規格外
フランシスが歩いたあとには、ごく浅い波紋が一つ残るだけだった。
ほかの人間は一歩ごとに足を泥から引き抜いていて、そのたびに「ぼこ」という音が鳴る。
彼にはそれが無い。
陸は、その男の足元へ視線を移した。
分からなかった。天涯幕がどれだけ寄っても、見えるのは水面を踏んで、また離れる靴だけだ。
沈んでもいないし、跡も残っていない。
まるで、あの泥のほうが彼を知っているみたいだった。
場では、フランシスが枯れた木のそばまで来て、足を止めた。
刀は抜かない。
一匹のマッドイールが、真っ直ぐ彼の足元へ向かって走った。
そして、あと三歩というところで、見えない何かにぶつかったように、身体をまるごとよじった。
避けて、別の方向へ行った。
『……よけた』
「よけたな」
立ち止まって彼を見ることすら、しなかった。
ほかの人間には、あれは真っ直ぐ巻きついている。
二人とも、それきり黙った。
沼の向こう側で、ようやく符契が上がりはじめた。
「火の符契——一条目、火焔刃」
炎が水面を叩いて、白い煙が上がる。煙が晴れたとき、そのマッドイールはもうそこにいなかった。
「土の符契——一条目、砕岩斬」
石が泥へ落ちて、音まで湿っていた。
待機席で、誰かがため息をついた。
「この組、きついな」
「火と土、沼じゃ何もできねえだろ」
そう言った本人も、あまり笑えていない。
「地図の運ってやつだよな、結局」
その一言のあと、後ろの列が少しのあいだ静かになった。
誰も言い返さなかった。本当のことだからだ。
陸は、「運」という言葉を頭の中に少し置いた。
自分の五つの技のうち、一つは火で、一つは風だったことを思い出す。
(……もしD組も、こういう場所だったら)
そこから先は、考えなかった。
場でまた何人か倒れた。
天涯幕が、沼の北側へ切り替わる。
そこでは、一人の人間が自分と戦っていた。
陸は、一度まばたきをした。
比喩ではない。その男は、自分とまったく同じ形をしたものと向き合っている。
【マッドドール】LV7/徘徊級
それは泥でできていて、造りは粗いのに、動きだけは男とそっくりだった。
男が左へ動けば、それも左へ動く。
男が刀を上げれば、それも刀を上げる。
ただ、半拍だけ遅い。
「……あれ、どう倒すんだ」
『半拍遅いなら、そこが隙でしょ』
言うのは簡単だ。
だが画面の中のその男は、もう二分ほど同じ場所に立っている。刀を上げては下ろし、下ろしては上げていた。
彼が一つ動くたびに、向かいの泥も一つ動く。
『……でも、』
『ずっと自分の動きを見せられてたら、緊張しないほうが無理か』
画面の中で、男がついに斬りかかった。
マッドドールも斬りかかった。
半拍遅れたその一撃が、男の肩に入った。
白い光。
場外。
陸は、ふと手が冷たくなっているのに気づいた。
自分の手を見下ろして、それから「守」の柄を少しだけ強く握った。
あの泥は、もう水の中へ崩れて戻っている。
あれがさっき覚えたのは、二分も刀を上げ下げしていた人間の動きだ。
天涯幕が、また切り替わった。
今度は水面の下だ。
黒いかたまりが、何人かの脛に貼りついている。水草のように見えるが、水草は動かない。
【ブラッドリーチ】LV4/徘徊級
貼られた本人たちは、最初は何も感じていない。
十数秒して、動きが遅くなりはじめた。
疲れたのでもない。重くなったのでもない。
一つ一つの動作が、本来より少しだけ遅れるのだ。
刀を上げるのが少し遅い。振り向くのが少し遅い。避けるときに、少し遅い。
そのうちの一人がようやく自分の脚を見下ろして、悲鳴を上げながら叩きはじめた。
待機席でも、何人かが同じように身体を震わせた。
「……俺、こういうのがいちばん嫌いなんだ」
隣の少年が言った。
膝の上に置いた手の指先が、さっきから動き続けている。
陸は、その横顔を見た。
怖がっている顔ではない。あれが貼りついたときにどうなるのかを、知っている顔だった。
少年は、それ以上何も言わなかった。
そのとき、沼の東側が盛り上がった。
少しではない。かなり広い範囲がだ。
泥の中から立ち上がったものは、人の二倍の背丈があった。全身から泥が流れ落ちていて、どこが顔なのか分からない。
【スワンプベノム】LV13/軍勢級
陸の呼吸が、半拍止まった。
あれには、覚えがある。
この個体にではない。この名前にだ。
(……沼毒獣)
記憶の中のあれは、目の前のこれとは少し違っていた。
そして、あのとき彼は地面に立って見ていた。待機席に座って見ていたのではない。
場の人間が、下がりはじめる。
前へ出たのは、一人だけだった。
黒い傘は、まだ腰に差さったままだ。
フランシスが、刀の柄に手を置いた。
そして、口を開いた。
入場してから今まで、彼が声を出したのはこれが初めてだった。
「水の符契——二条目、雨隠」
沼の上に、ごく薄い霧が立った。
それだけだった。
爆発も、光も、何も起きない。
雨上がりのような白い霧が、水面に一枚かかっただけだ。
それから、スワンプベノムが倒れた。
その間に何が起きたのか、陸には見えなかった。
天涯幕にも見えていない。
画面にあったのは——霧が立って、人の二倍あるものが真ん中から二つに分かれた、それだけだ。
待機席では、誰も喋らなかった。
頭上の板が動いた。
1 フランシス 100
「……百」
その一行が浮かんだとき、場に名前は一つしか無かった。
二位は、まだ空欄のままだ。
『オヤジ』
「ああ」
『あの人、一個しか使ってない』
蓮の声は低かった。誰かに聞かれるのを恐れているような低さだった。
『それに、さっきから一回しか唱えてないよ』
陸は、まだ晴れきっていない霧を見ていた。
その霧はひどく淡くて、天涯幕が寄っていなければ、待機席から何かが立ったことにすら気づかなかっただろう。
(……使えないんじゃない)
(使ってないんだ)
控室のときもそうだった。あの傘は床を一度叩いただけで、LV9の男が拳を下ろした。
あの人は今まで一度も、自分が本当に何をしているのかを、誰にも見せていない。
霧が、ゆっくりと薄くなっていく。
場の人間がまた動きはじめ、また符契を叫びはじめ、またマッドイールに水の中へ引きずり込まれはじめた。
何もかも、さっきと同じだ。
一つだけ、違っていた。
水が、動いている。
誰かに掻き乱されたような動きではない。水面がまるごと、同じ方向へ流れているのだ。
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【ステータス(能力面板)】
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【名前】リク(神坂 陸)
【LV】4
【種族】人族
【職業】浪人(初心者)
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【基本能力値】
HP(生命力):45 / 45
MP(魔力) :??? / ???
SP(體力) :40 / 40
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【裝備・武器】:羈絆の刃・守
【 招式塊スロット】:【 風渦曲陣 】【 熱素時限刃 】【 凍水無影斬 】【 幻夢蜃氣斬 】【 ロード中 】
【パッシブ】:【 魔物解析 】【 個体解析 】
【?】:【 放置モード 】【 写身 】




