きっ面を特等席で眺めながら、自分を呪って死ねよ」
柘榴坂がガントレットを構え直す。その周囲の空気が、彼の固有定義によって、目に見えないほど細かい刃の嵐へと変わっていく。
「なんだ、見てたんすか、なら、丁度いいや」
俺は"ヴォルテクス"を構え直した。
思えば久し振りの、対ハッカー戦になる。腹の底で煮えそうな怒りを抑え込みながら、俺は言い放った。
「――お呼びじゃねえんすよ、糞雑魚が」




