第28話:温かな侵入者と、銀髪の小さなどこか不機嫌な影
大切な人の隣という特等席は、誰かに譲り渡すためにあるのではないと、あの日の私はまだ知らなかった。
静かな朝の空気が、窓ガラスを揺らす足音によって一瞬にして塗り替えられた。
王立グランヴェル魔術学園の一角にある、私とリリィの共同サロン。その重厚な木製の扉が勢いよく開け放たれたのは、授業が始まる一時間も前のことだった。
「おはようございますですわ、我が心の師、サクラお姉様!!」
部屋のなかに飛び込んできたのは、赤銅色の髪を二つに結んだハイテンションな少女、グレイス・バイオレットだった。
彼女は制服の着こなしもそこそこに、両手を大きく広げながら、まるで磁石に引き寄せられるように私のデスクへと一直線に突進してきた。
「ちょっと、グレイスさん? 朝から声が大きいわよ……って、わっ!?」
私の言葉が終わるよりも早く、グレイスは私の背後に回り込み、その華奢な身体で私の肩を後ろからギュッと抱きしめた。
あまりの勢いに、私の椅子が数センチほど前方へと押し出される。
「昨日のお手合わせで、私、心の底から悟りましたの! 圧倒的な魔力がなくとも、緻密な頭脳と計算で最強の技を無力化するサクラお姉様の姿は、まさに私の目指すべき北極星ですわ! 今日からお姉様と呼ばせていただきますわ!」
「お、お姉様……? ちょっと待って、いつの間にそんな関係に……」
「昨日ですわ! 私の心の中では、すでに三年前からの義姉妹の契りを結んでおりますの!」
グレイスはそう言うと、私の頬に自分の頬をすりすりとなすりつけてきた。
平民から一代で侯爵家まで上り詰めた武門の血筋だけあって、身体強化の魔法を使っていなくとも、その密着の圧力はなかなかに侮れない。筋肉質で引き締まった身体から、爽やかな汗と柑橘系の香りがふわりと漂ってきた。
昨日の訓練場での一件以来、彼女はすっかり私に懐いてしまったらしい。
私の知略や術式解析のデータを喉から手が出るほど欲しがり、私の言葉一言一句をノートに書き留めようとする熱意は本物だったけれど、いかんせんその愛情表現が直球すぎて、少しばかり気恥ずかしかった。
「あのね、グレイス。私はあなたのお姉様になった覚えはないし、第一、スキンシップが少し近すぎるわ」
「そんなご冗談を! ほら、朝の糖分補給ですわ!」
グレイスは懐から、色鮮やかなフルーツが乗ったタルトを取り出すと、それを私の口元へと強引に突き出した。
おいしそうではあるけれど、今まさに書きかけの魔導理論の計算式をまとめている最中なのだ。
「私、甘いものは今――」
「あーん、ですわ!」
「あーんって……あなたねえ……」
私が困り果てて眉を下げた、その時だった。
カチャリ、と。
部屋の隅、紅茶の準備をしていた小さな物音が響いた。
振り返ると、そこにはリリィが立っていた。
彼女は両手でポットを持ち、カップに琥珀色の液体を注いでいるところだった。いつも通りの、起伏のない無機質な表情。けれど、その注ぎ口から零れ落ちるお湯の勢いが、普段の完璧な一定リズムからわずかに逸脱し、カップの縁を濡らしていた。
「……リリィ?」
私が声をかけると、リリィはゆっくりと顔を上げた。
彼女の藍色の瞳が、私の背中にぴったりと密着しているグレイスを、じっと見据える。
「……サクラ」
「どうしたの?」
「その個体……グレイス・バイオレットの存在は、サクラの執務スペースにおける物理的安全性および快適な空間確保に対し、著しい不整合を引き起こしています」
リリィの声のトーンは、相変わらず平坦だった。
けれど、その言葉の端々に、なぜか微かな刺が混じっているような気がした。
「排除の必要がありますか? 私の鉈剣を用いれば、三秒でこの部屋の外へ放り出すことが可能です」
「ちょっ、物騒なこと言わないの! 放り出さないでよ!」
慌てて私が制止すると、グレイスは私にしがみついたまま、フンと鼻を鳴らしてリリィの方を振り返った。
「あら、リリィさん。そんな冷たい目をしなくてもよろしくてよ。私だって、お姉様を敬愛する者同士、仲良くしたいとは思っておりますわ。ね、リリィお姉様!」
「……誰が、お姉様ですか」
リリィの眉間に、かすかな縦皺が寄った。
彼女はポットをテーブルに置くと、トコトコと足音を立てて私たちのデスクへと近づいてきた。
そして、私の反対側の隣にピタリと身体を寄せ、グレイスによって押し出されていた私の腕を、そっと自分の両手で包み込むように抱え込んだのだ。
「サクラの隣は、私の指定位置です。……あなたのような、無駄に声の大きい喧噪的な個体が入り込む余地はありません」
「なんですの、その言い方は! 私だって、お姉様を支える右腕のポジションを狙っているのですわよ!」
「右腕は、私です。あなたはせいぜい、荷物持ちの補助要員程度の演算結果しか弾き出せません」
「なっ……!?」
二人の少女の視線が、空中でバチバチと火花を散らした。
一方は、圧倒的な武力と、私との間で培ってきた絶対的な絆を誇る最強の少女。
もう一方は、底知れぬ熱量と直向きな敬意を武器に、私の懐へ強引に飛び込んできた爆走お嬢様。
まさか、私の両隣を巡って、こんな風に火花が散る日が来るなんて、数ヶ月前の私には想像すらできなかったことだった。
「あのね、二人とも……。私はここに座っているだけで、どこにも行かないから、そんなに睨み合わないでちょうだい」
私が苦笑いを浮かべながら二人の頭を軽く叩くと、リリィは不満そうに頬を少しだけ膨らませ、私の方をじっと見上げてきた。
「……サクラが、あの騒がしい個体にばかり構うから、私の演算プロセスの機嫌が少し悪くなっています」
「あら、リリィってば、もしかして焼きもちを妬いているのかしら?」
「やきもち……? 未知の単語です。ですが、私の胸の奥がチクチクと熱く疼くこの現象は、おそらく異常値を示しています」
無自覚にそんな破壊力抜群の言葉を口にするリリィと、それに負けじと胸を張るグレイス。
二人の間に挟まれた私は、呆れと気恥ずかしさが入り混じりながらも、心の底から温かいものを感じていた。
かつて孤独だった私。
そして、感情を持たなかった彼女。
そこに、こんなにも真っ直ぐで不器用な仲間が加わってくれた。
◇
授業が始まり、放課後の時間が訪れても、その三角関係(?)の構図は変わらなかった。
学園の図書室。
静まり返った書棚の隙間に、私たちの姿はあった。
私は歴史的な魔導文献の解析を進めており、その向かい側には、グレイスが山のような参考書を積み上げて必死にノートをペンで走らせている。彼女の言う「お姉様の教えを学ぶ」という名目のもと、なぜか私の勉強に強制的に付き合わされている形だった。
「うう……この古い古文書の構文、何度読んでも意味がチンプンカンプンですわ……」
グレイスが頭を抱え、赤銅色の二つ結びを揺らしながら机に突っ伏した。
「基礎的な魔力回路の展開式を飛ばしているからよ。ほら、ここを見て。この第三節の係数を変えるだけで、式全体がすっきりとまとまるでしょう?」
私が彼女のノートを覗き込み、ペン先で修正すべき箇所を指し示すと、グレイスは目を見開いて感嘆の声を漏らした。
「さすがお姉様……! 霧が晴れるようにすっきりと理解できましたわ! 私、お姉様のお嫁さんにでもなったほうが、人生の幸福度が跳ね上がりそうですわ!」
「お嫁さんは流石に無理よ。私は男の人でも女の人でもなく、自分の研究と……それに、リリィがいるもの」
「むっ……!?」
私が何気なくそう答えると、斜め後ろに立っていたリリィの背筋が、ピンと直角に跳ね上がった。
彼女はいつの間にか私の椅子の背もたれに手を掛け、じっとグレイスを見下ろしていた。
その藍色の瞳には、ほんのりと誇らしげな、それでいてどこか牽制するような光が宿っている。
「……そうです。サクラの隣は、私のものです」
「ふんだ、そんなこと言って、いつまでもベタベタしているとお姉様に嫌われますわよ!」
「嫌われません。サクラは私の髪飾りを褒めてくれました。あなたにはありません」
「なっ……! そんな子供みたいな自慢を……! 私だって、今度お姉様のために特製のハーブティーを淹れて差し上げますわ!」
「私が淹れた紅茶のほうが、温度も成分もサクラの好みに最適化されています」
また始まった。
図書室の静寂を無視して、低く小さな声で繰り広げられる二人の小競り合い。
私はため息をつきながらも、ペンを置き、目の前で繰り広げられる賑やかな光景を眺めた。
静かで、冷たくて、孤独だった私の世界。
それが、こんなにも多くの温もりで満たされていく。
リリィの不器用な独占欲も、グレイスのまっすぐすぎる敬意も、すべてが愛おしくて、大切だった。
「ほら、二人とも、図書室だからあまり大きな声を出さないの。それと、グレイス、そこの計算がまだ終わっていないでしょう?」
「は、はいですわ、お姉様!」
「リリィも、手伝ってあげて。あなた、基礎的な数式なら私より早いんだから」
「……分かりました。仕方ありませんね」
リリィは小さく息を吐くと、不承不承といった態度を取りながらも、グレイスの隣の席に腰掛け、冷淡な口調で「ここが違います」とペンを動かし始めた。
グレイスは「むぅ、容赦ないですわね……!」と文句を言いながらも、素直にリリィの指導を受け入れている。
ぶつかり合いながらも、お互いの居場所を確かめ合うように並んで座る二人の少女。
窓の外から差し込む夕陽が、三人分の影を一つの大きな形にして、床の上に優しく映し出していた。
明日も、明後日も、きっとこの賑やかで温かな日々は続いていく。
私はペンを握り直し、心の中でそっと微笑んだ。




