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第16話:ぬくもりの証明と、夜の静寂(しじま)に解ける鎖


 神様が創り損ねた空白の心に、あなたという温もりだけが、私を人間に変える魔法だった。



 静まり返った寮の部屋には、薄明かりを落とした魔導ランプの橙色が、静かに棚の上の木彫りの小鳥を照らし出していた。

 大講堂での特別講義から数時間。

 夕食の卓に並んだ料理にもほとんど手をつけず、お風呂場でもいつも以上に口数が少なかったリリィは、いま、ベッドの端にちょこんと腰を掛けていた。

 群青色の私服から着替えた薄手のパジャマ姿。

 膝の上に揃えられた小さな手は、硬く、壊れ物を抱えるように握りしめられている。銀色の髪が頬に垂れ下がり、その藍色の瞳は、部屋のどこでもない、遠い闇の底を見つめていた。


「リリィ……温かい紅茶を淹れたわ。飲む?」


 私は湯気の立つマグカップをふたつ手に取り、彼女の隣へとそっと腰を下ろした。

 カップを渡すと、リリィは両手でそれを包み込んだ。けれど、口をつける気配はない。ただ、手のひらに伝わる温もりを確かめるように、じっと指先を見つめている。


「……サクラ」


 掠れた、今にも消えてしまいそうな声だった。

 あの大講堂でヴァルター博士と対峙した時から、彼女の瞳の奥に漂う影は、一度も晴れていなかった。


「なぁに、リリィ」

「……私は、サクラに嘘をついていました」


 ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。

 リリィはゆっくりと首を横に振った。


「嘘というよりも……開示の保留です。私の記憶データの根幹に関わる領域を、サクラへ共有していませんでした。……あの男、ヴァルターの言ったことは、概ね事実です」


 私は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を待った。

 マグカップから立ち上る紅茶の香りが、二人の間の張り詰めた空気を優しく包み込んでいく。


「私は……普通の人間として生まれた存在ではありません」


 リリィの口から紡ぎ出される声は、普段のたどたどしさに輪をかけて、ぽつり、ぽつりと不器用だった。感情を殺す訓練を叩き込まれた少女が、記憶の奥底にある生々しい傷口を、自分の指でなぞるような拙さ。


「人間と……エルフの長命なる血統、そして人工的に生成された生体粘体(ホムンクルス)の肉体構造……それらを強制的に掛け合わせ、遺伝子段階から調整を施された『デザイナーベイビー』。それが、私の正体です」


 胸の奥が、冷たい手で掴まれたように冷え込んだ。


 「デザイナーベイビー」


 禁忌とされる錬金術の領域。かつて歴史の影で囁かれた、人間を兵器として設計・製造する過酷な実験。


「兵士としての寿命の短さを克服し……エルフの長命と魔術適性と、ホムンクルスの強靭な肉体機能のみを抽出した最高傑作……それが、私につけられた製品番号でした」


 リリィは手元のマグカップを見つめたまま、淡々と、けれど喉を震わせて続けた。


「私は、暗い地下の研究所で生まれました。陽の光を見たこともなく、温かい食べ物の味も知らず……ただ、毎日肉体を切り開かれ、魔力回路を植え付けられ、殺戮のプログラムを叩き込まれる日々でした。泣くことも、叫ぶことも許されませんでした。感情は戦闘効率を低下させるノイズであり、不要なバグだと教育されていたからです」


 彼女の華奢な体の奥で、過去の冷たい暗闇が今も渦巻いているのが分かった。

 昨夜、お風呂場で見えた彼女の肌の幾筋もの傷痕。

 服のボタンの掛け方も知らず、床で寝ようとしていた不自然さ。

 あの規格外の身体能力と、命を奪うことに対するあまりにも冷徹な割り切り。

 すべての歪んだピースが、悪夢のような一枚の絵として繋がっていく。


「私という個体の最終調整……精神の完全な洗脳作業が実行される直前でした。研究所が……王国軍に雇われた傭兵団によって破壊されたのは」


 リリィの指先が、わずかに震えた。


「燃え盛る火の海の中で、私はただの肉塊として処分されるのを待っていました。……ですが、崩れた瓦礫を押しのけて現れた男性がいました。かつての傭兵団長です。彼は血みどろの私の姿を見て、戦災孤児だと勘違いし……そのまま、私を外の世界へ抱き抱えて連れ出してくれました」


 そこで初めて、リリィは小さく息を吐いた。


「団長は……私に戦い方を教えながら、同時に……人間らしい生き方を教えてくれました。『飯は温かいものを食べろ』『戦いの後は身体を洗え』『無駄な殺生はするな』『人に感謝しろ』……空っぽだった私の中に、団長はひとつずつ、言葉と道徳を流し込んでくれました。……だから私は、人として立っていられたのです」


 リリィはゆっくりと顔を上げた。

 その藍色の瞳には、途方もない透明さと、崩れ落ちそうなほどの不安が揺れていた。


「サクラ……私は、狂気の産物です。本当の親も、温かい故郷もなく……ただ殺すためだけに作られた、偽物の人間です。……そのような存在が、サクラの『大切なルームメイト』として、隣に存在し続けても良いのでしょうか」


 彼女の小さな唇が、かすかに震えていた。

 サクラに嫌われるかもしれない。

 異物として、汚ろしい化け物として拒絶されるかもしれない。

 あの大講堂でヴァルターに見つかって以来、彼女の胸を支配していたのは、己の命の危険ではなく、ただその「拒絶」に対する底なしの恐怖だったのだ。

 風が窓を揺らす音が、静かな室内に響いた。

 私は手にしたマグカップを、ゆっくりとナイトテーブルの上へ置いた。

 言葉なんて、いらなかった。

 どんな綺麗事を並べるよりも先に、私の体は勝手に動いていた。


 私はリリィの華奢な肩を、その小さな体を、全身全霊で抱きしめた。


「……っ、サクラ……!?」


 リリィの驚いたような声が耳元で弾ける。

 私の腕の中で、彼女の体が一瞬硬直した。

 けれど、私は腕の力を緩めなかった。

 彼女の背中に回した手に力を込め、柔らかい銀髪に顔を埋め、彼女の体温を、鼓動を、その命のすべてを確かめるように深く、強く抱きしめた。


「……サクラ……汚れます。私の肉体は、人工の――」

「バカ」


 私は彼女の言葉を遮った。

 涙が、視界を熱く濡らして溢れ出していく。


「バカ言わないでよ……リリィ……!」


 抱きしめた腕から伝わってくるのは、間違いなく温かい命の鼓動だった。

 人工だろうと、実験の産物だろうと関係ない。いま、私の腕の中でこんなにも小さく、温かく、必死に息をしている女の子がいる。


「誰が作ったとか、どうやって生まれたとか……そんなこと、私にはどうでもいいわ!」


 私は彼女を抱きしめたまま、溢れる涙とともに、心の底からの叫びをぶつけた。


「私が知ってるリリィはね! 私の拙い術式を『美しい』って言ってくれたリリィよ! ボタンの掛け違いで困ってたリリィよ! お菓子を食べて『甘い』って微笑んでくれたリリィよ! 私がいなくなったら泣きそうな顔で心配してくれた、私の大切なリリィなの!!」


 私の涙が、リリィの肩のパジャマを濡らしていく。


「あなたが何者でも……どんな過去を持っていても関係ないわ。私の隣にいるのは、私の大好きな相棒で、可愛くて、愛おしい私のルームメイトよ!」


 胸の奥から湧き出る感情が止まらなかった。

 フィズ家で「凡才」と見捨てられ、自分の存在価値を探し続けていた私に、生きる意味と誇りをくれたのは他ならぬ彼女だったのだ。

 たとえ世界中の誰もが彼女を「兵器」と呼ぼうとも。

 私が、この私だけは絶対に、彼女を「ただのリリィ」として愛し続ける。


「サクラ……」


 私の腕の中で、リリィの緊張が、ゆっくりと解けていくのが分かった。

 固くなっていた彼女の手が持ち上がり、私の背中へと回される。

 覚えたての抱擁。不器用で、けれど確かな強さで、彼女もまた私を強く強く抱き返してきた。


「……温かいです」


 耳元で聞こえたその声は、湿り気を帯びていた。


「サクラの抱擁は……とても温かいです。胸の奥の冷たい暗闇が……全部、溶けていきます」


 ぽとり、と。

 私の首筋に、冷たくて温かい雫が落ちた。

 リリィが、泣いていた。

 感情を殺され、泣くことすら禁じられていた狂気の産物が。

 いま、私の胸の中で、人間としての温かい涙を流している。


「ありがとう……サクラ。私を……『私』として見つけてくれて、ありがとうございました」

「当たり前じゃない……。ずっと一緒にいるって、決めたんだから」


 私たちは、暗い夜の部屋で、静かに互いを抱きしめ続けた。

 過去の冷たい鎖は、もう二人を縛ることはできない。

 どのような悪夢が襲いかかろうと、この温もりがある限り、私たちは絶対に折れない。

 やがて涙を拭ったリリィは、照れくさそうに微笑む私を見て、本当に少しだけ、不器用な、けれど世界で一番優しい笑顔を浮かべた。

 窓の外では、静かな夜空に月が輝いていた。

 二人の繋いだ手のひらは、朝が訪れるまで、決して離れることはなかった。


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