第20話:解き放たれし紅蓮と、静寂なる絶望の暴風
あなたのために捨てる覚悟があるのなら、この命の全てを燃やしてでも、あなたの行く手を阻む暗闇を焼き尽くしてみせる。
首筋に食い込む冷たい影の刃。伝う真紅の熱。
私を盾にして、リリィの未来を奪おうとする錬金術師ヴァルターの醜悪な笑みが、目の前に迫っていた。
リリィの足が止まり、その小さな手が震えていた。私という足手まといを守るために、彼女は己の誇りも自由も捨てて、あの忌まわしい過去の暗闇へと自ら戻ろうとしていたのだ。
(ふざけないで……!)
私の命は、リリィの犠牲の上に成り立つような安っぽいものじゃない。
「凡才」と見捨てられた私に、生きる意味と誇りをくれたのは他ならぬ彼女だった。そのあの子の未来が、私のせいで塗り潰されようとしている。
「私はフィズ伯爵家の娘! あなたという最高のパートナーを手に入れたサクラ・フィズよ!」
叫びと同時に、私は己の体内の魔力回路のすべてを、暴走の極限へと叩き落とした。
普通なら魔術師として再起不能になるほどの無茶な過負荷。魔力量124という極小の器に、許容量を超える魔力を力任せに注ぎ込み、圧縮し、点火する。
「な……何をする気だ、凡才の小娘が!?」
ヴァルターの顔から余裕が消え、狼狽の色が走った。
「一緒にはいかせないわ……! 私とリリィの邪魔をするな!!」
――極大過熱爆発。
至近距離、男の懐の真ん中で、私は自らの魔力を起点とした純粋な火炎の暴風を炸裂させた。
強烈な爆音と熱風が私とヴァルターの身体を等しく吹き飛ばす。
胸を灼くような激痛と衝撃が全身を襲い、私の視界が真っ赤に染まった。首筋を縛っていた黒い影の刃が粉々に吹き飛び、私の身体は宙を舞って、冷たい石畳の上へと激しく叩きつけられた。
「ぐ、あ……っ!」
皮膚が焼け焦げ、激痛で息が止まる。
けれど、私は血を吐き出しながら、必死で顔を上げた。
数メートル先で、衣服を焦がしたヴァルターが這い上がり、怒りに顔を歪めているのが見えた。
私は成功したのだ。
相打ち覚悟の一撃で、人質という呪縛を断ち切り、彼女を解き放った。
「り……りぃ……っ」
掠れた声で、彼女の名を呼ぶ。
煙と火の粉が舞い散る闘技場の真ん中で。
そこに立っていたのは、もう「怯える少女」ではなかった。
大気が凍る
爆風の音が引き破られたあとの世界から、あらゆる雑音が消え去っていた。
リリィはゆっくりと立ち上がっていた。
その手には、あの無骨な二本の鉈剣が握られている。
表情は、相変わらず無機質だった。
涙も、激昂の叫びもない。ただの血の通わない人形のように、一切の感情を削ぎ落とした静かな顔。
けれど――彼女の体軸から放たれているのは、空間そのものを凍りつかせるような、狂おしいまでの絶対的な絶望と怒りだった。
藍色の瞳が、ゆらりとヴァルターを捉える。
「……サクラを傷つけた」
静かな、透き通った声が、静まり返った闘技場に落ちた。
「サクラの皮膚を裂き、その温かい血を流させた。……万死に値します」
ヴァルターの全身から、嫌な汗が吹き出した。
「ひっ……! やれ! 仕留めろ! 最高傑作を破壊しろ!!」
ヴァルターの狂った悲鳴に応え、周囲を取り囲んでいた数十頭の量産型ホムンクルスが一斉に跳躍した。
感情のない灰色の肉体が、殺戮の刃を振りかざし、黒い雨のようにリリィの頭上へと降り注ぐ。
だが――
リリィの姿が、消えた。
踏み込んだ一歩。
その衝撃で石畳が砕け跳ねる音すら、後方に置き去りにされる。
間合いという概念が、空間から消滅していた。
空気を切り裂く金属音が、遅れて世界を震わせる。
一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。
跳躍していた十数頭の量産型ホムンクルスたちが、空中でぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、彼らの首、肩、胸部、腰から、真横に滑らかな亀裂が走り――大量の朱色の体液を撒き散らしながら、一斉にバラバラの肉片となって地面へ崩れ落ちた。
刃が通り抜けたあとに、切断の事実が訪れる。
全てを置き去りにする、凄絶な連撃。
「な……なんだ、今の動きは……!?」
残された量産型ホムンクルスたちが、命令プログラミングを狂わせるほどの速度。
リリィの振り下ろす鉈剣は、もはや剣技などという生易しいものではなかった。
自然界の猛威。あるいは、全てを無へと還す死の嵐。
右へ一閃すれば、群がる数頭の頭部が滑らかな断面を残して宙を舞う。
左へ一突きすれば、強固な装甲を持つ個体の核が、衝撃波とともに内側から粉砕される。
退くことも、防ぐことも、避けることすら許されない。
比喩ではなく物理的に大気を切り裂いて生じる真空の筋が、迫り来る肉の人形たちを容赦なく解体していく。
「ギシャアァァァッ!?」
声にならない断末魔すら、刃の前に掻き消されていく。
三十、四十、五十――。
ヴァルターが呼び寄せた悪夢の群れが、わずか数秒の間に、ただの言論の余地もない肉の泥へと変えられていった。
「ひ……ひいいいっ!?」
逃げ惑っていた生徒たちも、救援に駆けつけてきた教官たちも、言葉を失ってその光景を見つめていた。
あまりにも苛烈で、あまりにも圧倒的な暴力。
あの殺戮の台風の暴風域に入ってしまえば、敵であろうと味方であろうと、一瞬で命を散らすことになる――見ている者の本能が、死の恐怖に震え上がっていた。
だが、私は知っていた。
あの無感情な顔の裏側で、リリィの心が悲鳴を上げていることを。
私を傷つけられたことに対する、自分自身の無力さに対する、狂おしいほどの愛と絶望が、彼女をあの鬼神のような姿へと変えさせているのだと。
「ヴァルター・フォン・クロイツ」
肉の泥の真ん中で、リリィがゆっくりと振り向いた。
彼女の群青色のドレスには、奇跡的に一滴の血すら付着していない。
絶望的な速度と精度で返り血すら全て遮断していたのだ。
二本の鉈剣から、ポタリ、ポタリと透明な魔力の雫が落ちる。
「あなたの存在は……サクラの平穏に対する著しい障害です。……これより、完全なる解体を実行します」
リリィの瞳に、冷酷な氷刃のような光が宿る。
冷酷な錬金術師ヴァルターは、尻餅をついたまま、無様に後ろへ這いずり回った。
かつて自分が「最高傑作」と呼び、実験道具として嘲笑っていた少女。
その少女が、一人の「凡才令嬢」のために解き放った本気の狂気を前に、男のプライドも狂気も、全てが潰れ去ろうとしていた。




