第31話:忍び寄る厄災と、安眠防衛戦
偽りの奇跡と引き換えに、至高の供物を手に入れる。
その自転車操業のような毎日が始まってから、早くも一週間が経過していた。
私は毎日、涙と汗を流しながら回し車を駆け抜け、その代償として届けられる極上の食事を腹に収め、UR至高の安眠ベッドで泥のように眠る。
運動、食事、睡眠。
図らずも、私の体は前世の引きこもり時代よりも遥かに健康的な状態へと仕上がってしまっていた。
「……違う。私の求めていたスローライフは、もっとこう、怠惰で自堕落で、ベッドから一歩も動かない生活だったはずなのに……」
私が筋肉痛の残る足をさすりながら愚痴をこぼしていると、突如として、地下第一層の岩窟にけたたましい警報音が鳴り響いた。
『警告。警告。大規模な魔力反応が接近中』
「な、なによ!? 勇者候補の残党でも攻めてきたの!?」
私は跳ね起き、モコを抱きしめながら叫んだ。
「いえ、主様。これは人間の軍勢ではありません」
影山が、コンソールのキーを高速で叩きながら、極めて深刻な表情でモニターを指差した。
「当ダンジョンから南へ約二十キロ。王国の国境付近にあたる辺境の森から、災害級の指定外魔獣『クリムゾン・ベヒーモス』が出現した模様です」
「クリムゾン……なに?」
「俗に言う、歩く天災です。知性を持たず、ただ本能のままに全てを破壊し喰らい尽くす、理不尽な暴力の化身。……厄介なことに、真っ直ぐこちらへ向かっています」
モニターには、山のように巨大な赤い獣が、巨木をマッチ棒のようになぎ倒しながら突進してくる映像が映し出されていた。
その巨体が通った後は、文字通りぺんぺん草も生えない荒野と化している。
「えっ、ちょっと待って。こちらに向かっているってことは……」
「はい。この進行ルートのまま進めば、およそ三時間後には、我々に供物を届けてくれている辺境の村が、完全に蹂躙される計算になります」
「なっ……!?」
私は絶句した。
辺境の村が踏み潰されるということは、王都から届く供物の中継地点が消滅するということだ。
それはすなわち、私の明日の朝食である『幻の卵を使った極上トリュフオムレツ』の物流ルートが、物理的に破壊されることを意味していた。
「ふざけるなあああかっ!!」
私はベッドの上に立ち上がり、魂の底から咆哮した。
「私の! 私の朝ごはんの邪魔をする奴は、人間だろうが魔獣だろうが絶対に許さない! 影山! 迎撃よ! あいつを消し炭にしなさい!」
「お言葉ですが主様。対象が遠すぎます。ダンジョンの自動防衛圏外です。ポイントを消費して遠距離砲撃を行うことも可能ですが、あいにく現在の残高は五ポイント。……方法は一つしかありません」
影山が、悪魔の囁きのような冷たい声で言った。
「主様ご自身が、ダンジョンの外へ出向き、直接あの中型犬を物理的に排除していただくことです。主様の秘められた魔力をもってすれば、あの程度の獣、指先一つで消し飛びます」
「……外に、出る?」
私は、震える声で聞き返した。
引きこもりを誓った私が、自らの足で、あの太陽の光が降り注ぐ過酷な外界へ出ろというのか。
しかし、モニターの中で刻一刻と村へ迫る赤い暴君の姿と、明日のトリュフオムレツの芳醇な香りが、私の脳内で激しく交錯した。
「……わかったわよ。行ってやろうじゃないの……っ!」
私は、血を吐くような思いで決断を下した。
これもすべて、至高の安眠と朝食を守るためだ。
――辺境の村は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
地響きを立てて迫り来るクリムゾン・ベヒーモスの前に、守備隊は為す術もなく、村人たちは絶望の悲鳴を上げ、天を仰いでいた。
『……うるさいわね……』
地鳴りのような、しかしどこまでも冷たく、絶対的な威圧感を持った声が、虚空から響き渡った。
上空の闇が渦を巻き、そこから、一人の少女の姿が浮かび上がる。
寝癖のついた黒髪に、パジャマ姿。手には羊のぬいぐるみを抱えている。
「私の……オムレツの邪魔を……するんじゃないわよぉぉぉっ!!」
私が右手を振り下ろした瞬間、空間そのものが圧縮されたかのような質量がベヒーモスを直撃した。
災害級の魔獣は、大地ごとえぐり取られ、跡形もなく消滅した。
「……ふぁぁ……。終わった? じゃあ、私帰って寝るから。明日の朝ごはん、遅れないようにちゃんと持ってきなさいよね……」
私は大きくあくびを一つすると、呆然と立ち尽くす村人たちを置き去りにして、闇の中へと溶けて消えた。
ダンジョンへ帰還した私を、影山が珍しく深々と頭を下げて迎えた。
「お見事でした、主様。文字通りの神速。外の世界に主様の威光がこれ以上ない形で示されましたね」
「……もういいわよ、疲れた。それより影山、外に出たんだから、ポイントくらい少しくらいためておいてよね」
「もちろんです。主様の直接行動により、推定十万ポイント相当の『恐怖と信仰』がチャージされました。これでしばらくは、回し車に乗る必要もございません」
「本当!? やったぁ! これよ、これこそが魔王のあるべき姿よ!」
私は歓喜の声を上げ、ようやく手に入れた本物の安息に身を委ね、眠りの淵へと沈んでいった。




