第2話:ボタンの掛け違いと、温かい手のひら
「普通」を知らない少女に「温もり」を教えるのは、想像以上に甘くて、ちょっぴり切ない時間だった。
鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかい朝の光で目を覚ました。
まぶたを擦りながらベッドの上で体を伸ばし、私は昨夜の出来事をうっすらと思い出す。そうだ、今日から始まったんだ。見知らぬ少女との、二人きりの寮生活が。
「……ん」
ふと視線を横に向けると、息が止まりそうになった。
お隣のベッドの上で、リリィが凛とした姿勢でちょこんと正座していた。
乱れ一つない銀色の髪。膝の上に揃えられた小さな手。まるで最初からそこに飾られていた美術品のように動かず、じっと私を見つめている。
「ひゃいっ!? り、リリィ!? いつから起きてたの!?」
「おはようございます、サクラ。私の覚醒時刻は四時三十分です。サクラの睡眠を阻害しないよう、待機状態を維持していました」
「四時半って早すぎでしょ……! それに待機って、ずっとそこで正座して私を見てたの!?」
「肯定。サクラの寝顔は無防備で、警戒心が皆無でした。防犯上の観点から言えば、非常に危険です」
「人の寝顔を勝手に評価しないで!」
朝一番からのツッコミで、一気に目が冴えてしまった。
私はガバッと掛け布団を跳ね除け、乱れた髪を手ぐしで整えながら溜息をつく。けれど、ふと思い直してリリィの顔を見た。無表情な藍色の瞳が、まっすぐに私を捕らえている。
「……あー、ううん。そうじゃないわね。まず最初に言うべき言葉があったわ」
私は膝の上に手を置き、照れくささを抑えながらリリィに向き直った。
「おはよう、リリィ。よく眠れた?」
「……お、はよう……?」
リリィは首をかしげ、不思議そうにその言葉を反芻した。
「おはよう、とは……朝の挨拶としての定型句ですね。相手の睡眠状態や健康を気遣うためのコミュニケーションプロトコル……」
「難しく考えないの! 『おはよう』はね、『今日という日をあなたと一緒に気持ちよく始められて嬉しい』っていうおまじないみたいなものよ。だから、返事はこう言うの」
「……おはようございます、サクラ」
少しだけ口元を緊張させながら、リリィがたどたどしく言葉を紡ぐ。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。昨夜まで床で寝ようとしていたこの子が、ちゃんとベッドから私に「おはよう」と言ってくれた。それだけで、なんだかものすごい偉業を達成したような誇らしさがあった。
「よし! 上出来よリリィ。さあ、顔を洗って着替えましょう!」
◇
しかし、感動の朝は一瞬で打ち砕かれた。
「ちょっとリリィ、待ちなさい! 何をしてるの!?」
「着替えです」
顔を洗い終え、制服に着替える段階になって、私はまたしても頭を抱えることになった。
学園から支給された真新しい白いブラウス。リリィはその一番上のボタンと三番目のボタンを掛け違い、すそをスカートの外にダラリと出していた。さらに悲惨なのは首元だ。本来なら可愛らしく結ぶはずのエンジ色のリボンが、どうやったらそうなるのか、禍々しい固結びになって解けなくなっている。
「着用手順を簡略化しようと試みたのですが……この構造は、非常に非合理的です。装飾が多く、緊急時の脱衣速度が著しく低下します」
「制服に緊急時の脱衣速度なんて求めなくていいの! あーもう、じっとしてて!」
私は解けなくなったリボンと格闘しながら、リリィの前に立った。
一旦リボンを解き、ぐちゃぐちゃになったブラウスのボタンを一つずつ外していく。
「あ……」
ボタンを外した隙間から、リリィの白い肌が見えた。
華奢で、透き通るような肌。だが、その鎖骨のあたりに、痛々しい筋状の痕跡が残っていることに気づいて、私の手が止まった。
「……これ、傷?」
「過去の施術痕です。魔力回路の植え付けと、肉体の強化処置の際に生じた副産物……機能に支障はありません」
リリィは他人事のように淡々と言う。
昨夜、お風呂に入った時もそうだった。
彼女は最初、浴室に入るなり服を脱ぎ捨て、桶の冷水をそのまま頭からかぶって「洗浄完了です」と言い切ったのだ。私が「嘘でしょ!?」と悲鳴を上げて湯船に連れ戻し、体を洗ってあげた時のことを思い出す。
彼女の体には、小さな背中や太ももにも、幾筋もの切開痕や火傷のような痕が残っていた。
『痛くなかったの?』と尋ねた私に、リリィは『痛覚は遮断されていました。ただ、身体が熱く、不快であった記憶はあります』と静かに答えた。
彼女がどんな場所で生まれ、どんな風に扱われてきたのか。言葉にしなくても、その傷痕が雄弁に物語っていた。
「……サクラ?」
黙り込んだ私を心配したのか、リリィが覗き込んでくる。
「なんでもないわ。……はい、ボタンを掛け直すわよ」
私は胸の奥に湧き上がる切なさを押し殺し、努めて明るい声を出した。
一番下のボタンから、一つずつ、丁寧に穴に通していく。
「指先をこう使ってね、裏側から生地を押し出すの。わかる?」
「……肯定。視覚データとして記録しました」
「言葉で覚えるんじゃなくて、感覚で覚えてね。服を着るのは、自分を大切にするための第一歩なんだから」
ブラウスを整え、襟をピシッと伸ばす。そしてリボンの両端を持ち、ふんわりと綺麗な蝶々結びを作ってあげた。
「はい、できた! 鏡を見てごらんなさい」
私はリリィの背中を優しく押し、姿見の前に立たせた。
鏡の中に映るのは、完璧に制服を着こなした小柄な美少女だった。白地にエンジ色のアクセントが効いた学園の制服は、彼女の銀髪と綺麗な藍色の瞳によく映えている。
リリィは鏡に映る自分の姿を、不思議そうに、穴が空くほど見つめていた。小さな手で、胸元のリボンにそっと触れる。
「……崩れません」
「当たり前でしょ、解けないように綺麗に結んだんだから。どう? 似合ってるわよ」
「似合っている……。そう、ですか」
感情の起伏がないはずの声が、どこかほんの少しだけ、弾んだように聞こえたのは私の気のせいだろうか。
「次は髪ね。ちょっと座って」
椅子に座らせたリリィの背後に立ち、私はブラシを取った。
昨夜、お風呂で丁寧に洗い流し、ドライヤーの熱風で乾かした銀髪は、驚くほどさらさらで柔らかかった。
「お風呂もそうだけどね、リリィ。体を洗うのも、髪を梳かすのも、ただ『汚れを落とす作業』じゃないのよ」
「……作業では、ない?」
「そう。一日の終わりに『今日もお疲れ様』って自分の体を労ったり、朝に『今日も一日頑張ろう』って気持ちを整えたりするための時間なの。あたたかいお湯に浸かった時、どんな気持ちがした?」
「……身体の表面温度が上昇し、副交感神経が優位になった感覚がありました。……それと、胸の奥が、重たく、温かくなりました」
「それをね、『気持ちいい』とか『幸せ』って言うのよ」
ブラッシングを終え、サイドの髪を少しだけすくって、私が持っていた小さめのリボン留めで固定してあげる。
「はい! これでフィズ流・完璧なお嬢様の完成よ!」
「……お嬢様。私は、兵器ですが」
「今は学園の生徒! 私のルームメイト! 兵器なんて言ったら承知しないんだからね」
私がぷくっと頬を膨らませると、リリィは鏡の中の自分と、私の顔を交互に見比べた。
◇
身支度を終え、二人は部屋を出る準備を整えた。
鞄を持ち、ドアノブに手をかけたところで、リリィがすっと私の隣に並んだ。
「サクラ」
「ん? なに、忘れ物?」
振り返った私に、リリィは真っ直ぐな瞳を向けてきた。
その表情は相変わらず無機質で、人形のように静かだ。けれど、そこから発せられる言葉には、恐ろしいほどの強度が宿っていた。
「私の十五年間の生存記録において、観測された人間は合計三百四十二名です。その中には、私を造った錬金術師、私を買い取ろうとした軍人、そして私を拾った団長と傭兵団の構成員が含まれます」
「え、ええ……唐突にスケールの大きな話ね……」
「その三百四十二名の中で、団長は私に言葉を始めとした様々なことを教えてくれました。彼は私にとって、絶対的な指標です」
リリィは一度言葉を切り、小さな胸にそっと手を当てた。
「そして、サクラ」
「な、なに……?」
「あなたは、私が観測した全人間の中で――最も親切で、温かい人間です」
「――っ!?」
一瞬、心臓が跳ね上がった。
頬に一気に熱が集中するのがわかる。
「な、ななな、何言ってるの急に!? 私なんて、ただのお世話焼きで、自分のことで手一杯の平凡な魔術師よ!? 伯爵家の中じゃ出来損ない扱いされてるし、そんな大層な人間じゃ――」
「客観的な事実です」
照れ隠しでパニックになる私を、リリィは淡々と遮った。
「誰も私の服のボタンを留めてくれませんでした。誰も私の髪を解けないように結んでくれませんでした。お湯の温かさを『幸せ』だと教えてくれた人も、サクラが初めてです。データは明白です。サクラは、世界で一番親切です」
「〜〜〜〜っ!!」
ズルい。ズルすぎる。
こんな無表情で、こんな殺し屋みたいな生い立ちのくせに、どうしてそんな素直で破壊力抜群の言葉を平然と言えるのか。
名門フィズ家で「凡才」と蔑まれ、誰かに認めてもらうために死ぬ気で努力してきた私の心が、リリィの不器用で真っ直ぐな一言で、あっけなく救われていく。
「……もう。調子が狂うわね、本当に」
私は真っ赤になった顔を隠すようにそっぽを向き、バシッとリリィの背中を軽く叩いた。
「言っておくけど、私のお世話は甘くないわよ! 食堂でのマナーも、授業中のノートの取り方も、全部ビシバシ叩き込むんだから!」
「肯定。サクラの指導であれば、全データを無条件でインストールします」
「インストールとか言わないの! 『よろしくお願いします』でしょ!」
「……よろしくお願いします、サクラ」
今度は、迷いのない声だった。
部屋の扉を開けると、爽やかな朝の光が廊下いっぱいに広がっていた。
歩き出したリリィの手が、ふらふらと空を彷徨っているのに気づき、私は苦笑しながらその小さな手をギュッと握りしめた。
リリィがビクッと体を震わせたが、振り払おうとはしなかった。
むしろ、握り返してくる力は、驚くほど強くて、そして温かかった。
「行きましょう、リリィ。私たちの、最初の戦場へ!」
「肯定。サクラと共に、出撃します」
「だから出撃じゃないってば!」
廊下に響く私たちの足音と笑い声。
冷たい鉄の匂しか知らなかった少女と、自分の無力さに怯えていた私。
不揃いな二人の歩幅が、朝の光の中で、少しずつ重なり始めていた。




