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朝の光は聖域の白い大理石に反射して、私の目を刺すような鋭さで迎えた。
鏡の中に映る自分の姿を見る。銀色の髪は整えられ、聖域の巫女にのみ許される純白の法衣が全身を包んでいる。それは清浄さの象徴であると同時に、世俗との絶縁を意味する「死装束」にも見えた。
「……似合いませんわね。やはり私は、毒を孕んだシルクの方が性に合っているわ」
自嘲気味に呟き、私は部屋を出た。
扉の外では、昨日と変わらぬ余裕の笑みを浮かべたアドリアヌスが待っていた。
「おはようございます、アウレリア様。教皇猊下がお待ちです。準備はよろしいですか?」
「ええ。この窮屈な服の中で私の魔力が爆発する前に、さっさと済ませましょう」
私たちは「至聖所」へと続く長い回廊を歩いた。
道中、聖域の窓から外を望むと、遠くの地平線に薄汚れた煙が立ち上っているのが見えた。あれは火事ではない。ガイウスが率いる軍勢が、聖域の結界の外縁を焼き払い、自分たちの陣地を設営している証だ。
彼の軍略は「攻城戦」の定石通りだ。まず周囲を枯渇させ、心理的に追い詰める。だが、相手が神の加護を盾にする聖域であってもそれを実行するとは、よほどの自信か、あるいは正気を失っているかのどちらかだ。
至聖所の最奥、巨大なステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光の中に、教皇コンスタンティヌスは座っていた。
百歳を超えていると言われるその肌は干からびた羊皮紙のようで、瞳だけが湿った黒曜石のように光っている。
「……来たか、迷える子羊よ。いや、狼の群れを連れてきた厄災の娘と言うべきか」
老人の声は、まるで墓の底から響く風のようだった。
「ご挨拶が手厳しいですわね、教皇猊下。私が連れてきたのではありません。彼らが勝手に、私の足跡に鼻を啜りながら追いかけてきているだけですわ」
私は跪くことなく、その老いた権威の前に立った。アドリアヌスが後ろで小さく溜息をつくのが聞こえた。
「そなたの『聖魔力』は、この世界を繋ぎ止める楔だ。二十四の家門が、それぞれ、貴女を求めるのは、本能がそう命じているからに他ならぬ。アウレリアよ、そなたは自がただの人間だと思っておるのか?」
「……何が仰りたいのですか」
「この世界の法則、魔力の循環、そして国家の均衡。それらはすべて、かつて神が遺した『歯車』によって回っている。そして、その歯車を潤滑させるための唯一の『油』が、そなたの血筋に流れる聖魔力なのだ」
コンスタンティヌスは震える指で、空中にある術を描いた。
「これは魔力の減衰率を示す基礎式だが……そなたという存在が系から外れた瞬間、この定数は崩壊を始める。あの男たちが狂ったように貴女を追うのは、貴女を愛しているからではない。貴女を失えば、彼らの領地も、魔力も、存在そのものも消滅することを魂が本能として理解しているからだ」
私は背筋に凍りつくような不快感を覚えた。
私の人生を縛っていたあの執着の正体が、愛という高尚な感情ですらない、単なる「生存への恐怖」に根ざしたものだというのか。
「……ならば、なおさら都合がいいです」
私は冷たく言い放った。
「彼らが消滅を恐れて私を求めるなら、私はその恐怖を人質にして、彼らを支配して差し上げます。猊下、契約通り『禁忌書物室』への鍵を。私は、この『世界の欠陥』を修復する方法ではなく、より確実に破壊する方法を知りたいのです」
コンスタンティヌスは数秒、私を凝視していたが、やがて喉を鳴らして笑った。
「……面白い。神が作った檻を、神の魔力で壊そうというのか。ドワーフとは違う試みだ。アドリアヌス、この娘を案内せよ。もし彼女が狂わずに戻ってこれたなら……その時は、私が座っているこの椅子さえも彼女に譲ってやろう。神の意思の元に」
聖域の地下深く。
空気は冷え切り、肺の奥が痛むほどの魔力濃度。
アドリアヌスが古びた円球の鍵をはめると、音もなく「禁忌書物室」の扉が消滅し、開いた。
そこは書架というよりは「知識の墓場」だった。
棚には、生きた皮膚で装丁された魔導書や、読む者の精神を削る囁き声を放つスクロールが並んでいる。まるで地獄の書物庫。
「ここから先は、私でも立ち入りに命の保証ができません。アウレリア様、本当に……?」
「ここで待っていて。もし私が一時間経っても戻らなければ、その時はあなたが次の教皇になればいいわ。……あ、その時は私の遺産である『二十四人への借金』も引き継いでいただくけれど」
私は皮肉を投げかけ、暗闇の中へと歩みを進めた。
書架の奥、一段と強い燐光を放つ棚があった。
そこには『歴代聖女の終焉と世界の再構築に関する全記録』という背表紙の書物があった。私はそれを手に取り、ページを捲る。
読み進めるうちに、私の視界は血の気が引いて白んでいった。
衝撃的な事実が綴られていた。
過去の聖女たちは、みな一様に「守護者」に囲まれ、最後には彼らに「分割」されて消費されていた。ある者はその血を全土に撒かれ、ある者はその臓器を魔導具の核とされ。
私が今まで「求婚」だと思っていた行為は、実は彼女たちを解体するための儀式的な「セリ(オークション)」の予行演習に過ぎなかったのだ。
「……そういうことだったのね」
怒りよりも先に、深い納得が私を支配した。
ガイウスが言った「首に鎖を繋ぐ」という言葉。ルキウスが言った「浄化して差し上げる」という言葉。カッシウスが言った「知性の共鳴」
それらすべては、私を「一人の女」としてではなく、高度な「資源」として適切に処理するための隠語だったのだ。
私は震える手で、その本の最終ページを読み飛ばした。
そこには、一人の無名の魔術師が遺した、殴り書きのような注釈があった。
> 『もし、楔が自らの意志でその存在を「虚数」へと転じさせたなら、歯車は逆回転を始め、檻は内側から砕け散るだろう。だが、その代償は――』
「……代償なんて、最初から払っているわ」
私はその注釈の術式を頭に刻み込んだ。
世界のルールを書き換える。それは、私自身をこの物理世界から「抹消」しつつ、影響力だけを残すという、高度な矛盾を孕んだ禁術だ。
その時。
書物室の地上から、大地を揺らすような地響きが伝わってきた。
聖域の防衛結界が、外部からの強大な打撃を受けた時の振動だ。
私は急いで地上へと戻った。
アドリアヌスが顔を強張らせて待っていた。
「アウレリア様! 予定より早すぎます……! ガイウス殿下が、帝国の禁呪兵器『火竜の咆哮』を起動させました! 結界の第一層が突破されました!」
「……あの男、本当に聖域を焼き払うつもりなのね。どこまで罰当たりなのかしら」
私は至聖所のバルコニーへと駆け上がった。
外の景色は地獄の様相を呈していた。
夕闇を切り裂く巨大な火柱。聖域を囲む森は赤く染まり、数千の兵士たちの怒号がここまで届いてくる。
その火柱の中心に、馬を駆るガイウスの姿が見えた。
彼は拡声の魔導具を使い、全土に響き渡る声で叫んだ。
「アウレリア! 隠れていないで出てこい! 私の所有物を神の懐に隠そうなど、片腹痛い! 今すぐ戻るなら、聖域の連中の命だけは助けてやる。だが、これ以上拒むなら……私はこの大陸を灰にしてでも、お前の骨を拾い上げるぞ!」
狂っている。
だが、その狂気こそが私が彼らを選ばなかった正当性の証明だ。
「アドリアヌス。教皇猊下に伝えて。……楔を壊す準備が整った、と」
「……アウレリア様、何をなさるおつもりですか?」
私はバルコニーの縁に立ち、夜風に身を晒した。
眼下の軍勢を見下ろしながら、私は指先を天にかざす。
「世界が私を解体しようとするなら。私は解体される前に『蒸発』してみせるわ」
私の体から、これまでにない濃度の金色の魔力が溢れ出した。
それは聖域の結界を修復する光ではない。結界のエネルギーをすべて吸い取り、一つの巨大な「特異点」へと集束させる破壊の光だ。
「ガイウス、カッシウス、ルキウス。あなたたちの『愛』という名の飢餓感を、今ここで永遠に満たしてあげる」
私は微笑み、禁忌の術式を展開した。
光の渦が私を包み込み、聖域全体が白一色の世界へと塗り潰されていく。




