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私の指は全部で十本しかない。これは哲学ではない。目の前の真実。
それなのに、あの忌々しい「求婚の宴」が終わった夜、私の手元に残された婚約指輪の数は、全部で二十四個に及んでいた。
プラチナ、ゴールド、魔力を帯びたミスリル。あしらわれた宝石は、燃えるようなルビーから深海を切り取ったようなサファイア、そして持ち主の忠誠を誓うダイヤモンドまで、眩いばかりの光を放っている。これらすべてが、この帝国セプティミウスにおいて、あるいは周辺諸国において、絶大な権力を握る男たちの「執着」の証明だった。
私は大きな天蓋付きのベッドに横たわり、月光に照らされる指輪の山を眺めていた。
私の名前はアウレリア。
この帝国の属領である小国の公女であり、同時に、失われたはずの「太古の聖魔力」をその身に宿す、生きた伝説だ。
「……阿呆らしい」
吐き捨てた言葉は、静かな寝室に溶けて消えた。
彼らが求めているのは私という人間ではない。私の体内に流れる、魔力の源泉としての血。そして、私と番うことで得られる、次代の絶対的な覇権。
私の人生は、生まれた瞬間からオークションに出品された最高級の競売品のようなものだった。
だから私は決めたのだ。
一度、すべての要求を「承諾」してみることに。
第一王子のガイウスが膝をつけば微笑んで手を貸し、隣国の冷徹な公爵カエサルが領土の半分を差し出すと言えば頷き、教会の筆頭聖騎士ルキウスが神への誓いを破って愛を囁けば、羞恥に頬を染めるフリをした。
そうして一年。私は、全王族、全貴族からの婚約を「一旦すべてオッケー」した。
結果として、大陸史上類を見ない「二十四人の権力婚約者を持つ女」が誕生したのだ。彼らはお互いを牽制し合い、私が誰を選ぶかを見極めるまで、不気味な均衡を保ち続けてきた。
そして今日。その均衡を、粉々に砕いてやる日が来たのだ。
カーテンを揺らす夜風が、私の銀髪を撫でる。
私は立ち上がり、机の上に用意していた二十四通の手紙を手に取った。すべて同じ内容、すべて同じ署名。面倒くさいから全部同じにした。
「さて。地獄の蓋をパカっと開けに行きましょうか」
翌朝。帝都セプティミウスの中央広場に面した「大公会議場」は、異様な熱気に包まれていた。
今日は、私が「最終的に誰を正夫とし、誰を側夫とするか」を発表すると予告していた日だ。会場には、帝国を象徴する赤いマントを羽織ったガイウス王子をはじめ、錚々たる顔ぶれが揃っていた。
壇上に上がった私の目に、まず飛び込んできたのは、第一王子ガイウス・ユリウスの傲慢な笑みだった。
彼は黄金の髪をかき上げ、自分が勝者であることを疑わない瞳で私を見つめている。
「アウレリア。待ちわびたぞ。その焦らしすら愛おしい。さあ、恥ずかしがらずに私の名を呼べ。そうすれば、お前はこの帝国の半分を手に入れることになる」
その隣では、魔術師団長であり、常に冷静沈着なカッシウス・フラウィウスが、片眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせていた。
「王子、気が早いですよ。アウレリア様が求めているのは、知性と魔力の共鳴だ。野蛮な王族の血ではない」
さらに後ろでは、最年少で聖騎士の称号を得たウェヌス・ルキウスが、祈るように胸に手を当てて私を見つめている。
彼らだけではない。二十四人の男たちは、皆、自分が選ばれると信じているか、あるいは相手を「蹴落とす」隙を窺っている。彼らの背後には、それぞれの家門の軍事力と経済力が控えている。もしここで私が一人を選べば、選ばれなかった二十三人が即座に反旗を翻し、内乱が起きるだろう。
それを分かっていて、私は微笑んだ。
最高に優雅で、最高に冷酷な笑みを。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
私の声は、魔力に乗って会場の隅々まで響き渡った。ざわめきが止まり、静寂が支配する。
「この一年、私は皆様からの熱烈な求愛を受け、深く、深く考えました。皆様はどの方も素晴らしく、私には到底、一人を選ぶことなどできません」
ガイウスが満足げに顎を引く。彼は「ならば全員を囲えばいい」とでも言いたげな表情だ。だが、私の言葉は続く。
「ですから、私は決めました。――本日をもって、皆様全員との婚約を破棄させていただきます」
一瞬、空気が凍りついた。
誰一人として、私が何を言ったのか理解できていないようだった。
「……ん? 何と言った? アウレリア」
ガイウスの声が余裕を無くしたように低音に変わる。
「言葉通りですわ、ガイウス殿下。あなたとの婚約も、カッシウス様との約束も、ルキウス様の誓いも。ここにおられるすべて、今この瞬間をもって白紙に戻します。理由は、そうですね……『皆様、あまりにも私という人間を見ようとなさらなかったから』とでも申し上げましょうか」
「ふ、ふざけるな!」
カエサル公爵が机を叩いて立ち上がった。
「我々を愚弄するのか! 全ての婚約を承諾しておきながら、一斉に破棄だと? そんなことが許されると思っているのか! 貴公の国がどうなるか分かっているのか!」
「おやおや、彼女を罵倒するとは。早計だな」
二十四人中の誰かが言ったみたいが、分からない。
「ええ、分かっておりますわ。ですから、もう手は打ってあります」
私は懐から一通の書状を取り出した。それは、この大陸で最も中立であり、かつ絶対的な権威を持つ「聖域・ウィア・ラクトア」の教皇からの直筆署名入り免状だった。
「私は昨夜、全財産を聖域に寄進し、聖域の『永世守護巫女』としての地位を拝命いたしました。聖域の法によれば、守護巫女はいかなる世俗の婚姻も禁じられ、同時に、いかなる国家の権力も彼女を拘束することはできません。もし私に無理に触れようとすれば、それは全大陸の信徒並びに神々を敵に回すことを意味します」
男たちの顔から血の気が引いていく。
私は、彼らが私を手に入れるために用意した「法」や「権力」の網を、さらに巨大な「宗教権威」という盾で無効化したのだ。
「そんな……アウレリア様、本気なのですか? 私への愛は、嘘だったのですか?」
ルキウスが悲痛な声を上げる。私は彼に歩み寄り、その美しい頬をそっと撫でた。
「ルキウス。あなたは私を愛していたのではないわ。私を神殿の奥深くに閉じ込め、独占したかっただけ。それは愛ではなく、信仰という名の監禁です」
私は彼の手を振り払い、壇上の中心に戻った。
「これですべては終わりです。私の指輪は、すべて聖域の貧民救済基金へ寄付しました。皆様には、私がこれまで受け取った贈り物と同等、あるいはそれ以上の価値がある『帝国の経済活性化プラン』と『国境紛争の和解案』を、破棄の慰謝料として各机に置かせていただきました。ビジネスとしては、悪くない取引のはずですわ」
会場は騒然となった。怒号、罵声、そしてあまりの衝撃に言葉を失う者。
私はその混沌を背に、ゆっくりと歩き出した。
「ま、待て! アウレリア!」
ガイウスが剣の柄に手をかけ、私を追おうとする。だが、私の周囲には即座に聖域の守護騎士たちが立ちふさがった。
「殿下、これ以上は神々への冒涜となります。その御覚悟が?」
騎士の冷たい通告に、ガイウスは歯噛みした。彼は気づいたのだろう。自分たちが、一人の女の掌の上で完璧に踊らされていたことに。私を「手に入れる」ために競い合っていた時間が、実は私が「逃げ出す」ための準備期間に過ぎなかったことに。
私は会場の重厚な扉を開け、外の光の中へと踏み出した。
空はどこまでも高く、青い。
これまで私を縛り付けていた、義務、血統、魔力への期待。それらすべてから解放された瞬間だった。
(……ああ、清々した)
心の中でそう呟き、私は馬車に乗り込んだ。
行き先は聖域ではない。聖域の巫女という肩書きも、実は教皇と「ある契約」を交わして手に入れた、数年間限定の隠れ蓑に過ぎない。
私の本当の目的は、この大陸の果てにあるという、魔力も身分も関係のない未開の地。
そこで私は、ただの「アウレリア」として生きていくのだ。
だが。
馬車が走り出して数分後、私は背後に奇妙な気配を感じた。
窓から外を確認すると、数騎の騎馬が、帝都の警備兵の制止を振り切ってこちらへ猛追してくるのが見えた。
先頭を走るのは、先ほど絶望の表情を浮かべていたはずのガイウス王子。
そしてその隣には、冷徹なはずのカッシウス、さらには聖騎士のルキウスまでもが、鬼気迫る表情で馬を飛ばしている。
彼らの瞳に宿っているのは、怒りではない。
それは、獲物を決して逃さないと誓った、狂気に近い「執着」の火だった。
「……あら」
私は思わず苦笑いをもらした。
どうやら、二十四通の婚約破棄通知は、彼らの情熱を冷ますどころか、最悪の形で火に油を注いでしまったらしい。
「全ての婚約を破棄してみた結果……か。どうやら自由への道は、思っていたよりも少しだけ険しくなりそうね」
私は座席に深く身を沈め、口角を上げた。
追ってくるなら追ってくればいい。
これからの物語は、愛されるだけの物語ではない。
追いすがる強者たちを、知略と魔力で返り討ちにし、真の自由を勝ち取るための戦記なのだから。
馬車の車輪が乾いた音を立てて加速していく。
私の新しい人生の第一ページが、鮮血と情熱の色で塗り替えられようとしていた。




