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視界が白濁した光の洪水に飲み込まれていく。
耳を劈くような地響きも、ガイウスの呪わしい叫び声も、すべてが水中に沈んだかのように遠のいていった。
私が展開した魔法。
それは禁忌書物室の最奥に隠されていた、設計図に干渉する唯一の手段だ。私という「世界の楔」を、この現実世界から一時的に切り離す。
実在するが触れることはできない。存在するが、観測は不可能。
体内の聖魔力が急速に書き換えられ、私の肉体という境界線が曖昧になっていく。
足元から感覚が消え、意識が宇宙の深淵へと放り出されるような感覚。
これが自由の代償。
誰の手も届かない場所へ行くための、孤独な代価。
(……これで、ようやく終わるわ)
私は、まぶたの裏に焼きついたガイウスの歪んだ顔を消し去るように、深く、深く、意識を沈めていった。
その瞬間、聖域のバルコニーに踏み込んだガイウス・ユリウスは、己の目が信じられなかった。
目の前で、金色の光の渦に巻かれた私が、陽炎のように揺らぎ、透け始めているのを。
「アウレリア……! 何をした! 貴様、どこへ逃げようとしている!」
感覚が一切ない。まるで精巧な幻影でも見せられているかのように。
「なっ……魔術か? カッシウス! 何が起きている!」
ガイウスの後ろから、息を切らして現れたカッシウス・フラウィウスが、手にした魔導書を落としそうになりながら叫んだ。
「馬鹿な……あり得ない! 彼女の魔力波形が、『実数値』から消えている! 殿下、彼女はいま、この世界の因果律の外側――『虚数領域』へ自分自身を投射したんだ!」
「言葉で説明しろ! 彼女をどうやって引き戻す!」
「引き戻す? 物理的な干渉は不可能です! 彼女は今、実在せぬ存在……ゴーストよりも質の悪い『概念』になってしまった! 殿下、彼女は自らを消したのではない……我々から『永遠に奪い去れない座標』へ逃げ込んだのです!」
カッシウスの知性は、目の前の事象を理解した瞬間に、絶望という名の悲鳴を上げた。
彼が愛し、解剖し、手に入れようとしていた「最高の知性」と「最強の魔力」は、彼が理解できる領域を遥かに超越してしまったのだ。
さらに、遅れて到着した聖騎士ルキウスが、崩れ落ちるように跪いた。
彼の銀色の甲冑には、聖域の守護騎士たちと切り結んだ返り血が浴びせられている。
「アウレリア様……ああ、神よ。あなたは、これほどまでに我々を拒むのですか? 私の愛を、聖域さえも、すべて捨てて……存在しない場所へ行かれるのですか?」
ルキウスは狂ったように笑い、祈りの姿勢のまま、虚空に浮かぶアウレリアの残像に手を伸ばした。
その瞳には、もはや理性のかけらも残っていない。
「ならば、私も追いましょう。この世界が貴女を拒むなら、世界を焼き尽くし、貴女がいるというその『虚空』への門を抉り出すまでだ」
一方、私は暗闇の中にいた。
正確には、暗闇ですらない「無」の領域。
意識だけが浮遊し、自分の名前さえも霧散しそうになるのを、私は必死に繋ぎ止めていた。
禁術の代償は想像以上に過酷だった。
虚数領域に留まるということは、毎分毎秒、自分の「存在証明」という名の燃料を燃やし続けること。もし意識が途切れば、私は二度とこの世には戻れず、ただの断片となって散る。
(……ふふ、でも。あいつらの顔、最高だったわね)
意識の海を漂いながら、私は最後に見た二十四人の代表格たちの絶望顔を思い出し、愉快な気分になった。
あれほど傲慢だったガイウスが、まるで宝物を取り上げられた子供のように泣き叫んでいた。
カッシウスの理屈が通用せず、彼が積み上げてきた魔術の体系が音を立てて崩れていた。
ルキウスの歪んだ信仰が、ついにその本性を剥き出しにしていた。
ざまあと言ってやりたい。
私という「資源」を、あなたたちが好き勝手に切り分けていい権利なんて、最初からどこにもなかったのよ。
しかし、勝利の余韻に浸る私の意識に、ノイズのような声が混じり始めた。
『……リア……アウレリア……聞こえるか……』
それは聖域の代理人、アドリアヌスの声だった。
なぜ? 彼は普通の修道士のはず。虚数領域に干渉できるはずがない。
『驚くことはない……。私は教皇の代理人である前に、この世界を管理する一族の末裔だ。君がしたことは、あまりにも大胆だが、このままでは本当に死んでしまうぞ』
「……アドリアヌス様? あなた、何者なの?」
私は虚無の中で、声の主を探した。
『私は君の味方ではない。だが、君が消滅すれば、この世界の歯車が止まり、大勢が巻き添えを食らう。アウレリア、禁忌書物室の裏に書かれていた「代償」の続きを読んでいないのか?』
「……代償? 『楔が自らの意志で虚数に転じたなら……代償は、その存在が消えること』ではないの?」
『違う。本当の代償は、「残された実数世界(現実)のバランスを、かつての婚約者たちが肩代わりさせられる」ことだ』
私は戦慄した。
どういうこと? 私が歯車としての役割を放棄すれば、世界は止まるはず。
『止まらない。世界は無理やり動こうとする。その際、欠落したエネルギーを補うために、世界は君への執着が最も強い二十四人の男たちの「命」と「魂」を、自動的に燃料として消費し始める。……つまり、今、外にいるガイウスたちは、君がここに留まれば留まるほど、文字通り「削り取られて」いくのだ』
私は言葉を失った。
彼らが私を追いかけている間、彼らは自分たちの命が世界に喰われていることにすら気づかない。
私が自由でいる時間が、彼らにとっての死のカウントダウンになる。
『彼らは狂っているから、自分が死ぬことよりも君を失うことを恐れている。だが、このままだと三ヶ月を待たずして、帝国も、公国も、教皇庁も、主要な指導者をすべて失って崩壊するだろう。……アウレリア、君は自由と引き換えに、この大陸を滅ぼすつもりか?』
「……そんな。私のせいだと言うの? 執着を捨てきれない、あの男たちの自業自得ではないの!」
『自業自得だ。だが、その結果として数百万の無実の民はどうする? 君は、彼らの命まで背負えるほど、残酷になれるのか?』
アドリアヌスの問いかけは、鋭い針のように私の意識を刺した。
二十四人の男たちが憎い。
彼らに私という人間を蔑ろにされ、ただの道具として扱われた怒りは、今も私の魂を焦がしている。
だが……。
脳裏に、かつて公女として育てられた日々、私を慕ってくれた領民たちの笑顔が浮かんだ。
帝都の市場で活気に満ち溢れていた人々。
もし私がこのまま逃げ続ければ、彼らは何が起きたかも分からず、指導者を失った世界の混乱に飲み込まれて消える。
「……計算外だわ。本当に、最高に悪趣味なシステムね、この世界は」
私は虚無の中で苦々しく笑った。
『戻る方法はある。ただし、現実世界に戻れば、君を待っているのは以前よりも過酷な包囲網だ。彼らは君が「消えることができる」と知ってしまった。次は、魂さえも鎖で繋ごうとするだろう』
「……分かっているわよ」
私は自分の内側にある聖魔力を再び練り上げた。
今度は、虚数から現実への変換。
物理的な形を取り戻すための、苦痛を伴う再構成。
「戻ってやるわよ。戻って、あいつらに本当の『絶望』を教えてあげる。……私なしでは生きていけないというのなら、私の奴隷として、この大陸を正しく導くために死ぬまで働かせてやるのよ」
聖域のバルコニー。
絶望に染まっていた空間に、突如として眩い金色の粒子が舞い戻った。
「アウレリア!?」
ガイウスが叫び、剣を投げ捨てて駆け寄る。
光が集束し、そこには再び、不遜な笑みを湛えたアウレリア・セプティミアが立っていた。
ただし、その瞳は以前よりもずっと冷たく、底知れない支配者の色を帯びている。
「お待たせしましたわ、皆様。私のいない間に、随分とお行儀が悪くなっていたようですわね」
私は、自分に触れようとしたガイウスの胸元に、一筋の鋭い魔力の刃を突きつけた。
「殿下、勘違いなさらないで。戻ってきたのは、あなたに屈したからではないわ。……あなたたちが、私という楔なしでは死んでしまう哀れな『燃料』だと知ったから、情けで戻ってきてあげたのよ」
カッシウスも、ルキウスも、そして背後に控えていた兵士たちも、その圧倒的な威圧感に気圧され、言葉を失った。
「条件があります。……今日この瞬間から、婚約は復活させない。その代わり、あなたたち二十四人は、私の『忠実な猟犬』として、この大陸の再編に従事していただきます。私から逃げることは許さない。そして、私を私有しようとすることも、二度と許さない」
私は二十四人の婚約者たちに向け、宣言した。
「あなたたちは私なしでは壊れてしまうおもちゃだと判明しました。だから、私があなたたちの『持ち主』になってあげますわ。……光栄に思いなさい?」
それは愛の告白などではない。
私が世界を掌握するための宣戦布告だった。
夕日に照らされた私の姿は、もはや巫女でも公女でもなく、大陸に君臨する唯一無二の「女帝」のそれであった。




