第6話:切り裂かれた赤と、過激すぎる愛の刃
奪われそうになったのは、私の命じゃない。あの子が命を懸けて守ってくれた、たった一つの誇りだった。
静まり返っていた第一訓練場に、割れんばかりの歓声が響き渡っていた。
すり鉢状の観覧席を埋め尽くす生徒たちの熱気が、肌にビリビリと伝わってくる。ほんの数分前まで「凡才」「出来損ない」と私を嘲笑っていた者たちの視線が、今は驚愕と尊敬、そしてかすかな畏怖を含んで私に集まっていた。
全身の力が抜け、膝が砕けそうになった私の体を、リリィの小さな体が支えている。
「ありがとう、リリィ……。本当に、勝てちゃったね……」
「肯定。サクラの綿密な計算と準備の勝利です。あのアザラシのような男など、サクラの爪の垢にも及びません」
「だからアザラシって言わないの……」
苦笑しながら彼女の肩に手を置く。
魔力を使い果たした脳はまだ酷く痺れていたけれど、胸の奥にはこれまで味わったことのないような温かい達成感が満ちていた。血の滲むような日々の準備が、あの膨大な魔力を持つ天才貴族の術式を完璧に解体してみせたのだ。
教官が白線の外側からこちらへ歩いてくるのが見えた。
「――実技演習、第一試合終了! 勝者、サクラ・フィズ! 両者、グラウンド中央へ移動し礼を――」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
「……ざけ……るな……」
不気味な、地の底から漏れ出すような声が聞こえた。
泥と焦げ跡に塗れて地面に伏していたはずのジュリアン・フォン・ローゼンバーグが、ふらりと立ち上がっていたのだ。
その姿は異様だった。オールバックに整えられていた金髪は乱れ飛び、白目を剥きかけた瞳は血走り、顔全体が屈辱と憎悪で真っ赤に腫れ上がっている。
「僕が……ローゼンバーグ家の天才であるこの僕が……! こんな、魔力もろくにないゴミ以下の平民同然の小娘に負けるだと……!? 認めない……認められるかああぁぁぁッ!!」
「ジュリアン選手! 待て、試合はすでに決着した! それ以上の行使は――」
教官の制止の声など、ジュリアンの耳には届いていなかった。
彼は懐から、銀色の怪しい光を放つ小さな金属管を取り出した。
(あれは――禁忌の魔導増幅器!?)
私の背筋に、冷たい衝撃が走った。
あれは使用者の生命力すら前借りして無理やり極大魔術を叩き出す、学園内での持ち込みが厳しく禁じられている危険な魔導具だ。
「死ねぇぇぇっ、サクラ・フィズ!! 僕を恥辱に塗れさせた罪を、その命で贖ええええっ!!」
ジュリアンの咆哮とともに、金属管から赤黒い凶悪な炎が溢れ出した。
それは練習用の魔術などではない。人を一瞬で骨すら残さず焼き尽くす、本物の殺傷魔術――
『獄炎の大蛇』
ドッ!!!
空気を引き裂く爆音。
直撃すれば、私の体など一瞬で蒸発する。
避ける? 無理だ。私の魔力は底をついており、脚は疲労で指一本動かない。
障壁結界の教官も遠すぎる。誰も、間に合わない――。
死の恐怖が、視界を真っ白に染め上げた。
だが――。
「――不快です」
耳元で、驚くほど冷ややかな声が落ちた。
次の瞬間、世界から音が消えた。
私の視界を塞ぐように跳び出したのは、小柄な銀髪の背中だった。
リリィの手が、自身の腰の後ろ――制服のジャケットの裾に隠されていた暗黒色の鞘へと伸びる。
ガァンッ!!
それは魔術の音ではなかった。
重厚な鉄が、空気を強引に破砕する重い金属音。
リリィが引き抜いたのは、刃渡り20cmほどのぶ厚く無骨な『鉈剣』だった。
装束の飾りのような美しい装飾は一切ない。ただ肉を削ぎ、骨を砕くためだけに鍛え上げられた、黒光りする凶暴な鉄の塊。
彼女は地を蹴るでもなく、ごく自然な踏み込みで、迫り来る赤黒い地獄の炎に向かって――その鉈剣を横一文字に振り抜いた。
信じられない光景が、私の目の前で繰り広げられた。
迫り来ていた極大の火炎が、リリィのまさに閃光のごとき一閃によって「物理的」に真ん中から両断されたのだ。
左右に引き裂かれた炎の波が、リリィと私の両脇を通り抜け、背後の防護壁に激突して激しい爆煙を巻き上げる。
熱風が私たちの髪を狂ったように揺らしたが、リリィの体は微動だにしなかった。
物理攻撃で魔術を斬る?
そんなこと、どんな高位の剣聖であっても不可能なはずだ。魔術とは空間の波形であり、実体を持たない現象なのだから。
だが、リリィはやってのけた。
圧倒的な腕力と、魔術の「位相」を瞬時に見極めて刃の角度を合わせる、常軌を逸した精度によって。
「な……な……っ!?」
ジュリアンが絶句し、手にしていた金属管をぽろりと地面に落とした。
観覧席の生徒たちも、教官すらも、開いた口が塞がらないまま固まっている。
だが、終わりではなかった。
ジャリ、と静かな足音が響いた。
リリィが、両断した鉈剣をダラリと右手で下げたまま、ジュリアンに向かって歩き出したのだ。
その顔には、感情のひとかけらもなかった。
怒りも、憎しみも、喜びすらない。まるで作業工程を進める機械のような、完璧な「無」。
けれど、彼女の全身から溢れ出している殺気は、訓練場の空気を凍りつかせるほどに苛烈だった。
「サクラに対する直接的な生命威嚇行動を確認」
リリィの口から出たのは、淡々とした、氷のように冷たい声だった。
「脅威レベル:最大。再発防止策の検討――結果。サクラに害をなす者は、排除(殺害)が最も効率的です」
リリィの手の中で、黒い鉈剣がぬらりと光った。
彼女の身体能力をもってすれば、あと一歩踏み出すだけで、ジュリアンの首は胴体からおさらばすることになる。
「ひっ……! ひいいいぃぃぃっ!?」
ジュリアンは腰を抜かし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死で後ろへ這いずり回った。
「た、助けてくれ! 教官! 化け物だ! この女、化け物だああああっ!!」
教官もハッと我に返り、武器を構えようとしたが――リリィの威圧感に足がすくんで動けない。
リリィはジュリアンの目の前まで静かに歩み寄ると、何の躊躇もなく、鉈剣を真っ直ぐに上段へと振り上げた。
その動きには一切の迷いがなかった。本当に、ただ害虫を駆除するように、彼の命を刈り取ろうとしている。
(ダメ……! 絶対にダメ!!)
私は残った気力を振り絞り、もつれる足でがむしゃらに駆け出した。
「リリィ!! やめてえええええええっ!!」
ジュリアンの首筋に刃が振り下ろされる直前、私は横からリリィの体に飛びつき、その華奢な腰を全力で抱きしめた。
ドサッ!
「……んっ」
私の体重がかかり、リリィの動きがピタリと止まった。
振り下ろされかけた鉈剣の刃先は、ジュリアンの鼻先数ミリのところでピタリと静止していた。ジュリアンは恐怖のあまり「ヒッ」と短い悲鳴を上げて、そのまま泡を吹いて気を失った。
「サクラ?」
リリィが不思議そうに首をかしげ、私を見下ろした。
さっきまでの底なしの殺意が嘘のように消え去り、いつもの無機質で、どこかぽかんとした表情に戻っている。
「どうして止めるのですか? あの個体はサクラを殺害しようとしました。放っておけば、将来的に再びサクラの脅威となる確率が78.4%存在します。今ここで頭部と胴体を分離させておくのが、最も安全な解決策です」
「分離させないで!? お願いだから物騒な言葉を使わないで!!」
私はリリィの腰にしがみついたまま、ハァハァと荒い息を吐きながら叫んだ。
「ここは学校なの! それに、人を殺したらリリィが罪に問われちゃうでしょ!? 私を守るためにリリィが捕まったり、いなくなったりしたら……私、絶対に嫌だからね!!」
私の言葉を聞いた瞬間。
リリィの藍色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
彼女は手に持っていた重い鉈剣を、まるで落ち葉でも捨てるかのようにカラリンと地面に放り投げた。
そして、クルリと振り向くと、抱きついてくる私の頭を、両手でそっと包み込んだ。
「……サクラが、私がいなくなるのを嫌がってくれるのですか?」
「当たり前でしょ……! リリィは私の大切なパートナーなんだから!」
私が涙目になりながら訴えると、リリィは少しだけ満足そうに、小さく頷いた。
「了解しました。サクラの命令を最優先事項として受諾します。脅威個体の生命活動停止(殺害)を取りやめ、精神的不可逆破壊(トラウマの植え付け)に留めます」
「だから言い方が怖いってば!!」
私が思わずツッコミを入れると、観覧席のあちこちから、引きつったような笑い声と安堵の溜息が漏れ聞こえてきた。
教官が慌てて駆け寄ってきて、気を失ったジュリアンを回収し、医療班を呼ぶ大騒ぎになった。ジュリアンは学園の規則違反と不意打ちの罪で、厳しい処分を下されることになるだろう。
騒ぎの中心で、私はようやく緊張の糸が切れ、その場にペタンと座り込んでしまった。
「うぅ……本当に疲れた……」
「お疲れ様でした、サクラ」
リリィは座り込んだ私の隣にちょこんとしゃがみ込むと、私の頭を自分の膝の上に優しく載せた。
いわゆる膝枕だ。
「リリィ……?」
「疲労回復には、脳の休息が必要です。このまま動かないでください」
そう言って、リリィは私の髪を指先で優しく撫で始めた。
その手つきは、先ほど巨大な炎を叩き斬り、人の命を奪おうとしていたものと同一人物とは思えないほど、繊細で、柔らかかった。
「……リリィは、怖くないの?」
膝の上から彼女を見上げながら、私は呟いた。
「あんなすごい魔術が飛んできて……平気だったの?」
リリィは撫でる手を止めず、静かに私を見つめ返した。
「恐怖という感情の定義は私にはよく分かりません。ですが――」
彼女の指先が、私の頬にそっと触れる。
「サクラが失われることだけは、絶対に容認できません。そのためなら、私は世界中のあらゆる脅威を切り裂きます」
淡々とした言葉。
けれどそこには、どんな甘い言葉よりも重く、深くて、少しだけ歪んだ愛が込められていた。
「……もう、大袈裟なんだから」
私は照れくささを隠すように、彼女のお腹に顔を押し付けた。
リリィの温かい体温が、心地よく私を眠りへと誘っていく。
訓練場に吹く風が、焦げた匂いを吹き散らしていく。
遠くで教官たちが何やら叫んでいる声が聞こえたけれど、今の私にはどうでもよかった。
最高のパートナーと、掴み取った初めての勝利。
これからどんな困難が立ち塞がろうとも、私とリリィなら、きっと乗り越えていける。
私は彼女の膝の上で、静かに深い眠りへと落ちていった。




