第19話:繋がれた首筋と、気高き少女の叫び
私を守るためにあなたがその刃を捨てるくらいなら、私は自分自身の誇りにかけて、死すら恐れずに立ち向かう。
混乱と絶叫が渦巻く大闘技場。
無感情な灰色の皮膚を持つ量産型ホムンクルスたちが、刃を振りかざして生徒や教官たちへとなだれ込んでいた。
「右三十度、二頭同時に来るわ! 足元への音波干渉で姿勢を崩すから、一閃で首を落として!」
「了解」
私の指示と同時に、リリィの足が地を蹴った。
無駄な飾りのない二本の鉈剣が、宙を舞う灰色の肉塊を一直線に切り裂いていく。音が遅れて追いつくほどの凄絶な連撃。私の『精密な状況解析』と、リリィの『音すら置き去りにする速度と敵を両断する膂力を生み出す肉体』が完全に噛み合い、迫り来る敵を次々と物片へと変えていた。
「すごい……あの二人、あの化け物どもを圧倒してる……!」
「逃げろ! あいつらの後ろへ回れ!」
パニックに陥っていた生徒たちが、私たちの背後へとなだれ込んでくる。
私は手元の魔導符を休む間もなく滑らせ、負傷した生徒たちを包み込むように防護陣を展開した。
これならいける。
学園の警備隊が態勢を立て直すまで、私とリリィで防衛線を維持できる――そう確信した、まさにその瞬間だった。
不意に、足元の影が不自然な蠢きを見せた。
「――しまっ!?」
察知したときには、すでに遅かった。
足元の石畳から、黒い泥のような液体が激しく噴出し、私の全身へと巻きついてきたのだ。
「サクラ!?」
リリィが叫び、風のような速度で私へと手を伸ばす。
しかし、黒い液体は一瞬にして硬質な刃の形状へと変化し、私の首筋に冷たい鋼の感触を突きつけた。
「動きを止め給え、最高傑作」
背後の影から、ぬっと現れたのは――深緑の長衣を纏った男、ヴァルター・フォン・クロイツだった。
彼の細い指先が、黒い影の刃を操作している。
冷ややかな刃先が、私の喉元の皮膚にうっすらと食い込み、真紅の血が筋となって白肌を伝い落ちた。
「動けば、この娘の首筋の動脈を容赦なく切り裂く。君の恐ろしいほどの移動速度をもってしても、この距離での切断を防ぐことは不可能だ」
ヴァルターの眼鏡の奥の瞳が、狂おしいほどの愉悦に濡れていた。
周囲の量産型ホムンクルスたちが一斉に動きを止め、私たちを取り囲むように包囲網を形成する。
「サクラ……っ!」
リリィの足がピタリと止まった。
二本の鉈剣を握る彼女の小さな手が、激しく震え始める。
普段の冷徹で感情のない瞳が、見たこともないほどの激動――底なしの恐怖と焦燥に染め上げられていた。
「おや、素晴らしい反応だ」
ヴァルターは私の髪を強引に掴み上げ、私の首筋にさらに深く刃を押し当てながら、満足そうに低く笑った。
「かつての君なら、人質の命など計算の余地なく切り捨てていただろうに。実に人間に近づいたものだ。……だが、そのくだらない『心』こそが、兵器としての君の致命的な弱点なのだよ」
ヴァルターは冷酷な冷笑を浮かべ、命令を下した。
「武器を捨てろ、リリィ。そのまま手を頭の後ろで組み、膝をつくんだ。大人しく我々の施設へと戻ってもらおう。……さもなくば、この凡才令嬢の首を今すぐここで跳ね飛ばす」
静まり返る闘技場。
悲鳴を上げていた周囲の生徒たちも、息を呑んでその光景を見つめることしかできなかった。
「……サクラ……」
リリィの口から、消え入りそうな声が漏れた。
彼女の視線が、私の首筋から流れる赤い血に注がれている。
彼女にとって、私は自分の不完全な心に温もりをくれた、世界でたった一つの存在。それを失う恐怖が、彼女の脳内のすべての戦闘アルゴリズムを麻痺させていた。
リリィの手から、力が抜けた。
あの巨大な炎すら切り裂き、いかなる死地をも解体してきた二本の鉈剣が、ガシャリと音を立てて冷たい石畳の上へと落とされた。
「リリィ……!?」
「命令を……受諾します」
リリィは無感情な声を作ろうとしながら、その両膝をゆっくりと地面へつこうとしていた。
彼女の瞳から、光が消えていく。自分自身の自由も、未来も、生きる意味のすべてを投げ打って、ただ私の命を守るためだけに、あの忌まわしい過去の暗闇へと戻ろうとしている。
私を守るために、あの男の道具へと戻ろうとしている――。
その光景を見た瞬間。
私の胸の奥で、激しい怒りと、絶対に譲れない誇りが爆発した。
(ふざけないで……!)
喉元に食い込む刃の痛みなぞ、どうでもよかった。
名門フィズ家に生まれながら「凡才」と蔑まれ、それでも諦めずに努力を重ねてきた私の人生。
そして、そんな私を「美しい」と認めてくれ、私に人間としての温もりを教えてくれた少女。
そのあの子の尊厳が、あの子の未来が、私という足手まといのせいで踏みにじられようとしているのだ。
「――ダメよ、リリィ!!!」
私は腹の底から、喉が千切れんばかりの叫びを上げた。
「サクラ……?」
膝をつきかけたリリィが、弾かれたように顔を上げた。
「武器を拾いちなさい、リリィ! 立つのよ!!」
私は首筋の痛みを無視し、ヴァルターの拘束を跳ね返すように、強く胸を張って言い放った。
「私はフィズ伯爵家の娘! 血の滲むような努力でこの学園に立ち、あなたという最高のパートナーを手に入れたサクラ・フィズよ!」
視界が涙と怒りで滲む。けれど、私の声には微かな震えすら混ざっていなかった。
「人質になってあなたの足を引っ張り、あなたをあの冷たい地獄へ送り返すくらいなら――私は今ここで、自分の舌を噛み切って死んでやるわ!!」
「なっ……!?」
ヴァルターの顔から、余裕の笑みが消え去った。
私は本気だった。
奥歯に力を込め、躊躇なく自分の命を絶つ覚悟を、その瞳に宿して男を睨みつけた。
私が死ねば、人質としての価値は消える。
そうなれば、リリィを縛る鎖は存在しなくなるのだから。
「バカな……! たかが凡才の小娘が、死を恐れないだと……!?」
ヴァルターが焦りを露わにし、私を組み伏せようとした、その瞬間。
世界から、すべての音が消え去った。
「――サクラ」
リリィの声だった。
地表に落ちていた二本の短鉈が、彼女の手へと戻っていた。
膝をつきかけていた彼女の小柄な身体から、いままで見たこともない、漆黒と群青の混ざり合った圧倒的な圧力が噴出していた。
彼女の瞳に宿っていた恐怖は、完全に消えていた。
代わりにそこに在ったのは――大切な人を傷つけられたことに対する、狂おしいまでの絶望的な激怒。
「サクラが……私に命をくれたサクラが、自分の命を棄てようとしている」
リリィの足元から、石畳がクモの巣状に砕け散る。
「サクラを苦しめる全てを……この世界の理不尽の全てを……解体します」
ヴァルターの顔が、恐怖で引きつった。
「ひっ……!? しまっ――」
私を盾にしようとヴァルターが影の刃を引き絞ろうとしたコンマ一秒前。
私の頭脳と、彼女の絆が、言葉を超えて重なり合った。
(今よ、リリィ!!)
私は自ら首筋を刃へと押し付け――そして、絶妙な角度で身体をひねり、男の懐から全力で離脱した。
解き放たれた真の最高傑作が、虚空を切り裂いて躍り出た。




