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聖域ウィア・ラクトアの最奥に位置する「白亜の回廊」は、外界の喧騒を一切遮断した、静謐という名の真空地帯だった。
壁面に施された精緻な浮き彫りは、神々が混沌を鎮め、秩序を打ち立てる歴史を物語っている。しかし、その冷たい石の感触は、私に安らぎではなく、底知れぬ孤独を予感させた。
コツ、コツ、と私の靴音が高く響く。
先導するアドリアヌス・カエリオの背中は、修道士の法衣に包まれていながらも、どこか野生のしなやかさを感じさせた。
「ここが貴女の新しい『居場所』です、アウレリア様。あるいは、世界で最も安全な監獄、と呼ぶべきでしょうか」
彼が重厚な銀の扉を開くと、そこには私の故郷の自室を模したかのような、過剰なまでに整えられた贅沢な空間が広がっていた。調度品はすべて最高級の白檀と絹で作られ、窓からは聖域の象徴である「永遠の泉」が一望できる。
「随分と手回しがいいことですわね、アドリアヌス様。私がここに来ることを、教皇様は確信していらしたの?」
「確信、という言葉は正しくありません。期待、と言い換えていただけますかな。貴女の『聖魔力』は、この聖域を支える大結界を維持するために必要不可欠な、いわば失われた歯車なのです」
アドリアヌスは私を振り返り、その切れ長の瞳に淡い月光を宿らせた。
「貴女が二十四名の男たちを捨て、自由を求めてここへ逃げ込む。その一連の流れは、教皇様にとって、神が授けた唯一の『救済プラン』だったのです。……もっとも、あの者たちが連合軍を組むという事態までは、神も予想していなかったかもしれませんが」
私は窓辺に寄り、夜の闇に沈む聖域の境界線を見つめた。
アドリアヌスの言う通りだ。私は二十四もの婚約を破棄することで、一時的な解放を手に入れた。だがその結果、本来なら利害が対立し、決して交わるはずのなかった帝国、公国、騎士団、そして魔術ギルドが、私という一つの「獲物」を奪還するために手を取り合ってしまった。
彼らが結成した「アウレリア奪還連合軍」
その規模は、おそらく王国の歴史上類を見ないものになるだろう。第一王子ガイウスの軍事指揮能力、カッシウスの魔術戦術、そしてルキウスの宗教的熱狂。これらが融合した時、この聖域の壁が果たしてどれだけ持ち堪えられるか。
「……彼らは、なぜそこまで私に執着するのかしら。魔力のためだけなら、私を殺してその心臓を捧げる方が、管理としては楽なはずですのに」
「それは貴女が一番よくご存知のはずだ。アウレリア」
アドリアヌスが、不意に距離を詰めた。
彼の手が、私の頬に触れそうで触れない、絶妙な距離で止まる。
「貴女が彼らに見せた『理想の女』は、あまりにも美しい幻想だった。一度その毒を啜った男にとって、貴女を失うことは自らの魂の半分を削ぎ落とされるに等しい。……愛ではありません。それは、自分が神に近い存在であると証明するための『所有欲』という名の狂気です」
「……あなたも、その一人になりたいのですか?」
私は彼を射抜くような視線で見つめ返した。アドリアヌスは唇の端を吊り上げ、愉しげに笑った。
「私は聖職者ですよ。神以外のものを求めることは禁じられています。……ですが、神よりも神々しいものが目の前にあれば、教義を書き換えたくなるのが人間の性というものです」
私は彼の手を冷たく払い除け、部屋の隅にある書斎の机に向かった。
座って早々、私は羊皮紙を広げ、計算を開始する。
私が聖域に提供する魔力の総量と、結界の強度、そして連合軍が動員できる兵力と魔導兵器の出力の相関関係。
脳内で複雑な魔術を組み立てる。
私の魔力ポテンシャル、それぞれの婚約者が持つ破壊的衝動のベクトル。
導き出される答えは極めて悲観的だった。
「あと三ヶ月。それが、この聖域が物理的に耐えられる限界ね」
「ほう、随分と正確な見積もりだ。教皇庁の魔術統計官でも、そこまでの具体的な数字は出せませんよ」
「伊達に二十四人と婚約していたわけではありませんわ。彼らの性格、軍隊の癖、魔力の波長……すべて、この頭の中に叩き込んであります。ガイウスは力押しに見せて側面からの奇襲を好む。カッシウスは結界の『継ぎ目』を論理的に破壊する。ルキウスは……あの男は、信仰を武器に結界そのものを内側から侵食するでしょう」
私はペンを置き、アドリアヌスに向き直った。
「アドリアヌス様、交渉をしましょう。私は聖域のために魔力を捧げます。ですが、私は単なる『動力源』としてここに留まるつもりはありません。私に、聖域の地下に眠る『禁忌書物室』へのアクセス権を。そして、教皇庁が隠し持っている、過去の聖女たちの『失敗の記録』をすべて見せてください」
アドリアヌスの顔から笑みが消えた。
禁忌書物室。そこは、歴代の教皇さえも立ち入りを制限される、世界の真理と崩壊の記録が収められた場所だ。
「……アウレリア様。貴女は、そこにあるものを知って仰っているのですか? あれは、人間が正気を保ったまま読めるものではない」
「正気? そんなものは、二十四人の男たちに求婚された時点で捨てておりますわ。私が求めているのは、彼らを屈服させるための力ではなく、彼らが私を追い求めることさえ無意味だと悟らせるための『絶望』です」
私は立ち上がり、窓の外の暗闇を見据えた。
「全ての婚約を破棄した結果、世界が私を敵に回すというのなら。私は、この世界そのもののルールを書き換えて差し上げます」
アドリアヌスは長い沈黙の後、深く、恭しく頭を下げた。
「……承知いたしました。貴女のその傲慢なまでの知性。もはや神の代弁者としてではなく、一人の男として、その行き着く先を見届けたくなりました」
彼は扉の方へ歩き出し、去り際に一度だけ振り返った。
「明日、教皇様との謁見を設定します。……アウレリア様、一つだけ警告を。二十四人の連合軍の先鋒が、すでに聖域の領界を越えたとの報告が入っています。率いているのは、ガイウス殿下。彼は、貴女が贈った『慰謝料』の目録を、その場で引き裂いて燃やしたそうです」
「……そう。彼らしいわね」
「彼が伝令に託した言葉は、こうです。『アウレリア、お前の首に鎖を繋ぐのは、黄金の糸ではなく、私の腕だ』。……夜道には、くれぐれもお気をつけください」
扉が静かに閉まり、私は再び一人になった。
私は震える手で、首元に触れた。
そこにはかつて、ガイウスから贈られた、帝国の国宝級のサファイアをあしらったチョーカーがあった。今はもう、何もついていない。だが、彼の言った「鎖」の感触が、今も皮膚の下に残っているような錯覚に陥る。
私は机の上の羊皮紙を丸め、暖炉の中に投げ入れた。
炎が青白く燃え上がり、私の計算式を飲み込んでいく。
「ガイウス、カッシウス、ルキウス……そして、名前も呼ぶに値しない残りの面々の方々。あなたたちが私を『愛』という名の泥沼に引きずり込もうとするなら、私はあなたたちを『真理』という名の虚無へ叩き落としてみせます」
私は静かに目を閉じ、体内の聖魔力を循環させ始めた。
全身の血管が熱くなり、皮膚の表面に淡い光の紋様が浮かび上がる。
それは、聖域の結界と共鳴する光であり、同時に、一人の女が世界を騙し抜くための決意の光でもあった。
翌朝、聖域の鐘が鳴り響く中、私は教皇との対決、そして禁忌の扉へと向かう。
私の戦いは、城の中から大陸全土、そして神の領域へとその舞台を移したのだ。




