第18話:狂った時計の針と、砕かれし平和の幕開け
平和という名の優しさに守られていた時間は、ただ嵐が牙を剥くまでの猶予に過ぎなかった。
競技会本戦の熱気は、学園全体を包み込む大きなうねりとなっていた。
中央闘技場を埋め尽くす大歓声。幾重にも張り巡らされた防衛結界が、午後の光を受けて鮮やかな虹色の幕を揺らしている。予選を破竹の勢いで突破した私――サクラ・フィズとリリィの存在は、すでに会場中の注目の的となっていた。
「サクラ、体内の魔力循環は依然として完璧な数値を維持しています。本戦への支障はありません」
選手用控え室の陰で、リリィが静かな声で私に告げた。
制服の袖口から覗く華奢な手首。その滑らかな肌に指を重ねると、私の緊張を解きほぐすような温かな体温が心地よく伝わってくる。
「ありがとう、リリィ。あなたの分析があるから、私は迷わずに指示を出せるわ」
私が微笑みかけると、リリィの藍色の瞳が小さく揺れた。
昨夜、自室で彼女が流した涙。自分の醜い生い立ちを明かし、それでも私の「大切なルームメイト」としてここにいることを選んでくれた少女。私たちはもう、単なる演習のペアなどではない。お互いの命と未来を預け合う、世界でたった一つの絆で結ばれた存在なのだ。
「次の本戦第一試合、サクラ・フィズ選手、ならびにリリィ・キャロル選手は入場口へ移動してください」
係員のアナウンスが響き、私は軽く息を整えて立ち上がった。
「行きましょう、リリィ。私たちの力、見せてあげましょう」
「了解。……サクラの指し示すままに」
二人並んで光の差し込む大闘技場の通路へと足を踏み出した、まさにその時だった。
――異変は、前触れもなく訪れた。
キィィィィン……ッ。
耳の奥を直接刺すような、酷く不快な高音が空間全体を揺らした。
「え……?」
私が空を見上げた瞬間、大闘技場全体を覆っていた巨大な多重防衛結界の表面に、黒く生々しい亀裂が走った。
虹色の光が瞬く間に濁った紫色へと汚染されていき、空間そのものが異音を上げて軋み始める。
「何だ……!? 結界が崩壊していく!?」
「誰かが内部から結界の制御陣を書き換えているぞ!」
観客席に座っていた教官たちが一斉に跳ね起き、怒号を響かせた。
だが、彼らが防御魔法を展開するよりも速く、不気味な亀裂は世界を破壊するように弾け飛んだ。
ドガァァァンッ!!
空中で破砕した結界の結晶が、幾千の鋭い光の刃となって降り注ぐ。
悲鳴と怒号が重なり合い、さっきまでの華やかな祝祭の空気は、一瞬にして惨劇の地獄絵図へと塗り替えられた。
「サクラ、下がってください!」
リリィが瞬時に私の前へ滑り込み、頭上から降り注ぐ巨大な結界の破片を、抜く手も見せぬ短鉈の一閃で粉砕した。
散らばる光の粉末の中で、私たちは天を仰いだ。
崩壊した結界の向こう側――空に開いた不気味な暗黒の穴から、無数の「何か」が雨のように降り注いできたのだ。
ドサッ、ドサドサドサッ……!
石畳のグランドや観覧席へ重い音を立てて着地したのは、人間と酷似した体躯を持つ異形の群れだった。
全身を覆うのは、感情というものを一切削ぎ落とした無機質な灰色の皮膚。
服は纏わず、関節の隙間からは紫色の液剤が滴り、生気のない眼球が狂気のように虚空を見つめている。手に握られているのは、殺戮のためだけに鍛え上げられた無骨な鉄の刃。
「何だあいつらは……魔物じゃないぞ!?」
「人間……? いや、息をしていない!?」
混乱する生徒たちの間で、リリィの呼吸が急速に硬くなった。
彼女の体軸がコンマ数ミリ沈み込み、制服の裏に隠された二本目の鉈剣へと指がかかる。
「……個体識別名、不適合。……『量産型ホムンクルス』。自我を持たない、純粋な戦闘用歩行人形です」
リリィの声は、氷のように冷たく、けれどどこか僅かに震えていた。
「あの肉体構造……かつて私を生み出した研究所の、旧型製造ラインの規格と完全に一致します。命令受諾と殺傷行動のみを繰り返す、命なき兵器です」
「量産型……ホムンクルス……!?」
私の脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。
特別講師――ヴァルター・フォン・クロイツ。
あの大講堂で、リリィに対して薄気味悪い執着を見せていたあの男が、ついにその牙を剥いたのだ。
「ギシャアァァァァッ!!」
量産型ホムンクルスたちが、一斉に耳障りな不快音を漏らした。
彼らには恐れも、躊躇もない。ヴァルターから叩き込まれた殺人プログラムに従い、近くにいる生徒や教官たちへ向かって怒涛の勢いで襲いかかっていく。
「きゃああああああっ!?」
「助けてくれ! 腕が……腕が噛み切られたぁぁっ!」
観客席は一瞬にして パニック状態に陥った。
本来なら優秀な魔術師であるはずの上級生たちも、突然の襲撃と、痛みすら感じずに刃を振り下ろしてくる狂気の肉人形たちの前に、次々と倒れていく。血の匂いが、風に乗って闘技場全体に広がっていった。
「サクラ、指示を」
血の海となりかけた混乱の中で、リリィは私だけにその藍色の瞳を向けた。
「敵個体数、推定二百以上。ターゲットは本学園の全生存者、および……私です。……サクラ、私が前線を食い止めます。サクラは安全な地下通路へ退避を」
彼女は私を庇うように一歩踏み出そうとした。
だが、私はその細い腕を、強く掴んで引き止めた。
「逃げるわけないでしょ!!」
「サクラ……!?」
私は涙を拭い、激しい怒りと確固たる意志を宿した目でリリィを見つめ返した。
「あの男の狙いはあなたよ、リリィ! ここで私が逃げたら、あなたがまたあの冷たい過去へ引き戻されちゃうじゃない! そんなの、絶対に許さないわ!」
私はポケットからすべての魔導符を取り出し、指先に挟み込んだ。
「生徒たちを救いながら、あいつらを全部叩き潰すわよ! 私の頭脳と、あなたの刃で……この学園を、私たちの場所を守り抜くの!」
リリィの瞳が、一瞬大きく見開かれた。
やがて、彼女の無機質だった顔に、私に対する絶対的な信頼と、熱い熱量が宿る。
「……肯定。サクラの意志を最優先受諾します。……私を操縦してください、サクラ」
二本の鉈剣が、闇を裂くように抜かれた。
阿鼻叫喚の地獄へと変貌した学園の真ん中で、凡才の頭脳と最強の少女が、大切な日常を守るための本当の戦いへと躍り出た。




