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第1話:鉄の匂いと、床で寝る美少女


「人間らしく生きる」なんて、教科書にはどこにも書いていなかった。



 王立グランヴェル魔術学園の女子寮。その最上階の奥に位置する、今日から私が暮らすことになった二〇四号室の扉の前で、私――サクラ・フィズは深く息を吸い込んだ。

 魔術師の名門フィズ伯爵家の娘として、今日から新しい生活が始まる。歴代の優秀な魔術師たちと比べ魔力量も才能も平凡〜精々が筋が良い程度の自分が血の滲むような努力でどうにか掴み取ったこの学園への入学。今日からは、見知らぬ同級生との二人部屋での共同生活だ。


「……よし。大丈夫、どんなお相手でも、フィズ家の名に恥じぬよう誠意を持って接すれば……」


 自分に言い聞かせるように呟き、私は真新しい真鍮の鍵を鍵穴に差し込んだ。カチャリと静かな金属音が鳴り、ドアノブを回す。


「初めまして! 今日から同室になるサクラ・フィ――」


 意気揚々と踏み出した言葉は、喉の奥で氷のように凍りついた。

 部屋の中に漂っていたのは、新築の木造建築特有の爽やかな匂いでも、年頃の女の子らしい甘い香水のかおりでもない。

 ――ズッしりと鼻腔を突く、油と、冷たい鉄の匂い。


「……え?」


 夕刻の茜色が差し込む部屋の中央。

 ふかふかの絨毯の上にじかに座り込み、一心不乱に何かを動かしている影があった。

 白い肌に、透き通るような銀色の髪。十五歳にしてはあまりにも小柄で、華奢な少女だった。まるで上質な磁器人形のように美しいその少女の膝の上には――刃渡り二十センチはあろうかという、重厚で凶悪な厚みを持った二本の『鉈剣』が転がっていた。


 シュッ、シュッ、シャリ……。


 少女は砥石に少量の油を垂らし、無表情のまま、淡々とその物物しい刃を研いでいた。

 夕日を反射して、ギラリと鈍い銀色の光が眩しく閃く。


「ひ……」


 私の喉から、情けない悲鳴が漏れた。

 手に持っていた革の旅行鞄が、すぽんと手から抜け落ちて床に重い音を立てる。膝の力が一瞬で抜け、私はそのまま尻餅をついて扉の枠に激突した。


「ひやああぁぁぁぁっ!?」

「……?」


 私の絶叫に、少女はピクリと耳を動かした。

 ゆっくりと首がこちらへ向けられる。人形のように起伏のない、透き通った藍色の瞳が私を捕らえた。


 殺される。学園に入る前に、不審者に寮を占拠されて私は解体されるんだ――!


 パニックで呼吸が浅くなる私を見て、少女は研いでいた鉈剣を一本、すっと床に置いた。そして、もう一本の鉈剣を指先で軽々と弄びながら、平然とした声で口を開いた。


「……あ。あなたが、サクラ・フィズ、ですか」


 その声は、驚くほど透明で、美しかった。

 けれど、感情の起伏というものが一切存在しない。あらかじめ録音された音声を再生しているような、どこか辿々しく、どこか浮世離れした喋り方だった。


「な、ななな、なんで刃物!? あなた誰!? 学園の生徒!? なんでそんな物騒なものを磨いてるの!? っていうか、危険! 危ないからそれ置いて!」

「……りりぃ、です。リリィ・キャロル。今日から、あなたの、同居人です」


 リリィと名乗った少女は、首を小さく傾げた。その動作一つ一つが、どこか幼く、十五歳という年齢よりもずっと小さく見える。


「危険、ではありません。定期的な手入れを行わなければ、鋼は錆び、裁断の効率が低下します。これは、私の体の一部と同義です」

「いやそういう問題じゃなくて! 学園の寮内に武器を持ち込むのは校則違反……ううん、校則以前に防犯上どうなの!?」

「大丈夫です」


 リリィは淡々と、しかし真面目な顔で頷いた。


「団長から、『人前で不用意に刃物を剥き出しにしてはいけない』と、強く教育されています。ですので、私は外では出していません。ここは、私とあなたのプライベート領域……つまり『部屋』です。故に、セーフです」

「どこがセーフなのよ!? アウト中のアウトよ!!」


 腰が抜けて立ち上がれない私は、床を這うようにして後ずさった。

 団長って誰!? 誰がそんな謎のガバガバ判定をこの子に教え込んだの!?


「サクラ・フィズ。顔色が、悪いです。貧血ですか。それとも……何者かの、毒素の投与を受けた可能性がありますか?」

「あなたのせいよ! あと私の名前はサクラでいいわよ!」

「……理解しました。サクラ」


 リリィは無表情のまま「了解」と呟くと、手際よく布で油を拭き取り、二本の鉈剣を腰の革ベルトにある専用の鞘へと納めた。チャキン、という硬質で恐ろしい音が響く。

 彼女がすっと立ち上がると、その背の低さが際立った。百四十三センチ。私の肩のあたりまでしかない。

 華奢で、守ってあげたくなるような可憐な容姿。だが、その身体から発せられる気配は、熟練の傭兵か、あるいは長年戦場を生き抜いてきた獣のように隙がなかった。


(……この子、何者なの……?)


 私はどうにか壁をつたって立ち上がり、乱れた制服のスカートを整えた。

 深呼吸を三回。私は伯爵家の令嬢。落ち着きなさい、サクラ。相手はただの……ちょっと刃物が好きな、変わった同級生よ。


「ええと……リリィ、さん?」

「さん、は不要です。リリィ、と呼んでください。私も、サクラ、と呼びます」

「……わかったわ、リリィ。とにかく、刃物を手入れするのは結構だけど、次からは私に見えないところでやってちょうだい。心臓が持たないわ」

「肯定。サクラの精神的負荷を考慮し、今後のメンテナンスは死角にて行います」


 言葉遣いが独特すぎる。

 私は気を取り直し、部屋の中を見回した。

 二名用の部屋には、それぞれ左右にベッドと学習机、大きなクローゼットが用意されている。私の荷物はまだドアの前に転がっているが、リリィ側のスペースを見て、私は再び固まった。

 何もない。

 机の上には本の一冊もなく、クローゼットの扉は半開きで、中には予備の制服が着吊るされているだけ。

 そして、ベッドの上には――マットレスの上に直接、薄い毛布が一枚丸めて置いてあるだけだった。


「リリィ……あなたの荷物は?」

「これだけです」


 リリィが指さしたのは、部屋の隅に置かれた小さながま口型の革袋と、先ほどの鉈剣、そして手入れ用の道具一式だけだった。


「これだけ……!? 着替えとか、私生活の道具とか、女の子の私物とかは!?」

「制服は学園から支給されました。下着も三セットあります。衛生上の問題はありません。私物は……団長からもらった、木彫りの鳥が一つ。それで十分です」


 リリィはポッケから、荒削りな木彫りの小さな小鳥を取り出して見せた。愛おしそうにそれを指で撫でる様子は、年相応の少女のそれに見える。

 だが、生活感がなさすぎる。まるで、つい最近まで戦場の天幕で暮らしていたかのような……。


「まあ、荷物が少ないのは個人の自由だけど……」


 私は溜息をつき、自分の革鞄を抱えて部屋の中へ入った。自分のデスクの上に鞄を置き、荷ほどきを始める。

 フィズ家から持ってきた魔術書の数々、備え付けのインクや羊皮紙、お気に入りのティーカップ。それらを整然と並べていく間、リリィはずっと無言で私の背中をじっと見つめていた。


「……何か気になることでも?」

「サクラの動作には、無駄がありません。しかし、魔術書を右側に配置するのは、右手でペンを持つ際の動線を阻害しませんか」

「あ……これはね、左手でページをめくりながら右手で注釈を書き込むための配置なの。私の魔力は平凡だから、術式の効率化と簡略化を常に手元で計算しながらじゃないと、人並みの魔術が撃てないのよ」


 何気なく答えると、リリィの綺麗な藍色の瞳が、わずかに大きく見開かれた。


「……思考の、最適化。美しい、考え方です」

「え?」

「サクラは、すごいです」


 感情の薄い声だった。けれど、その言葉には嘘や社交辞令の響きが一切混ざっていない、純粋な感嘆が含まれていた。

 名門の家柄でありながら「平凡」と囁かれ続け、誰よりも努力して知識を叩き込んできた私にとって、そのまっすぐな一言は、思いのほか胸に刺さった。


「っ……べ、別にすごかないわよ。これくらい、生き残るための備えなんだから」


 照れくささを隠すように、私はそっぽを向いた。

 なんだか調子が狂う。この子、やっぱりどこかズレているけれど、嫌な子ではないのかもしれない。

 そう思っていた時期が、私にもありました。


 ――夜。

 学園の食堂で夕食を済ませ(リリィは栄養価だけを気にしたような謎の食べ方をしていた)、浴場で汗を流し(リリィの体に無数の小さな傷痕があるのを見て息をのんだが、聞けなかった)、私たちは就寝の時間を迎えた。

 パジャマに着替えた私は、明日の入学式の準備を確認し、部屋の魔導ランプの光を小さく落とした。


「それじゃあリリィ、おやすみ……って、ちょっと待ちなさい!!!」


 私が叫んだのも無理はない。

 リリィはふかふかの掛け布団が用意されたベッドを完全に無視し、部屋の最も奥まった『隅っこ』――壁とクローゼットに挟まれた狭い床の上に毛布を敷き、そこに丸まって横たわっていたからだ。


「な、何やってるの貴女!? なんで床で寝ようとしてるの!?」

「……? 就寝の準備です」

「ベッドがあるでしょ!? 目の前に! すごく柔らかくて気持ちいいベッドが!」

「床の方が、敵の急襲を受けた際に素早く転がり、遮蔽物を確保できます。また、この位置はドアからの射線が通らない死角です。生存確率が、最も高い」


 リリィは真面目そのものの顔で、淡々と語る。


「学園の寮に敵が急襲してくるわけないでしょーが!!」


 私は頭を抱えた。

 なんなのこの子!? 暗殺者なの!? それともどこかの特殊部隊から潜入してきたの!?


「いいから立ち上がりなさい! ベッドで寝るの! 女の子が冷たい床で寝てたら風邪引くわよ!」

「問題ありません。私の体組織は、多少の低気温には抵抗力があります」

「体組織とかそういう専門用語で返さないの! いいから、ほら、立って!」


 私はリリィの細い腕を引っ張った。

 うそ。固い。

 見た目は華奢で折れそうな腕なのに、まるで樹齢数百年の大木を引っ張っているかのように、一ミリも動かない。


「ぐぐぐ……なんで動かないのよ……!」

「サクラ。私の身体能力は、平均的な人間の数倍に調整されています。サクラの筋力では、私を移動させることは不可能です」

「調整って何よ! 言い方が引っかかるのよ全部!」


 私が必死に引っ張っていると、リリィはふと力を抜いた。ストン、と私の腕の中に、彼女の小柄な体が収まる。

 ふわリと、石鹸の香りがした。冷たかった彼女の肌から、ほのかな温もりが伝わってくる。


「……サクラ」

「な、なに……?」

「団長以外で、私に『ベッドで寝ろ』と怒ってくれた人は、あなたが二人目です」


 リリィは私の顔を見上げ、相変わらず無表情のまま、どこかたどたどしく言った。


「団長は言っていました。『人間らしく生きろ』と。『普通の女の子として、暖かい場所で寝て、友達を作れ』と。……サクラは、私に人間らしい生き方を、教えようとしてくれていますか?」


 透き通るような藍色の瞳が、真っ直ぐに私を映していた。

 その瞳の奥には、あまりにも深い「空洞」が見えた。まるで、生まれ落ちてからずっと、温かいものを何も知らずに育ってきたかのような、透明な空虚。


 ……ずるい。


 そんな目で見つめられたら、断れるわけがないじゃない。

 私は深々と溜息をつき、リリィの頭をぽんぽんと乱暴に撫でた。柔らかい銀髪が、指の間を滑り落ちる。


「……当たり前でしょ。同室になったんだから、私は貴女のルームメイトよ。怪しいところだらけだし、突っ込みどころ満載だけど……貴女が普通の女の子としてここで暮らしたいなら、私が全部教えてあげるわよ。常識も、マナーも、お友達の作り方も!」

「……ほんとう、ですか」

「フィズ伯爵家の名にかけて、嘘はつかないわ。だから――今夜は、ちゃんとベッドで寝ること! いいわね!?」


 リリィは少しの間、まばたきを繰り返していた。

 やがて、彼女は小さく、本当に小さく首を縦に振った。


「了解しました。サクラの命令に従います」

「命令じゃないわよ、お願い……ううん、お世話よ」


 リリィは床から立ち上がり、おとなしく自分のベッドへと潜り込んだ。

 大きな掛け布団に包まれた彼女は、さらに小さく見えた。小さな体が、ふかふかの羽毛の中に埋もれている。


「……サクラ」

「なに?」

「ベッドは、とても、暖かいです」

「……でしょ。だから言ったじゃない」


 私は自分のベッドに入り、魔導ランプの光を完全に消した。

 暗闇の中、静かな息遣いだけが部屋に満ちていく。

 明日から始まる、王立グランヴェル魔術学園での日々。

 名門の平凡令嬢である私の学園生活は、どうやら思っていたよりも、はるかに賑やかで、はるかに大変なものになりそうだった。


「おやすみ、リリィ」

「おやすみなさい、サクラ。……私の、初めての、お友達」


 暗闇の中で聞こえたその囁きは、どこか少しだけ、柔らかく響いた気がした。


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