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馬車の車輪が悲鳴を上げ、私の体は激しく座席に叩きつけられた。
御者のアントニウスが必死に手綱を捌いているが、背後に迫る蹄の音は、まるで巨大な獣の足音のように私の鼓動を追い詰めてくる。
「アウレリア様! 第一王子の親衛隊です! 聖域の旗印を見てなお、速度を落とす気配がありません!」
窓の外から叫ぶアントニウスの声には、隠しきれない戦慄が混じっていた。
私は乱れた銀髪を指で掻き揚げ、窓から身を乗り出して後方を確認した。
もうもうと立ち込める土煙の向こう側。
帝国の象徴であるウェルシュドラゴンの紋章を翻し、黄金の鎧を夕日に輝かせたガイウス・ユリウスが、文字通り「悪魔」のような形相で愛馬を飛ばしていた。その左右には、漆黒の馬に跨る魔術師団長カッシウスと、白銀の甲冑を纏った聖騎士ルキウスの姿もある。
(……早すぎるわ。あの男たち、議場での混乱をどう収めたの?)
通常、あのような公の場での婚約破棄は、各家門の面子を潰し、政治的な調整に数日はかかるはずだ。だが、彼らはそんな「手続き」など最初から無視するつもりらしい。法も倫理も、私の放った「聖域の盾」さえも、今の彼らにはただの薄紙に過ぎないということらしい。
「アントニウス、馬車を止めて」
「なっ……何を仰るのですか! 捕まれば最後、今度こそ地下迷宮にでも閉じ込められますぞ!」
「いいから止めて。このままでは馬が潰れるわ。それに、逃げ回るばかりでは『聖域の巫女』の威厳が台頭しませんもの」
私は冷徹に命じた。
逃げ切れないのなら、ここで「分からせて」やる必要がある。彼らが愛していると錯覚しているものが、いかに脆く、そして私がどれほど彼らの手に負えない存在であるかを。
馬車が急停止し、激しい砂埃が舞う。
間を置かず、追っ手たちが私たちを包囲した。
馬を降りたガイウスが、荒い息をつきながら私の方へ歩み寄ってくる。その瞳は血走り、端正な顔立ちは怒りと――それ以上に、理解し難い歓喜に歪んでいた。
「アウレリア……! やっと捕まえた。何の真似だ、あの茶番は! 私を、帝国をあそこまでコケにして、ただで済むと思っているのか!」
ガイウスが私の腕を掴もうと手を伸ばす。
私はその手を、扇子で冷ややかに叩き落とした。
「お控えなさい、殿下。今の私はセプティミウス帝国の臣民ではなく、聖域の守護巫女です。私に触れることは、神の逆鱗に触れることと同義だと、先ほど申し上げたはずですが?」
「神だと? 笑わせるな! 神を動かしているのは我ら王族の金と力だ! 巫女の肩書きなど、私が教皇の首をすげ替えれば一瞬で消える!」
ガイウスが叫ぶ。その背後で、カッシウスが静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「殿下の仰る通りです、アウレリア様。あなたの計算は完璧でしたが、一つだけ見誤っている。――我々を含めた二十四人が、互いに憎み合いながらも、あなたを連れ戻すという一点においてのみ、即座に協定を結んだことをね」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
二十四の家門が、手を取り合った?
本来なら互いに食い合うはずの狼たちが、獲物を逃さないために一時的に群れを成したというのか。
「アウレリア様、さあ、こちらへ」
ルキウスが跪き、白手袋をはめた手を差し出す。その瞳は濁り、陶酔しきったような輝きを放っていた。
「あなたがどのような罪を犯そうとも、私はあなたを許します。神よりも深く、私があなたを浄化して差し上げましょう。さあ、その汚らわしい聖域の衣を脱ぎ捨てて、私の用意した純白の檻へ戻りましょう」
……ああ、やはり。
この男たちは救いようがない。
私は小さく溜息をつき、空を仰いだ。
夕闇が迫り、第一の星が瞬き始めている。
「皆様。私はこの一年、皆様の隣で笑い、皆様の好みに合わせた『理想の婚約者』を演じてまいりました。ガイウス殿下には誇り高い戦乙女として。カッシウス様には知的な隠者として。ルキウス様には清廉な聖女として。……でも、一度でも考えたことはありますか? なぜ私が、二十四人分もの『理想』を完璧に演じ分けられたのかを」
三人の動きが止まった。
「それは、私にとって皆様との時間が、呼吸をするよりも簡単な『作業』に過ぎなかったからです。情熱も、愛着も、欠片もなかった。ただ、今日この日のために、皆様の急所を握り、財産を把握し、心理的な依存を深めるための準備をしていただけなのです」
「黙れ……! そんな嘘で、私の心を揺さぶれると思うな!」
ガイウスが再び手を伸ばす。
「嘘かどうか、今すぐ証明して差し上げますわ。――『アルカヌム・セプテントリオ(七星の呪縛)』」
私が指先を鳴らした瞬間、ガイウス、カッシウス、ルキウスの足元に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
それは、彼らが私に「愛の証」として贈った、あの二十四個の指輪に仕込んでおいた魔力を触媒とした拘束魔術だ。
「なっ……魔力が……練れない!? これは……封印術か!」
カッシウスが苦悶の表情を浮かべる。魔術師団長である彼が解除できないほどの術。それこそが、私が「聖魔力」の継承者である真の理由だ。
「指輪を贈られた時、私はそれらに一点ずつ、私の魔力を染み込ませてお返ししました。皆様はそれを『私からの愛の返答』だと信じて、大切に宝物庫や身近な場所に置いてくださいましたわね。その数百日の束縛すべてが、今、私の遠隔操作で皆様の領地、軍事拠点、そしてあなた方自身の魔力回路を縛る鎖となりました」
私は馬車のステップに立ち、見下ろすように言い放った。
「今ごろ、帝都のあなた方の屋敷では、預けてあった魔導具が暴走し、機密文書が次々と燃え上がっているはずです。私を追っている場合ですか? 今すぐ戻らなければ、あなた方の権力の基盤は一夜にして灰になりますわよ」
「アウレリア……貴様、最初から……!」
ガイウスが膝をつき、私を睨みつける。その瞳には、激しい怒りと共に、抗いがたい戦慄が混じっていた。
「さようなら、愛すべき元・婚約者様たち。追いかけてくる情熱があるのなら、まずはご自分の足元の火を消すことに費やしてくださいませ。次に私に触れようとした時は……その時は、国の一つや二つ、消し飛ばす覚悟でいらしてね」
私はアントニウスに合図を送り、馬車を発進させた。
拘束魔術にかかった彼らは、動くことも、追撃を命じることもできない。ただ、去りゆく馬車の土煙を浴びながら、絶叫に近い私の名を呼ぶことしかできなかった。
夜の帳が下り、馬車は聖域へと続く国境の森を抜けていた。
私は座席に身を投げ出し、ようやく深い息を吐いた。
(……ひとまずは、これで数日は稼げるはず)
だが手の震えが止まらない。
彼らの執着は、私の予想を遥かに超えていた。特にあのガイウスの瞳――。あれは、権力やプライドを奪われてなお、私という個体を屈服させたいという、原始的なまでの悪魔的な渇望だった。ああ、神よ。
「アウレリア様、大丈夫ですか?」
アントニウスが心配そうに声をかけてくる。彼は私の実家の代から仕える忠義の男だ。
「ええ、大丈夫よ。……ただ、少し疲れたわ。聖域に着いたら、教皇コンスタンティヌス様との契約を履行しなければ」
そう、聖域の巫女という地位も、タダで手に入れたわけではない。
教皇コンスタンティヌス――あの老獪な老人は、私の「聖魔力」を聖域の結界の維持に使うことを条件に、私を保護することを約束した。つまり、私は「二十四人の檻」から逃げ出し、「教会の檻」へと自ら飛び込んだに過ぎないのだ。
だが、それでもいい。
誰かの所有物として、愛の言葉という名の鎖に縛られるよりは、契約に基づいた冷徹な関係の方が、私にはずっと心地よい。何よりその結界こそ、私自身を追ってから守る為に盾になるのだから。
しばらくして馬車が止まった。
前方に月光に照らされた巨大な白い石造りの門が見えてくる。
聖域・ウィア・ラクトア。
この大陸で唯一、王権が及ばない神聖不可侵の地。
門が開かれ、白い法衣を纏った修道士たちが列をなして現れた。
その中心で、一人の若い男が私を待っていた。
教皇の代理人であり、次期教皇候補と目される男、アドリアヌス・カエリオ。
彼は私を認めると、優雅に一礼し、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「お待ちしておりました、アウレリア様。……いえ、偉大なる守護巫女様。二十四の猟犬を振り切っての御帰還、実に見事な手際です」
「……アドリアヌス様。ご挨拶は結構です。契約通り、部屋を用意していただけるかしら?」
「もちろんです。しかし、その前に……教皇様より伝言がございます」
アドリアヌスは私の耳元に顔を寄せ、密やかな声で囁いた。
「『二十四人の男たちが、共通の敵――すなわち、貴女を隠匿した聖域に対して、連合軍を組織し始めた』と。愚かな彼らは貴女を奪還するためなら、神との戦争も辞さない構えだそうです。……アウレリア様、貴女は自分がどれほど愛されているか、まだ自覚がないようですね?」
私は目を見開いた。
連合軍?
内乱を起こすどころか、私一人を奪い返すために、大陸全土を巻き込む大戦を起こそうというのか。
「……狂ってるわ」
「ええ、狂っていますとも。そして、その狂気を煽ったのは、他ならぬ貴女の気高さだ。……さて、この聖域の壁が、果たして彼らの執念をいつまで防ぎきれるでしょうか?」
アドリアヌスの瞳に、薄暗い好奇心の色が宿る。
私は自分が手に入れたはずの「自由」が、実はより巨大で残酷な「戦場」への招待状に過ぎなかったことを悟った。
全ての婚約を破棄してみた結果。
私は大陸最強の男たちを、ただの「婚約者」から、世界を滅ぼしかねない「略奪者」へと変貌させてしまったらしい。
私は拳を強く握りしめ、聖域の門の向こう側へと足を踏み出した。
夜風が私の背後で閉ざされる門の重い音を運んできた。




