第15話:瞳の奥の歪んだ鏡と、剥がれ落ちる影
どんなに優しい光で満たそうとしても、過去というものは爪痕を残したまま静かに背後に佇んでいた。
あのおぞましい異形の襲撃から二日が経過した。
窓枠を綺麗にはめ直し、割れたガラスを片付けた自室の中で、私は机に向かいながら幾度目かの深呼吸を繰り返していた。夜中に落ちていったあの不気味な肉の塊は、翌朝には痕跡一つ残さず姿を消していた。学園側は「野生の猛獣の迷い込み」として処理しようとしていたが、廊下を擦れ違う生徒たちの間に漂う重苦しい沈黙が、誰もその説明を真に受けていないことを物語っていた。
「サクラ、ペンの運筆速度が平常時より二〇パーセント低下しています。思考の滞留を確認」
部屋の隅、影の中に滑り込むように立っていたリリィが、静かな声で私に告げた。
制服の袖口から覗く華奢な手首。その肌はあまりにも白く、触れれば冷ややかながらも確かな命の温もりが返ってくる。
「……ううん、大丈夫よ。ただ、少しだけ嫌な予感が拭えなくて」
私はペンを置き、両手で温かいお茶のカップを包み込んだ。
あの日、窓ガラスを叩こうとしていたあの継ぎはぎの腕。そして、首を切り落とされた瞬間の、命なき肉塊の不気味な感触。あの異形がまっすぐに私たちの部屋を目指してきたという事実が、胸の底で澱のように重く沈んでいた。
「本日の全校講義の時刻です。大講堂への移動を推奨します」
「そうね。……行きましょうか」
私は不安を押し殺すように微笑み、立ち上がった。
今日の午後は、王立学園が定期的におこなっている「特別招聘講義」の日だった。最先端の魔術理論や王国の研究機関で生み出された最新の知見を学ぶため、一年生から最上級生までが一堂に会する特別な授業。普段なら好奇心を刺激されるはずの行事だが、今日に限っては、講堂へ向かう足取りがどこか重かった。
◇
大講堂のすり鉢状の客席は、千人を超える生徒たちの熱気で満たされていた。
中央の教壇には、大理石の重厚なデスクと、巨大な魔導投影機が備え付けられている。私たちは後方の座席に並んで腰を下ろした。私の隣で、リリィはいつものように微動だにせず、静かに教壇を見下ろしている。
「静粛に!」
教頭の朗々とした声が大講堂に響き渡った。
「本日の特別講師は、王立中央錬金術研究所よりお招きした、最高峰の精霊生体学者であられる。――ヴァルター・フォン・クロイツ博士だ。盛大な拍手でお迎えするように」
教頭の言葉とともに、壇上の脇から一人の男がゆっくりと足を踏み出してきた。
白銀の刺繍が施された深緑の錬金術師長広を纏った男だった。年齢は四十代半ばほど。整えられた黒髪に、細いフレームの眼鏡をかけている。一見すると、知識と良識に溢れたどこにでもいる高潔な学者に見えた。
だが――彼が壇上の中央に立ち、客席を一通り見渡した、その瞬間。
私は息を呑んだ。
彼の細い眼鏡の奥にある瞳。
そこに宿っていたのは、生徒たちに対する指導者としての慈しみでも、学問を深めた者の誇りでもなかった。
――それはいわば、珍しい標本を観察する解剖医の、冷たく濡れた狂気だった。
「……サクラ」
隣に座るリリィの体軸が、コンマ数ミリだけ沈み込んだ。
声音には変化がない。けれど、彼女が制服のジャケットの裏に隠された短鉈へ伸ばしかけた指先が、かすかに、けれど明確に強張ったのを私は見逃さなかった。
「リリィ……?」
「……個体名、ヴァルター・フォン・クロイツ。……過去データとの照合を開始。……該当なし」
淡々と口にするリリィの言葉。だが、その呼吸の周期が、普段の完璧な一定リズムからわずかに乱れていた。
彼女の全身の毛根が逆立ち、皮膚が拒絶反応を起こしているかのように、彼女自身すら気づいていない微細な震えが伝わってくる。
壇上のヴァルター博士は、優雅な所作で一礼すると、穏やかな声で話し始めた。
「皆さん、初めまして。王立中央錬金術研究所のヴァルターです。本日は『生命魔術の歴史と、生体錬金術の未来』について、少しお話しさせていただきましょう」
彼の声は滑らかで、通りがよく、知識の深さを感じさせるものだった。
古代の禁術から始まり、近年の戦争で使われた医療魔術の応用、そして肉体の欠損を補う義体技術まで。彼の講義は巧みで、周囲の生徒たちはあっという間にその話術に引き込まれていった。
けれど、私には彼の言葉の端々に潜む、狂おしいほどの歪みが聞き取れていた。
「……生命とは、神が与えた完成品ではありません。ただの物質と回路の集合体に過ぎないのです。そこに適切な術式と補強を施せば、肉体は寿命や病魔という理不尽な限界を超越し、永遠の機能を手に入れることができる……」
(違う……)
私は膝の上で固く拳を握りしめた。
彼の言っていることは、生命の尊厳を完全に否定し、人間を「パーツの組み合わせ」としてしか見ていない暴論だ。
そして、何よりも異常だったのは――彼の「視線」だった。
講義の途中、彼は黒板に構文を描きながら、あるいは生徒たちに質問を投げかけながら、何度も、何度も、客席の特定の場所へ視線を送っていた。
千人もいる生徒たちの中で。
大講堂の最背面に座る、一人の少女――リリィへ。
彼の視線がリリィを捉えるたび、その眼鏡の奥の瞳が、薄気味悪い光を放った。
それはまるで、長年探し求めていた最高級の「道具」を、あるいはかつて自分の手から逃げ出した「愛玩物」を、愛おしそうに舐め回すような視線。
気味が悪い。吐き気がするほどの悪意と執着。
リリィの過去――不器用で、浮世離れしていて、元傭兵団長に育てられたという彼女の幼少期。
私にはまだ見えていない彼女の「空白」の部分に、あの男が深く関わっているのだと、私の頭脳が警告音を鳴らしていた。
「……サクラ」
リリィが、ごく小さな声で私に囁いた。
「あの個体の視線から放出される気配は……私の『存在』を破砕する性質を含んでいます。体内の魔力回路が、不規則な逆流を起こしています」
「リリィ、顔色が悪いわ。……もう聞かなくていい、部屋に戻りましょう」
私はリリィの手を固く握りしめた。冷たい。彼女の手が、凍りつくように冷たくなっていた。
私たちが席を立ち、静かに講堂の出口へ向かおうとした、その時だった。
「――そこの、銀髪の生徒」
講堂全体に、ヴァルター博士の朗々とした声が響き渡った。
ピタリと、私たちの足が止まる。
生徒たちの視線が一斉に、後ろのドア近くに立つ私たちへと向けられた。
壇上のヴァルター博士は、教卓から離れ、ゆっくりと階段を下りてきていた。
その口元には、完璧に整えられた、けれど底知れず歪んだ笑みが浮かんでいる。
「立ち去るには少し早いのではないかな。……リリィ・キャロル君」
彼が彼女のフルネームを呼んだ瞬間、講堂の温度が何度か下がったような錯覚を覚えた。
リリィはゆっくりと振り返り、冷たい藍色の瞳で男を見つめ返した。
「……私に、何の用ですか。講義の聴講は、生徒の自由意思に委ねられています」
「用? ふふ、用などという無骨な言葉を使わないでおくれよ」
ヴァルター博士は、生徒たちの間を通り抜け、私たちの目と鼻の先――階段の数段下で足を止めた。
彼から漂ってくるのは、重厚な香水の香りと、その裏に隠された、ツンと鼻を突く濃密な薬品と腐敗の匂い。一昨日の夜、窓の外にいたあの異形と同じ匂いだった。
「ただね……君のその美しすぎる銀髪と、完璧な瞳に、目を奪われてしまったのだよ」
ヴァルター博士は、狂気を含んだ瞳でリリィの顔をじっと見つめ、ゆっくりと細い指を伸ばしてきた。
彼女の頬へ触れようとするその手つき。
「触らないで!!」
私は考えるより先に体が動いていた。
リリィの前に割って入り、伸ばされた男の手を、私は自分の手で強く払い跳ねけた。
パンッ!
高い音が講堂に響き渡った。
生徒たちから「息を呑む音」が漏れ聞こえる。名門フィズ家の令嬢が、王国の特別講師である博士の手を突っぱねたのだから当然だった。
「おや……?」
ヴァルター博士は払われた自分の手を一瞬だけ見つめ、それからゆっくりと視線を私へと上げた。
その眼鏡の奥の瞳が、侮蔑と好奇心の混ざった色に染まる。
「君は……フィズ伯爵家のサクラ君だったね。噂の『凡才』にして、型破りな計算をこなす生徒だ」
「講師としての無礼をお控えください、ヴァルター博士」
私は震える脚に必死で力を込め、胸を張って男の視線を跳ね返した。
「リリィは私の大切なパートナーです。学問の場において、生徒にそのような不躾で気味の悪い視線と接触を試みることは、王立学園の品位を汚す行為です」
「品位……? くくっ、ははははは!」
ヴァルター博士は突然、低く喉を鳴らして笑い出した。
その笑い声には、周囲の生徒たちも顔を引きつらせるほどの、異質な狂気が満ちていた。
「素晴らしいね、サクラ君。君は何も分かっていない。……その『女の子』が、どれほど奇跡的な構造を持ち、どれほど多くの犠牲の上に成り立っているのかを」
彼が足を一歩踏み出してきた。
彼の体から発せられる圧迫感に、私は思わず息が詰まりそうになる。
「君のような『凡才』が、彼女の隣に立つなど……あまりにも不釣り合いだ。彼女はね、もっと高い場所で、もっと血と肉の惨劇の中で輝くために『作られた』存在なのだから」
「作られた……?」
私の頭の中で、不気味な警鐘が鳴り響いた。
作られた? 彼女は傭兵団長に拾われたのではなかったのか?
この男の言葉の意味するものは、私の知らないリリィの過去の……何なのだ?
「サクラに……近づくな」
私の背後から、地獄の底から響くような声が落ちた。
リリィだった。
彼女の小さな手が私の肩を掴み、私を自分の背後へと庇い直した。
彼女の右手が、完全にジャケットの裾を破り捨て、あの黒光りする無骨な短鉈の柄を握り締めていた。
彼女の顔には、今まで見たこともないような、剥き出しの殺意と――そして、ほんのわずかな「恐怖」が浮かんでいた。
「サクラに害をなす者は……排除します。この場で、貴方の首を物理的に切断します」
「おや、威勢がいいね。……『最高傑作』」
ヴァルター博士はリリィの抜刀しかけた刃を見ても、眉一つ動かさなかった。
むしろ、その狂気じみた笑みをさらに深くし、彼女の瞳を覗き込んだ。
「まだその愚かな傭兵の『教え』とやらに縛られているのかい? だがね、逃げられはしないよ。君の体内の血も、魔力も、その恐ろしいほどの身体能力も……全ては我々の手の中で設計されたものなのだから」
「……黙れ」
「また会いましょう、リリィ。……近いうちにね」
ヴァルター博士は優雅に一礼すると、何事もなかったかのように振り返り、壇上へと戻っていった。
講堂に流れる、重苦しい沈黙。
周囲の生徒たちは、何が起きたのか理解できずに混乱していた。だが、私とリリィの間に流れる空気だけは、完全に凍りついていた。
「リリィ……」
私が彼女の袖を引っ張ると、リリィの手からカチャリと力が抜け、短鉈が鞘へと収まった。
彼女の肩が、小さく震えている。
あの地下迷宮で巨大な魔獣を冷酷に切り刻んでいた彼女が。
あの凶悪な異形を躊躇なく仕留めていた彼女が。
いま、私の隣で、まるで捨てられた仔犬のように怯えていた。
(あの男……ヴァルターは、何者なの……?)
私の知らないリリィの過去。
彼女が「不器用な女の子」として生きる前に、背負わされていた残酷な鎖。
私は彼女の手を、自分の両手で包み込むようにギュッと抱きしめた。
「大丈夫よ、リリィ」
私の声に、リリィの藍色の瞳が揺れた。
「何があっても、私があなたを守るわ。あの男が何を言おうと、あなたは私の大切なリリィなんだから」
「……サクラ……」
リリィは私にしがみつくように、小さな頭を私の胸へと押し付けてきた。
その伝わってくる温もりと震えが、私の胸を熱く、激しく燃え上がらせていく。
たとえ彼女の過去にどんな狂気が潜んでいようと。
たとえ彼女がどんな歪んだ運命のもとに生まれていたとしても。
私の「相棒」は、リリィただ一人だ。
遠ざかるヴァルターの背中を見つめながら、私は心の中で静かに、けれど絶対に折れない誓いを立てていた。




