第12話:砂糖菓子の温もりと、ほどけたリボン
どれほど冷たい過去を背負っていようと、今日という日の甘さは、私たちのものだ。
王立グランヴェル魔術学園の景色は、地下迷宮での演習が終わった日から一変していた。
すれ違う生徒たちの視線が、かつての冷ややかな嘲笑や好奇のそれから、明確な畏敬と遠巻きの憧れへと変わる。講堂の廊下を歩くだけで、周囲の生徒たちが自然と道を譲り、ひそひそと交わされる声には私に対する賛辞が混じっていた。
「あの方よ……あの、深層の変異種を討ち取った……」
「フィズ家の次代を担う頭脳だって。隣にいる銀髪の騎士のような少女と一緒に……」
校舎の窓から差し込む光を浴びながら、私は小さく息を吐いた。
これまでの人生で、こんな風に誰かから真っ直ぐな称賛を向けられたことなんて一度もなかった。いつも「凡才」「期待外れ」のレッテルを貼られ、書室の隅で一人、誰にも見られないノートを埋め続けていた私にとって、この変化はあまりにも眩しすぎた。
「……サクラ、周囲の個体群の視線熱量が過剰です。排除を希望しますか?」
私の隣を歩くリリィが、冷ややかな視線を周囲に投じながら低く呟いた。
彼女の目には、私たちに注目する生徒たちがすべて「潜在的な脅威」に映っているらしい。私は苦笑しながら、彼女の制服の袖を軽く引っ張った。
「ダメよリリィ。誰も私たちを襲おうとしてるわけじゃないんだから。ただ、少し驚いてるだけよ」
「……理解できません。彼らは過去にサクラを侮蔑していました。その事実が、わずか数日間の結果で好意に反転するなんて、データの整合性が破綻しています」
リリィは納得がいかないといった様子で小さく首を傾げた。その無機質な横顔は相変わらず美しかったけれど、どこか子供っぽさを含んでいて、私は思わず口元を緩ませた。
「人間の評価なんて、そんなものよ。でもね、悪くない気分じゃない?」
「……サクラが笑っているなら、肯定します」
そう言ってリリィは、私の手をそっと握り返してきた。
変化したのは学園の態度だけではなかった。
その日の放課後、寮の部屋に戻ると、重厚な革張りの小包が私の机の上に置かれていた。送り主の名を見て、私は思わず足取りを止めた。
――『フィズ伯爵家当主、レイモンド・フォン・フィズ』
「……お父様から?」
かつて私を冷ややかに見下し、「我が家の汚点だ」と言い放った血縁者からの手紙だった。
震える指で封を切り、羊皮紙を広げる。そこには、格式高い美しい文字で、地下迷宮での功績を称える賛辞と、我が家の名誉を高めたことへの労いの言葉が綴られていた。
そして、手紙の底には多額の活動資金の証書と、一通の小さな伝言が添えられていた。
『次代の当主候補として、相応しい褒賞を与える。休日は城下町で有意義に過ごしなさい』
冷淡だった実家からの、初めての肯定。
けれど、それを読んだ私の胸にあったのは、歓喜よりもむしろ、乾いた冷たさだった。
「……いまさら、ね」
私が凡才だった頃は、どれだけ努力の跡を見せても見向きもしなかったくせに。結果を出した途端に、手のひらを返したように「我が家の誇り」扱いだ。
ふっと自嘲気味に息を漏らした私を見て、リリィが心配そうに覗き込んできた。
「サクラ、その紙片から不快な感情波形が観測されます。破棄処分にしますか?」
「ううん、大丈夫よリリィ。破棄はしないわ。せっかくお父様がお金を出してくれたんだから、ありがたく頂戴しておきましょう」
私は顔を上げ、すっきりと微笑んだ。
実家の承認なんて、もうどうでもいい。私には、私の努力を「美しい」と言ってくれたこの子がいる。そして、手元には父から送られた潤沢な資金がある。
「ねえ、リリィ」
「はい、なんでしょう」
「明日の休日、一緒に城下町へ行きましょう。お父様のお金で、美味しいものを食べて、新しい服を買いに行くの。もちろん、私からのリリィへの褒賞よ」
リリィはしばらくまばたきを繰り返した後、不思議そうに首を傾げた。
「お出かけ……ですか。任務でも、戦闘でもなく?」
「ええ、ただの遊びよ。普通の女の子たちが休日にするみたいに、街を歩いて、甘いものを食べるの」
「……甘いもの。私のこれまでの食生活において、栄養価とカロリーの効率化を最優先していたため、娯楽としての食物摂取の経験値が不足しています」
「だからこそ、連れて行ってあげたいの。行きましょう、リリィ。貴女に一番似合う服を、私が選んであげるから」
◇
翌日。
王立学園の門をくぐり抜け、私たちは馬車に乗って王都のメインストリートへと降り立った。
石畳が続く美しい街路には、色鮮やかなテントを張った露店が並び、香ばしいパンの匂いや、花々の芳香が風に乗って漂ってくる。行き交う人々は思い思いの休日を楽しんでおらず、街全体が穏やかな活気に満ちていた。
「すごい……人が多いですね。全方位からの視線と挙動の解析が追いつきません」
リリィは少しだけ落ち着かない様子で、私の制服の裾をキュッと掴んでいた。
その今日の姿は、いつもの学園の制服とは全く違っていた。
昨日の夜、私が持っていた資金を総動員して仕立てた、特製の私服。
上品な群青色の生地に、白いレースのフリルがあしらわれた可憐なワンピース。そして、銀色の美しい髪には、私が選んだ青いリボンの髪留めが結ばれている。
143センチの小柄な体に、まるで絵本から飛び出してきたようなお人形さんのようなドレスが完璧にフィットしていた。
「すごく似合ってるわよ、リリィ。街の誰もが振り返るくらい可愛いわ」
私がそう言うと、リリィはわずかに頬を赤らめ、目を泳がせた。
「可愛い……ですか。この服装は、戦闘時の機動性が著しく低下します。護身の観点からは極めて不合理です」
「戦闘の話は禁止! 今日はただの『可愛い女の子』として街を歩くの。ね?」
私が手を差し出すと、リリィは少し躊躇したのち、その小さな手で私の指をしっかりと握り返してくれた。
私たちは賑やかな市場を抜け、貴族街の一角にある、一際おしゃれな外観の店へと足を向けた。
看板には、優美な筆記体で『銀の匙のティーサロン』と記されている。窓ガラスの向こうでは、色とりどりの果物が飾られたタルトや、幾重にも層を重ねた美しい洋菓子が客たちのテーブルを彩っていた。
店内に足を踏み入れると、甘く香ばしい砂糖とバターの匂いが鼻腔をくすぐった。
案内された窓際の席に座り、私はメニューを開く。
「どれにしようかしら……。リリィは何か食べてみたいものある?」
メニューの写真をじっと見つめ、リリィは真剣な表情で首を振った。
「判定不能です。視覚情報からは、これらがどのような化学構造を持ち、人体にどのようなエネルギーをもたらすのか推測できません。……サクラの推奨するものを注文してください」
「ふふ、じゃあ私が全部選いすぐりのを頼むわね」
私は店員を呼び、季節の果物がふんだんに乗ったベリータルトと、幾層ものチョコレートが美しく重なったケーキ、そして温かいハーブティーのセットを注文した。
しばらくして、私たちのテーブルに、まるで宝石のように輝くスイーツが運ばれてきた。
お皿の上で、真っ赤なイチゴと純白のクリームが甘い香りを放っている。
「どうぞ、召し上がれ」
私はフォークを一本取り出し、リリィの手にそっと握らせた。
リリィはフォークの持ち方をじっと確認すると、ケーキの端っこをほんの少しだけ切り取った。そして、緊張した面持ちでそれを口へと運ぶ。
モグモグと、小さな口がわずかに動いた。
――その瞬間。
リリィの藍色の瞳が、驚愕で見開かれた。
彼女の動きが、ぴたりと止まる。
「リリィ? お気に召さなかった……?」
私が心配になって声をかけると、リリィはゆっくりと首を横に振った。
そして、言葉を発する代わりに、もう一口をフォークですくい取り、自分の口へと運んだ。
相変わらず顔の表情筋は動いていない。声のトーンも変わらない。
けれど、彼女の背後で、目に見えない小さな花がポフポフと咲き誇っているような、そんな不思議な熱量が彼女の周囲から溢れ出していた。
「……これは」
リリィはぽつりと呟いた。
「口に入れた瞬間、生地が溶け、果物の酸味とクリームの油脂が脳内の味覚神経を心地よく刺激します。痛みを伴わない、化学反応……これが、『甘味』という概念ですか」
「そうよ。美味しい?」
「……肯定」
リリィは小さくうなずくと、少しだけ頬を染めてスプーンを動かした。
無表情のまま、ものすごい集中力で一心不乱にケーキを食べていく。その姿があまりにも可愛らしくて、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
「そんなに気に入ってもらえて嬉しいわ。甘いものはね、脳の疲れを癒やして、心を温かくする魔法の薬みたいなものなのよ」
「魔法の薬……」
リリィはハーブティーを一口飲み、ふう、と小さく息をついた。
彼女の肩の力が、完全に抜けているのが分かる。
いつも戦闘や警戒で張り詰めていた彼女の神経が、この甘いお菓子と穏やかな空間の中で、初めて心の底からリラックスしていた。
「サクラ」
「ん?」
リリィはフォークを置き、まっすぐ私を見つめた。
窓の外から差し込む午後の光が、彼女の銀髪と青いリボンを柔らかく照らしている。
「私には、過去の記憶に温かい思い出というものが存在しませんでした。研究所の冷たい金属音と、傭兵団の殺伐とした砂埃だけが私の全てでした」
淡々とした語り口。けれど、その言葉の重みが私の胸を打つ。
「ですが……学園に来て、サクラと出会い、戦闘だけでなく、このような甘い食物の味を知り、綺麗な服を着せてもらい……私は今、初めて『生きていてよかった』と感じています」
胸の奥が、熱く熱く締め付けられた。
涙が出そうになるのを必死でこらえ、私は彼女の手の上から自分の手を重ねた。
「当たり前よ、リリィ。貴女はもう、ただの兵器なんかじゃない。私の大切なパートナーで、世界で一番可愛い、普通の女の子なんだから」
「……普通の、女の子」
リリィはその言葉を、大切にするように何度も心の中で繰り返した。
やがて、彼女の硬かった唇の端が、ほんのわずかに、自然な弧を描いて持ち上がった。
それは、これまで見た中で――最も美しく、世界で一番温かい微笑みだった。
「はい。私はサクラの相棒であり、普通の女の子です」
店内に流れる穏やかな音楽と、甘いお菓子の香り。
私たちは互いの手を握りしめたまま、静かで幸福な午後の時間を分かち合った。
実家の承認なんていらない。
血筋の看板も、世間の評価も関係ない。
私たちが手に入れたこの温もりこそが、何よりも尊い私たちの現実なのだから。




