第29話:平穏のさざ波と、静かに忍び寄る不協和音
陽だまりの中で交わす何気ない笑い声こそが、いつか世界が失ってしまうかもしれない最も尊い宝物だと、私は知っている。
あの大闘技場での壮絶な手合わせを経て、グレイス・バイオレットという少女は、完全に私たちの日常へとなだれ込んできていた。
元々は静けさと心地よい緊張感に包まれていた私とリリィの日常は、いまや一変し、朝から夕方まで賑やか――というよりは、文字通り騒々しい熱量で満たされている。
「サクラお姉様! 本日のお昼の特別メニュー、王都直送の苺タルトの限定販売が開始されましたわ! 我がバイオレット家の脚力をもって、一番乗りで確保してまいりましたわー!」
昼休みの学園食堂。
大勢の生徒たちが交わす雑談の声を軽々と突き破り、豪快な宣言とともにグレイスがトレーをテーブルへと叩き置いた。
そこに乗せられているのは、見るからに甘そうな赤々とした苺が山盛りにされた可愛らしいタルトが二つ。
「まあ、すごいのねグレイス。でも、どうして二つなの? 私たちは三人いるけれど……」
「ふふん、お姉様! 一つはお姉様の分、そしてもう一つは私とリリィさんで……我が武の誇りを懸けた、真剣勝負の果てに勝ち取った者が口にするのですわ!」
「争わずに半分こすればいいじゃない……」
私が呆れ顔で小皿を引き寄せようとした瞬間、真横からすっと伸びてきた小さな手が、トレーの上のタルトを一個、迷いのない動作で回収した。
「……確保完了。サクラの糖分補給用として受諾します」
「なっ……! リリィさん、卑怯ですわ! 私が命がけで食堂の人波を破って確保したタルトを、横からかっさらうなんて……!」
「私の手元への到達速度は、あなたの反応速度を〇・三秒上回っていました。過失はあなたにあります」
リリィは無表情のまま、フォークで小さく切り分けたタルトを私の口元へと差し出してきた。
「サクラ、あーしてください。ビタミンと糖分の摂取効率が最適化されています」
「あ、ありがとうリリィ。……ほら、グレイス、もう一つのタルトは二人で分けるといいわ。私が半分あげるから」
「お、お姉様……! なんというお優しさ……! リリィさん、見なさいな、これこそが真の指導者の器というものですわ!」
「……サクラが優しいのは、私の計算の既定事項です。あなたが威張ることではありません」
ふくりと小さな不満を顔に出しながらも、リリィは素直にフォークを動かし、グレイスと半分ずつタルトを分け合っている。
ぶつぶつと文句を言い合いながらも、お菓子を口に含んだ瞬間に二人揃って幸せそうに目を細める姿は、どう見ても微笑ましい仲良しそのものだった。
◇
午後からの『古代高位魔術概論』の講義でも、グレイスの破天荒さは遺憾なく発揮された。
「――以上の術式構成において、第三節の魔力干渉を最小限に抑えるためには、従来の二段階増幅陣を用いるのが定石とされています」
壇上で教官が黒板に複雑な幾何学陣を描きながら解説を進めていた、その時だった。
「異議あり、ですわ!!」
最前列で力強く挙手したグレイスの声が、静まり返った大講堂に響き渡った。
「教官! そのような回りくどい二段階増幅など、根性と身体強化で魔力を強引に三倍まで押し上げれば、一瞬で解決する問題ではありませんの!?」
「バイオレット候補生……何度も言っていますが、これは純粋魔術の理論講義です。脳まで筋繊維でできているような理論の跳躍は慎みなさい……」
「なんですとー!? 実践で使えない理論など、ただの机上の空論ですわ! サクラお姉様もそうお思いでしょう!?」
「えっ、私に振らないでちょうだい……!」
突然振られた私は思わず額を押さえた。
教官の頭痛に満ちたため息と、周囲の生徒たちのくすくすという忍び笑い。けれど、誰も彼女を嫌悪してはいなかった。突拍子もない言動の裏にある純粋な熱意を、学園の全員がもう知っていたからだ。
「……グレイス・バイオレットの提案は、理論値としては過負荷による自爆率八十パーセントを示しますが、彼女の規格外の肉体耐久力に限定すれば成功率六十パーセントまで上昇します」
真面目な顔で隣から追撃の補足を加えるリリィ。
「リリィまで援護射撃しないで……!」
教官の困惑は深まるばかりだったけれど、そんな押し押し問答すらも、今の私にとっては愛おしい日々の風景の一部だった。
◇
日が傾き、放課後の茜色の光が学園の長い廊下を染め上げる頃。
二人が訓練場へ先に向かった後、私は一人、資料室の魔導端末の前に残っていた。
静まり返った部屋の中で、羊皮紙に羊毛筆で数式を書き足していく。
今日、学園の防衛結界の維持ログをチェックしていた時に感じた、ほんのわずかな違和感。
「……おかしいわね」
指先に僅かな魔力を込め、王都全体を網羅する広域魔導警備網の公開データを端末へと呼び出す。
画面に浮かび上がるのは、幾何学的な光の波形。
普通なら、美しい規則正しい正弦波を描いて安定しているはずのパルス。
けれど――その波形の最下層、人間の知覚では絶対に感知できない極小の周波数帯に、不自然な「揺らぎ」が混ざり込んでいた。
ノイズ。
まるで、誰かが王都の防衛網の裏側で、極小の鍵穴を一つずつこじ開けているかのような、規則的で冷酷な干渉痕。
「これは……ヴァルターの仕業じゃないわ。あの男のハッキング手口はもっと苛烈で、攻撃的だった。……これはもっと繊細で、深く、網の目を潜り抜けるような……」
胸の奥が、冷たく冷えていく感覚。
あの襲撃事件は、錬金術師ヴァルター・フォン・クロイツの逮捕によって終わったはずだった。
けれど、彼が学園の結界を侵食した際に使用した「裏のパスワード」――その残滓を利用して、王都全体の警戒網を少しずつ侵食している「何か」が存在する。
「サクラ?」
背後から、静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには短鉈の手入れを終えたリリィが立っていた。
銀髪を夕日に輝かせながら、彼女は私の手元の端末と、引きつった私の表情を藍色の瞳で見つめている。
「何か……不整合が観測されましたか?」
「リリィ……」
私は画面を消去し、一呼吸置いてから彼女へと向き直った。心配をかけたくはなかったけれど、隠すことなどできるはずもなかった。
「王都の魔導警備網に、奇妙なノイズが走り始めているの。……まだ実害は出ていないけれど、まるで大きな網をじわじわと裏から解いているような、嫌な予感がするわ」
リリィの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
彼女は私の前に歩み寄ると、私の震える指先を、自らの温かな両手で優しく包み込んでくれた。
「どのような不協和音であろうと、サクラの描く軌道を乱すことはさせません。……私の刃は、サクラの指示に従います」
「ええ……ありがとう、リリィ」
「おーい! サクラお姉様、リリィさん! いつまで残っていらっしゃいますのー! 夕食の肉料理が冷めてしまいますわよー!」
廊下の向こうから、階段を駆け上がってくるグレイスの豪快な声が響き渡った。
私はリリィと顔を見合わせ、思わず小さく吹き出してしまった。
不穏な影は、確かに忍び寄っている。
けれど――私には、もう恐れるものなんて何一つなかった。
「行きましょう、リリィ。私たちの温かな日常を守るために」
「肯定。……サクラの隣で、どこまでも」
夕闇が迫る学園で、私たちは手を繋ぎ、眩しい声の待つ場所へと歩み出した。




