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第13話:群衆の迷路と、握りしめた不安の温もり


 どれほど強く刃を振るえる存在であっても、あなたの視界から消えてしまえば、ただの小さな子供と同じだった。



 休日の熱気に包まれた王都のメインストリートは、色鮮やかな露店と行き交う人々の波で埋め尽くされていた。

 さきほどまで楽しんでいた静かなサロンの余韻は、石畳を埋める群衆の雑踏にあっという間に飲み込まれていく。色とりどりの果物を並べた屋台、香辛料を炒める香ばしい匂い、大道芸人の奏でる笛の音。あらゆる刺激が入り乱れる街道で、私は買い求めたお菓子の小箱を大切に抱えていた。


「次はあちらの雑貨店を覗いてみましょうか、リリィ。可愛らしい髪飾りが――」


 語りかけながら隣へ視線を落とした瞬間、私の心臓が冷たく跳ね上がった。

 そこに、誰もいない。


「……リリィ?」


 振り返っても、群衆の背中が広がるばかりだった。

 群青色のドレス、銀色の髪、頭に結んだ青いリボン。どこを探しても見当たらない。ほんの数秒前まで、私のすぐ隣を歩いていたはずなのに。

 血の気が急速に引き、手足の指先から体温が奪われていく。


「リリィ! どこにいるの、リリィ!?」


 人波を掻き分けながら、私は声を張り上げた。

 通り過ぎる人々に不審そうな視線を向けられても、構っていられなかった。

 あの地下迷宮で巨大な魔獣を容易く打ち倒した少女だ。怪我をする心配など、客観的に考えれば皆無に等しい。

 けれど、私の脳裏に浮かぶのは、戦闘技術以外の常識を持ち合わせない不器用な彼女の姿だった。服のボタンの掛け方も知らず、床で寝ようとしていた無垢な存在。

 もしも、言葉巧みな悪意に騙されたら。

 もしも、彼女の正体を知る怪しげな研究組織の手に落ちてしまったら。

 視界が滲み、荒い息が吐息となって漏れる。

 私は半ばパニックになりながら、雑踏の奥へと走り出していた。


 ◇


 その頃、メインストリートから少し外れた、人通りの少ない裏路地の影。


「やあ、お嬢ちゃん。一人かい? 迷子になっちゃったのかな」


 不釣り合いなほど親しげな声をかけられ、リリィはゆっくりと足を止めた。

 目の前に立っていたのは、くたびれた外套を羽織った二人の男だった。薄汚れた帽子を目深に被り、口元には不快な歪んだ笑みを浮かべている。路地の奥へと誘い込むように、さりげなく背後の退路を塞ぐ配置を取っていた。


「……個体識別名、不明。私に対する接触の意図を提示してください」


 リリィの声には、何の感情の起伏も存在しなかった。

 群衆の密度に気を取られているうちにサクラの姿を見失い、索敵行動を開始した矢先の出来事だった。


「かたいこと言いなさんな。綺麗で可愛らしいお召し物だねえ。きっとどこかの良家のお嬢様だろう? お兄さんたちが美味しいお菓子がある場所まで案内してあげるよ。さあ、こちらへおいで」


 男の一人が、にやつきながら手を伸ばしてきた。

 その指先がリリィの華奢な手首を掴もうとした、まさにその瞬間。

 リリィの藍色の瞳に、淡々とした数値の計算が走る。


 ――接触行動の意図:欺瞞および身柄の拘束。

 ――脅威判定:極めて低い。戦闘能力、身体構造ともに訓練を受けていない一般市民。

 ――殺傷の必要性:無。


「危険行動を察知。制圧を開始します」


 男の手首がリリィの肌に触れるより早く、彼女の小さな手が男の指関節へと滑り込んだ。


「へ……?」


 男が疑問の声を漏らす隙すら与えられない。

 リリィは相手の手首を支点にし、己の体重を一切使わず、骨格の噛み合わせだけを滑らかに支え変えた。外側へ捻り上げると同時に、男の肘関節の内側へ肘を滑り込ませる。

 ミシッ、という生々しい骨の鳴る音が静かな路地に響いた。


「ぎ、ギヤアアアアアッ!?」


 男が悲鳴を上げて膝から崩れ落ちる。

 腕を無理な方向に固定され、指一本動かすだけで激痛が走る絶妙な角度で関節を極められていた。


「な、何だこのガキ……!? てめえ、何しやがった!」


 もう一人の男が顔色を変え、懐から短刀を引き抜いて飛びかかってきた。

 リリィは首を僅かに斜めへ傾け、滑空する刃を数ミリの余白でかわした。そのまま踏み込み、極めていた男の身体を盾にするように回転させる。


「ぐえっ!?」


 男同士が勢いよく激突した。

 リリィは崩れ落ちる二人の襟首を小さな両手で掴むと、呼吸一つ乱さずに路地の壁際へと押し付けた。


 ドン!という重い衝撃音が響き、男たちは壁とリリィの鉄のような力に挟まれ、呼吸すら満足にできなくなった。


「関節の可動域を限界値まで超過固定しています。暴れると、靭帯および骨組織に不可逆の損傷が発生します」


 淡々と告げられる無機質で透明な声。


「ひ、ひぃぃ……っ! わ、分かった、降参だ! 離してくれ!」

「命令の受諾は不可能です。私はサクラから『無駄な殺生および暴力を禁ずる』と教育されています。故に、あなた方を社会規範に基づいた機関へと引き渡すのが最善の処理です」


 リリィは片手で二人の大人の身体を完全に固定したまま、路地の入口へと視線を向けた。


「自力で歩行してください。治安維持部隊の詰め所へ向かいます。拒否する場合、膝関節の不可逆分解を実行します」

「行く! 行くから! 自首するから助けてくれぇぇっ!」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした大人二人が、150cmに満たない小柄な少女に曳かれるようにして、情けなく路地を這い出ていくこととなった。


 ◇


「リリィ……! どこなの、リリィ……っ!」


 通りを走り回り、息が切れ、喉が焼き切れるような痛みを覚えていた頃。

 人だかりができている治安維持部隊の詰所前で、私はその姿を見つけた。

 群衆の真ん中で、二人組の男を完璧に捕縛したまま、何事もなかったかのように佇む銀髪の少女。


「リリィ……!」


 足が勝手に動き出していた。

 周りの視線も忘れて駆け寄り、彼女の華奢な身体を抱きしめた。


「サクラ?」


 抱きついた衝動で、リリィの身体が僅かに揺れた。

 私の腕の中で、彼女の体温と甘いお菓子の香りがしっかりと伝わってくる。

 無事だった。怪我一つない。

 分かっていたはずなのに、安堵感が溢れ出して膝から崩れ落ちそうになった。


「サクラ。索敵範囲から離脱したことをお詫びします。こちらの危険個体二名が不法な拘束を試みたため、制圧および連行を行っていました。害はありません」


 いつも通りの、起伏のない声。

 私を守るように淡々と報告するその顔を見上げた瞬間、胸の奥で溜め込まれていた感情が爆発した。


「……バカ!」

「……?」


 私は彼女の肩を掴み、涙でボロボロになった顔を露わにして叫んだ。


「バカバカバカ! どうして黙っていなくなるの!? どれだけ探したと思ってるの!? 無事だから良いって問題じゃないのよ!」

「サクラ……? 目から水滴が分泌されています。体調の異常ですか?」


 リリィが不思議そうに眉を寄せる。その無知で不器用な表情に、さらに涙が溢れ出してきた。


「心配したんだから!!」


 詰所の前に、私の叫びが響き渡った。


「貴女が強いのは知ってる! 誰にも負けないくらい凄いのも知ってるわ! でも……急にいなくなったら、何かあったんじゃないかって、二度と会えないんじゃないかって……私、怖くてたまらなかったんだから!」


 ポロポロと落ちる涙を拭うこともできず、私は彼女の制服の胸元に顔を押し当てて泣いた。

 名門の家柄で期待されず、一人で平気を装ってきた私。

 だけど、この子を失うかもしれないと思った瞬間の恐怖は、過去のどんな冷遇よりも恐ろしかったのだ。

 リリィは微動だにしなかった。

 私に抱きしめられたまま、固まったように静止している。


「……しんぱい」


 リリィの口から、その言葉がぽつりと零れ落ちた。

 彼女はゆっくりと自分の手を持ち上げ、私の背中に回した。

 覚えたての優しさで、私を壊れ物のように優しく抱き返してくる。


「サクラが私を失うことを恐れ、情緒を乱す現象……それが『心配』ですか」

「そうよ……! 大バカ者……!」

「……胸の奥が、熱いです」


 リリィの囁きが、耳元で静かに揺れた。


「痛くはありません。不快でもありません。ですが……深く、温かい何かが、胸の奥を満たしています」


 彼女は私の背中をそっと撫でた。

 その手つきには、先ほど暴漢を叩きのめした冷酷な力など微塵も残っていなかった。ただ私を安心させたいという、純粋な祈りだけが込められていた。


「サクラ。申し訳ありませんでした。私を『心配』させてしまったことを、深く反省します。二度と、サクラの手を離しません」


 泣きじゃくる私の頭を、彼女は何度も撫で続けた。

 周囲で見ていた街の人々や、捕まっていた男たち、巡査たちも、誰も言葉を発することができなかった。

 恐ろしいほどの戦闘能力を持つ少女と、彼女のために子供のように泣く少女。

 二人の間に流れる、誰も入り込めないほど深く結ばれた空気感に、ただ圧倒されていた。

 しばらくして、私がようやく涙を拭い、照れくさそうに顔を上げると、リリィはポケットから小さなハンカチを取り出して私の目元を丁寧に拭ってくれた。


「……もう、服が涙で汚れちゃったじゃない」


「問題ありません。サクラの体液であれば、成分上の不快感はありません」

「そういう変な言い方をしないの!」


 私がぷくっと頬を膨らませると、リリィは満足そうに小さく頷いた。

 捕まった男二人は、巡査たちに引き渡され、震えながら連れて行かれた。自分が何を言われて自首したのかを必死に訴えていたようだが、誰も相手にしていなかった。

 帰り道、夕陽が石畳を赤く染め上げていた。

 私たちは並んで歩きながら、どちらからともなく手を繋いだ。

 リリィの小さな手が、私の指を力強く、離さないように握りしめてくる。


「サクラ」

「なに?」

「『心配』をしてくれて、ありがとうございました」


 無表情な横顔。けれど、その瞳には夕陽の光と、確かな温もりが宿っていた。


「お礼を言われることじゃないわよ。……でも、次からは絶対に勝手にいかないでね」

「肯定。サクラの隣が、私の指定位置です」


 二人の影が、赤く染まる街道の上に長く伸びていく。

 繋いだ手から伝わる温もりは、どんな強い魔法よりも温かく、私たちの胸を満たし続けていた。


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