第28話:至高の香りと、魔王の晩餐
地下第一層『静寂の岩窟』。
私は、復活を遂げたUR至高の安眠ベッドの上に寝転がりながら、虚空を見つめていた。
シーツは最高級のシルクのように滑らかで、マットレスは雲のように柔らかい。
安眠羊のモコも、私の腕の中でスヤスヤと規則正しい寝息を立てている。
環境としては、これ以上ないほど完璧な状態だった。
だが、私の目はギンギンに冴え渡り、一睡もできずにいた。
理由は一つ。
圧倒的な、そして極限の空腹である。
昨日、換気システムを通じて流れ込んできた、あの勇者候補が作っていたシチューの匂い。
肉が焼ける香ばしい匂いと、ハーブの鮮烈な香りが、私の脳裏にこびりついて離れないのだ。
昨晩の夕食も、影山が用意した「超高タンパク低味覚ゼリー」だった。
味のしないゴムを噛み砕くような虚無感の中で、私の胃袋は完全にストライキを起こしていた。
どんなにベッドが快適でも、腹が減っては眠れない。
それは、異世界においても変わらない生命の真理であった。
「……お腹、空いた……」
私は、干からびたミイラのような声で呟いた。
「主様、ご辛抱ください。当ダンジョンの魔力ポイントは、昨日の結界維持で枯渇寸前です。嗜好品に回す余裕など、一ミリもございません」
部屋の隅で魔力モニターを監視している影山が、冷たい声で事実を突きつけてくる。
「わかってるわよ……。でも、あの匂いを嗅いじゃったら、もうゼリーじゃ満足できない体になっちゃったのよ……」
私が枕に顔を埋めて泣き言を漏らしていると、不意に影山がモニターの音量を上げた。
「主様、どうやら地上が騒がしいようです。例の聖女が、再びお見えになりましたよ」
私は跳ね起き、モニターを覗き込んだ。
迷宮の入り口には、いつものように大剣を構えたレオンの姿があった。
しかし、今日の状況は昨日までと全く違っていた。
レオンを取り囲むように、銀色の鎧に身を包んだ数十人の近衛騎士たちが立ちはだかっていたのだ。
そしてその中心には、神々しい純白の法衣をまとった聖女が、静かに佇んでいた。
「おい! 聖女! これはいったい何の真似だ! 俺はこれから魔王に突撃するところだぞ!」
レオンが怒号を上げるが、近衛騎士たちは一歩も退かない。
「レオン様。貴方の無益な突撃は、魔王様の眠りを妨げ、怒りを買うだけの愚行です。直ちに剣を収めなさい」
聖女の言葉には、かつてのような慈愛の響きは一切なかった。
そこにあるのは、国を背負う者としての冷徹な決意と、邪魔者を排除しようとする絶対的な意志だった。
「ふざけるな! 俺は勇者候補だ! 人類の敵を討ち果たすのが俺の使命だ!」
「その薄っぺらい使命感が、この国を滅ぼしかけたのです。……押さえなさい」
聖女が冷たく言い放つと、近衛騎士たちが一斉にレオンに飛びかかった。
勇者候補とはいえ、まだ覚醒しきっていないレオンに、王国の精鋭たちを相手にする力はない。
彼は瞬く間に地面に組み伏せられ、後ろ手に縛り上げられた。
「離せ! 貴様ら、狂ったのか! 魔王に寝返る気かぁぁぁっ!」
レオンの悲痛な叫び声が響く中、聖女は彼に一瞥もくれず、迷宮の入り口へと歩み寄った。
彼女の手には、美しい装飾が施された、魔法の保温容器が恭しく抱えられていた。
「主様。どうやら、約束の品をお持ちいただいたようですね」
影山の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
モニター越しに、聖女がゆっくりと魔法容器の蓋を開けるのが見えた。
その瞬間だった。
ダンジョンの換気システムを通じて、尋常ではない香りが岩窟の奥底まで一気に流れ込んできたのだ。
「……っ!?」
私は思わず息を呑んだ。
それは、昨日レオンが作っていた野蛮なシチューの匂いとは、次元が違っていた。
濃厚でありながら、一切の雑味を感じさせない、どこまでも透き通った肉の旨みの香り。
そして、嗅いだ瞬間に神経がスッと解きほぐされるような、月明かりのミントの清涼感。
食欲を直接殴りつけてくるような暴力的な美味しさの予感と、深い安らぎへと誘う魔力が、その香りに同居していた。
「……影山……! あれ、あれ絶対美味しいやつ! 匂いだけでわかる、あれはヤバい!」
私はベッドから転げ落ち、モニターに張り付いて叫んだ。
「落ち着いてください、主様。威厳が保てませんよ」
影山は呆れ顔だが、私の耳にはもう彼の小言など入っていなかった。
「偉大なる魔王様……。我がラーメン王国が総力を挙げ、あなた様の安らかなる眠りのために、至高の供物をご用意いたしました」
入り口で、聖女が深くひざまずき、銀の器に黄金色のスープを取り分けた。
「どうか、この供物をお受け取りいただき、我々の罪をお許しくださいませ……」
聖女の祈るような声が、スピーカーを通じて響き渡る。
「影山! 早く! 今すぐあれを持ってきて! こぼさないようにね!」
「承知いたしました。では、ダンジョンの空間転送システムを利用し、供物を直接こちらへ回収いたします」
影山が指を鳴らした。
モニターの中で、聖女が差し出していた銀の器が、ふっと影に包まれて消失した。
そして次の瞬間、私の目の前にある黒曜石のテーブルの上に、湯気を立てる銀の器が静かに現れたのだ。
「……おおぉぉ……」
私は、震える手でその器をそっと持ち上げた。
宝石のように澄み切った黄金色のコンソメスープ。
その中には、ホロホロに煮込まれた幻影牛の肉が、まるで芸術作品のように美しく沈んでいる。
私はスプーンなど使わず、器に直接口をつけ、スープをゆっくりと流し込んだ。
「…………っ!」
雷に打たれたような衝撃が、私の全身を貫いた。
なんだこれは。
肉の濃厚な旨みが舌の上で爆発し、野菜の甘みがそれを優しく包み込む。
そして、喉を通り抜けた後に広がるミントの香りが、昨日の筋肉痛も、これまでのストレスも、すべてを洗い流していく。
温かいスープが胃に到達した瞬間、身体の芯からじんわりと熱が広がり、極上の幸福感が私を満たした。
「……美味しい……。生きてて、よかった……」
私は涙をこぼしながら、あっという間にスープを飲み干し、底に沈んでいた肉の塊を夢中で頬張った。
口に入れた瞬間に溶ける幻影牛の肉は、私に「噛む」という行為すら忘れさせるほど柔らかかった。
すべてを平らげ、空になった器をテーブルに置いた時、強烈な睡魔が私を襲った。
満腹感と、香草のリラックス効果。
そして、UR至高の安眠ベッドの誘惑。
「……影山……、器、返しといて……。私、もう、寝る……」
私はふらふらとベッドに倒れ込み、モコを抱き寄せた。
「お見事な食いっぷりでした、主様。どうぞ、心ゆくまでおやすみなさいませ」
影山の静かな声を子守唄に、私は深い、泥のような、しかし最高に幸せな眠りの底へと落ちていった。
モニターの中では、空になって転送されてきた銀の器を抱きしめ、聖女が歓喜の涙を流して天を仰いでいた。
こうして、魔王の空腹と安眠を巡る戦いは、一杯の至高のスープによって、ひとまずの終結を見たのだった。
続きを読みたいと思って頂けた方は、高評価とブックマークをお願いします!




