第14話:闇に潜む皮膚と、蠢く惨劇の残り香
平和という穏やかな日々は、ただ惨劇の足音が近づく速度を覆い隠すための幕に過ぎなかった。
王都での静かな一日を終え、夕闇が完全に街を飲み込む頃、私たちは学園の正門をくぐった。
石造りの校舎は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。街で買い求めたお菓子の小箱を腕に抱え、繋いだ手の温もりを感じながら歩く石畳。リリィの髪に結んだ青いリボンが、街灯の光を受けてかすかに揺れていた。
だが、女子寮の玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、私は肌を刺すような違和感に足を止めた。
いつもの温かい空気がない。
薄暗いホールには数人の生徒たちが集まり、青ざめた顔で身を寄せ合っていた。会話はひそひそとした囁き声に限られ、誰かがドアを開けるたびに、跳ね上がるようにそちらを振り返る。
「……何か、おかしいわ」
私が呟くと、隣のリリィがかすかに眉を寄せた。
「空気中の緊張度が異常値を示しています。生徒たちの心拍数は全体的に上昇傾向にあり、警戒行動を取っています」
私たちは顔を見合わせ、ロビーの隅で固まっていた同級生たちへと近づいた。私たちが近づくと、彼女たちは怯えたように身を竦めたが、それが私だと気づくと、すがりつくような視線の束を向けた。
「サクラ様……お帰りになられたのですね」
「ええ、いま戻ったところよ。みんな、どうしたの? 何かあったの?」
私の問いかけに、相手は唇を震わせ、周囲の暗がりを警戒するように声を極限まで落とした。
「……噂をご存じないのですか? ここ数日、学園の敷地外縁、隣接する深い森の周辺で……恐ろしいものが発見されているのです」
「恐ろしいもの……?」
「家畜や、野生の動物たちの死体です。ただ殺されているのではありません。……体の一部が、不自然に削ぎ落とされ、あるいは異常な形状に変形させられた状態で放置されているのです」
言葉の意味を理解しようとして、私の思考が一瞬停止した。
「変形……? 魔獣に襲われたのではないの?」
「違います!」
生徒の一人が耐えかねたように小さな悲鳴を混ぜて言った。
「魔獣が獲物を喰い荒らした痕跡ではないのです。肉を喰べた形跡はなく、ただ……『必要な部分だけを切り取り、別の肉片を無理やり繋ぎ合わせた』かのような、不気味な傷口痕が残されているそうです。まるで、生きている何かを材料にして、不格好な人形を作ろうとしたかのように……」
背筋を、氷の刃で撫でられたような寒気が走り抜けた。
肉を喰らうためではない殺害。必要な組織だけを削ぎ落とし、繋ぎ合わせる工作。
それは自然界の営みでも、野性ゆえの凶暴さでもない。
明確な意図を持った、おぞましい実験の痕跡。
「さらに……」
生徒は喉を鳴らし、さらに顔を近づけてささやいた。
「昨夜、森の近くで農夫の遺体が見つかりました。……動物ではありません。人間です。その遺体もまた……顔の右半分の皮膚と筋肉が綺麗に剥ぎ取られ、代わりに見たこともない不気味な肉芽が植え付けられていたそうです」
言葉が途切れた。
静まり返ったホールに、冷たい風が吹き抜けていく。
人間を材料にした、異質な工作。
それは単なる殺人事件などという生易しいものではない。かつて禁書で目にしたような、人理を冒涜する黒魔術や危険な禁術の影がちらついていた。
「……部屋に戻りましょう」
私は震える声を押し殺し、リリィの手を固く握りしめた。
◇
自室に戻り、扉を固く施錠した。
重い木製の扉を閉めても、廊下の暗がりから漂ってくる不穏な気配が消えることはなかった。
私は部屋の魔導ランプの光を最小限に落とし、机の上に羊皮紙を広げた。今聞いた噂、遺体の損傷状態、発生場所の位置関係を脳内で組み立てていく。
「発生地点は学園の西側に広がる黒森の境界線。……過去三日間で、確認されただけでも家畜が五頭、野生動物が三頭、そして人間が1人」
私のペン先が羊皮紙の上で震えていた。
「単なる狂人の犯行なら、これほど計画的かつ静かに生体を採取することは不可能よ。それに……学園の防衛結界が外縁に張られているにもかかわらず、侵入や異常が検知されていないわ」
「結界の隙間を熟知している、あるいは……内部から干渉を行っている存在が示唆されます」
リリィは部屋の隅、闇が最も濃い場所に静かに立ち、腰の後ろの短鉈へ指をかけていた。
彼女の全神経が、周囲のあらゆる音や不快な気配を察知しようと研ぎ澄まされている。
「サクラ。私の分析によれば、回収されている部位は主に『運動筋肉』および『外部感覚器官』です。これは……不完全な人形に対し、即席で戦闘能力を付与するための急造作業において見られる傾向です」
「リリィ……? どうしてそんなことがわかるの?」
私が問いかけると、リリィはほんの少しだけ視線を泳がせ、淡々とした声で答えた。
「……昔、私を引き取ってくれた元傭兵団長から、戦場で出回る危険な人造兵器の講義を受けました。それと同種の挙動です」
「団長さんから……。そんな恐ろしいものが、この学園の周りに潜んでるっていうの……?」
ゴト……。
突然、窓の外から小さな音が響いた。
私は息を呑み、即座に口元を手で覆った。
三階にある私たちの部屋の窓。その外側には、足をかける足場など存在しないはずだった。
静寂。
風の音すら消え去ったかのような、重苦しい沈黙が部屋を包み込む。
リリィの動きには、一切の迷いがなかった。
彼女はすり足で窓際へと接近し、ガラス越しに外の闇を見つめた。
月光が雲に遮られ、夜の闇が濃くなる。
その薄暗いガラスの向こう側。
三階の壁面に、濡れた滑らかな「何か」がへばりついていた。
人間の姿をしている。だが、それはあまりにも歪で、狂っていた。
関節が不自然な方向へ折れ曲がり、肌は継ぎはぎだらけで、紫色の生々しい糸で強引に縫い合わされている。顔の半分には皮がなく、剥き出しになった赤黒い筋肉と、落ちかけそうな一本の眼球が、ガラス越しに室内を覗き込んでいた。
呼吸をしていない。
胸の上下運動がない。ただ、腐敗と濃密な薬品の匂いだけが、隙間風に乗って室内へ侵入してくる。
「ヒっ……」
喉の奥で悲鳴が潰れた。
今まで戦ってきた魔物や、傲慢な貴族生徒たちとは根本的に違う。
あれは、命ではない。
死体と生肉を強引に繋ぎ合わせ、殺人命令だけを叩き込んだ、歩く悪夢。
肉の人形が、ずるりと腕を持ち上げた。
その指先には、動物の鋭い爪が不格好に埋め込まれている。
それがガラスを引っ掻き、不快な音を室内に響かせようとした――その直前。
シュッ!
ガラスが割れる音すら聞こえなかった。
リリィの手から放たれた無色の魔力刃が、窓ガラスの分子構造をすり抜けるように通過し、外へへばりついていた異形の頚椎を寸分違わず断ち切ったのだ。
ポツン、と嫌な音がして、首を失った肉の塊が三階の高さから地上へと落下していった。
ドサリ、という重い着地音。そして、二度と動かなくなる静寂。
私の心臓は、壊れた鐘のように激しく脈打っていた。
全身から冷や汗が噴き出し、指先が激しく震える。
「……サクラ。脅威の排除を確認しました」
リリィが静かに振り返り、私のもとへ駆け寄ってきた。
彼女は震える私の手を取り、己の胸元へと引き寄せた。
「大丈夫です。サクラに触れさせません。いかなる不気味な存在であれ、サクラの領域へ侵入することは不可能です」
リリィの体温。
その温もりだけが、私を狂気の世界から現実に繋ぎ止めてくれていた。
私は必死で呼吸を整え、リリィの胸に顔を埋めた。
こんな恐ろしい怪物が徘徊しているなんて。そして、この怪物はなぜ、まっすぐに私たちの部屋の窓を目指してきたのだろう。
「……リリィ。あんな異形がどうして私たちの部屋へ……」
「分かりません。ですが……あの異形が求めていたのは、学園の防衛網の隙間か、あるいは……」
リリィは言葉を濁した。
彼女自身には、何か心当たりがあるのかもしれない。けれど、今はそれを追及することよりも、目の前の脅威から彼女を守ることのほうが先決だった。
私はリリィの手を、痛いほど強く握り返した。
「……何が起きていても、私たちが戦うのよ、リリィ」
私は涙を拭い、冷たい意志を瞳に宿してリリィを見つめた。
「どんな悪夢が襲ってこようと、私が絶対に分析して解き明かしてみせる。私の頭脳と、リリィの刃で……この学園を、私たちの平穏を守り抜くのよ!」
「……肯定」
リリィの藍色の瞳に、氷のような冷徹さと、私に対する絶対的な誓いの光が宿る。
「サクラの指し示すままに。私の全てをもって、サクラを守護します」
窓の外で、冷たい夜風が不気味な唸り声を上げていた。
平和だった日常の裏側で、血と肉の惨劇が静かに、着実に私たちを飲み込もうとしている。
けれど、繋ぎ合わされた二人の手のひらだけは、どんな闇よりも強く、温かく輝き続けていた。




