泥中の蓮
A組の人間が、ぽつぽつと通路へ戻っていく。
あの寝間着の子どもは、まだ階段に座って膝を抱えていた。
誰も声をかけない。
座ってから今までに、その横を通った人間は五十人はいる。そのうちの全員が、ほんの少しだけ避けて通った。
「B組、入場!」
陸は、場の真ん中へ視線を戻した。
七十五人が、反対側の通路から出てくる。
少し探した。
探すまでもなかった。
列の後ろ、やや右寄りに、黒い傘がある。
畳んだまま腰に差してあって、刀のように見えた。
「……本当に持って入ったのか」
『持って入ったね』
陸は、なんとなくその男から目が離せなくなった。
視界の隅に、白い枠が開く。
【個体解析】——不可
「……また出た」
『また弾かれたよ』
陸はその男に視線を二秒ほど置いたままにしてみたが、枠はやはり開かなかった。
「……これって、強いってことなのか」
『分かんない』
『でも、普通の人はこうならないでしょ』
陸に分かっているのは、一つだけだ。
この三文字を見るのは、これで二度目だということ。
一度目は控室で、あの男が拳を一つ止めてくれた直後だった。
場の土が、動きはじめた。
だが、今度は違った。
A組のときは、土が左右へ退いて、下から木が押し上がってきた。
今度は、何も上がってこない。
水だった。
土の色が真ん中から濃くなっていく。輪になって外へ広がっていく。誰かが下から地面をまるごと濡らしているような広がり方だった。
それから、湧きはじめた。
噴くのではない。じわじわと滲むのだ。水が土の隙間から這い出してきて、地面をふやかして、そのまま沈めていく。
七十五人が立っている位置が、一寸ずつ低くなっていった。
止まったときには、闘技場は一面の沼に変わっていた。
枯れた木があちこちに斜めに突き刺さっている。水面には緑色のものが浮いていて、底は見えない。
待機席で、誰かが舌打ちをした。
「これ、森より最悪じゃねえか」
「足抜けねえだろ」
「A組は運が良かったってことかよ」
陸は、場を見下ろした。
七十五人のうち、半分はもう脛まで沈んでいる。
まだ、始まってすらいない。
「……蓮」
『ん?』
「うちの組は、何になるんだ」
頭の中は、すぐには返ってこなかった。
『分かんないよ』
『開けてみないと分かんないでしょ』
その「分かんない」は、ずいぶん軽い言い方だった。
組ごとに地図が違う。A組は森で、B組は沼だ。
ではD組は何なのか。今それを知っている人間は一人もいない。陸自身も含めて。
さっきまで、彼はA組を熱心に見ていた。自分とは関係のないものを見るような見方だった。
今は違う。
気づけば計算していた。脛まで沈んだ状態で、木刀は振れるのか。
(……振れないだろうな)
鐘が鳴った。
水面が破れた。
最初に出てきたのは、細長いものだった。黒くて、ぬるぬるしていて、水の中を人より速く走る。
【マッドイール】LV2/徘徊級
攻撃はしてこない。
足首に巻きつくのだ。
場で一気に七、八人が転んだ。顔から水に突っ込んで、起き上がったときには頭じゅうが緑色になっている者もいる。
「うわ——」
待機席で笑いが起きた。その笑いは本物で、前の列では隣の人間を叩いている者までいた。
だが、その笑い声は短かった。
最初に巻きつかれた人間が、立ち上がる前に引きずられていったからだ。水面に線が一本残って、その線も消えた。
二秒後、白い光。
場外。
もう、誰も笑わなかった。
「……あれ、何点なんだ」
『十点』
「十点」
陸は、その数字を頭の中で一度転がした。
人間が一人水の中へ引きずり込まれて、十点。しかもそれは、あれを倒した人間に分けられる点だ。
『オヤジ、あっち見て』
水面に、細い筋が一本走っている。
何もいない。ただの筋だ。誰かが指で水面をなぞったような、それだけのもの。
一人の少年が、その方向へ刀を構えた。
筋が急に曲がって、彼の横から抜けた。
少年はまるごと弾き飛ばされて、水の中へ落ちた。
【スケボリザード】LV5/徘徊級
枠が出て、ようやくその姿が見えた。
ひどく平たいトカゲだ。足の裏が体に合わないほど大きくて、水面に貼りついたまま滑っている。
一秒だけ姿が見えて、また消えた。
「……あれ、見えないだろ」
『見えるって。水面を見るんだよ』
『滑ったところに筋が残るから』
陸は目を細めた。
確かに残っている。
問題は、その筋が見えたときには、もう別の場所にいるということだった。
次は、音だった。
沼の西で、蛙のようなものが喉を膨らませた。
【トランペットフロッグ】LV6/徘徊級
それが、鳴いた。
蛙の声ではない。高くて薄い、鉄の板で鉄の板を擦るような音だった。
場で、いちばん近くにいた十数人が、いっせいに動きを止めた。
倒れたのではない。止まったのだ。
そのうちの一人が口を開いた。符契を唱えているように見えた。
だが、自分が何を唱えているのか、本人にも聞こえていない。
隣の人間が肩を引いた。彼はひどく驚いて、危うく味方を斬るところだった。
その蛙は、二度目は鳴かなかった。
喉を膨らませたまま、そこに止まって、次の人間が近づいてくるのを待っている。
「……あっちのほうが最悪だな」
『話が通じなくなるんだもん』
待機席が、静かになった。
そこで陸は気づいた。B組はさっきから、成功した符契を一度も出していない。
実力の問題ではない。
この沼が、最初から一度も彼らを立たせていないのだ。
そのとき、天涯幕が画面を切り替えた。
陸の目は一度そこを通り過ぎて、それからまた戻った。
画面の中に、歩いている人間がいる。
歩いている。
全員が脛まで沈んでいる場所で、その男だけが、歩いていた。
黒くて、ふわりと癖のある短髪。腰には畳んだ黒い傘。
裾には、泥が一つもついていない。
陸は、少し前へ身を乗り出した。
自分の見間違いではないか、確かめたかった。
「……蓮」
『見えてる』
『無理でしょ、これ』
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【ステータス(能力面板)】
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【名前】リク(神坂 陸)
【LV】4
【種族】人族
【職業】浪人(初心者)
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【基本能力値】
HP(生命力):45 / 45
MP(魔力) :??? / ???
SP(體力) :40 / 40
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【裝備・武器】:羈絆の刃・守
【 招式塊スロット】:【 風渦曲陣 】【 熱素時限刃 】【 凍水無影斬 】【 幻夢蜃氣斬 】【 ロード中 】
【パッシブ】:【 魔物解析 】【 個体解析 】
【?】:【 放置モード 】【 写身 】




