5話 大共鳴の幕開け
「ご報告します!」
重厚な装飾が施された豪奢な扉を、切羽詰まった様子で乱暴に叩く音が響く。
「……っち、いいとこだってのに」
扉の奥――広々とした王族の寝室から、ひどく不機嫌そうな男の声が漏れた。
「いいじゃない、ほっとけばぁ」
「そうもいかねえよ。……入れ」
許可を得て足早に入室した中年の兵士は、ベッドの上の光景――乱れたシーツと、女を抱き寄せるガルバン王子の姿――を視界に収めた。一瞬、室内の状況を察して顔が引きつりかけたが、兵士はすぐに歴戦の戦士としての厳しい表情を作り、床に深く跪く。
しかし、その隠しきれない切迫した空気を感じ取り、ガルバンはいぶかしげに眉をひそめた。
「どうした」
「はっ! 先程、ハンターズギルドより緊急の知らせが入りました! 街のすぐ近くで大共鳴が発生! 繰り返します、大共鳴が発生です! 半魔率いる魔物の大群が、一直線にこの街へ向かってきているとのことです!」
「は……!?」
「ギルドは既に緊急クエストを発令! ガルバン王子殿下におかれましても、至急、防衛体制の構築と共闘支援を要請するとのことです!」
その報告を聞いた瞬間、ガルバンは女を突き飛ばすようにベッドから跳ね起き、唖然と口を開けた。
少年のあどけなさが抜け、大人の男へと成長しつつある整った顔立ちに、見苦しい焦燥と狼狽が浮かぶ。
「何故、こんなに急なのだ!? いったい、ギルドの奴らは今まで何をしていた!?」
「はっ! 以前から兆候が起きていたことは確認されておりましたが、ギルドの人員だけでは全体の動向を把握しきれず、その……王宮へも、再三にわたり人員支援の要請が上がってきており……」
「ッ……俺の責任だと言いたいのか!?」
痛いところを突かれたガルバンは、己の失態を棚に上げ、顔を真っ赤にして激昂した。
「クソ! すべてが終わったら、あの生意気なバレンの爺を解雇してやる!!」
(……ギルドの長の任命権は国にはない。そんな基本的な協定すら分かっておられないのかこの馬鹿王子は)
床に跪く中年の兵士は、内心でひどく冷めた感情を抱きながらも、決してそれを口には出さなかった。
この兵士は若かりし頃、かつてこの国を襲った大共鳴を最前線で生き抜いた数少ない古参の一人だった。大共鳴がどれほどの地獄をもたらすか、その身に、魂に深く刻み込まれている。
ハンターズギルドは独立した組織であり、本来、王宮とは対等の協力関係にある。偉大なる現国王はそれを理解し、バレンと強固な信頼関係を築いていたからこそ、この街は平和を保てていたのだ。ミーヴェルの件はバレンも国民感情を理解して泣く泣く従っているに過ぎなかった。
だが、この愚かな代理の王子は、ギルドを『王宮の便利な下請け』程度にしか思っていない。防衛費を削って目の前の女や贅沢品に注ぎ込み、再三の警告を無視し続けたのは、他ならぬガルバン自身である。
「クソが! クソクソクソクソ!!!!」
高級な絨毯を力任せに踏みつけながら喚き散らすガルバン。
そんな彼の腕に、ベッドに寝そべったままの女が、甘ったるい声を出してすり寄った。
「落ち着いてよぉ、ねえ。魔物なんて、お城の立派な兵隊さんたちに命令して、ぱぱっと倒しちゃえばいいだけでしょう? ねえ、未来の王様がそんなに取り乱してちゃ、カッコ悪いよぉ?」
女の言葉には、まるでピクニックにでも行くかのような緊迫感の欠如があった。
大共鳴がどれほどの地獄を意味するのか。過去の悲惨な歴史を知らないこの若い二人には、国が一つ滅びかねない未曾有の厄災であるという現実がまったく理解できていないのだ。
女に宥められたガルバンは、小さく咳払いをして、ドヤ顔で口の端を歪めた。
「――あぁ、そうだな。とりあえず、一旦怒るのはナシだ。今起こった事態に冷静に対処しなければな。俺様は次期国王だからな! ハッハッハ!」
「えぇー、いまのギャグ? つまらなーい」
くすくすと笑い合う二人。
まるで三流の喜劇を見せられているかのような、絶望的なまでの温度差。
「…………」
頭を下げたままの兵士は、強く、血が滲むほどに唇を噛み締めた。
かつての地獄の光景が脳裏をよぎる。大地を埋め尽くす異形、引き裂かれる仲間たちの悲鳴、血に染まった泥の大地。
(……この国は、終わりかもしれんな)
兵士の背中を、この部屋のぬるま湯のような空気とは全く違う、ひどく冷たい死の悪寒が駆け抜けていった。
◇
一方、その頃。
ガルバンの腐りきった寝室から遠く離れた、冷たい雨の降りしきる結界の外。
そこでは今まさに、絶対的な死の気配が、泥に塗れた一人の少年と小さな獣を飲み込もうとしていた。
「……う、ん……」
冷たい雨に打たれ、少しだけ意識がはっきりしたのか、ミーヴェルはゆっくりと重い目蓋を開けた。
「う――ぐっ!」
少し身じろぎをしただけで、全身の骨が軋むような激痛が走る。
ハンターの魔法によって腹部や背中は、泥と血で酷く汚れていた。
「……ルナ……?」
「――ぴぃ」
すぐ傍らから、弱々しいが確かな返事があった。
良かった、生きている。もしこの理不尽な暴力の中でルナまでいなくなってしまっていたら、きっと自分の心は完全に折れてしまっていただろう。
「帰ろう……。馬小屋なら、なんとか雨風は凌げるから……」
「ぴぃ……」
ミーヴェルは震える腕に力を込め、やっとのことで泥だらけのルナを抱き抱えながら立ち上がる。
「今日の晩御飯は、森の木の実だ。……ははっ、お金、全部なくなっちゃったからね」
「……ぴ」
気丈に振る舞って笑いかけたミーヴェルの頬を、ルナが長くて柔らかい耳で「ぺちぺち」と優しく叩いた。まるで、『元気出して』と彼を励ましているかのように。
「うん、ありがとう……。街は、えっと……あっちかな……」
ぼやける視界の中、記憶を頼りに足を引きずりながら、雨の中を歩き出そうとした。
――だが。
『……グルルルルルルゥゥゥゥ……ッ!!』
「……えっ? ……」
不意に、周囲の茂みから低く濁った唸り声が響いた。
雨音を切り裂いて現れたのは、ただの野犬などではない。背中から鋭利な青い結晶体を無数に生やした、異形の巨大な狼のような生物たち。
それは、周囲の高濃度のナノヘイズに当てられ、凶暴に変異した本物の魔物だった。
それが一匹ではなく、複数。
完全にミーヴェルとルナを取り囲み、飢えたような赤い双眸で彼らを一斉に睨みつけている。
「……魔物……!?」
じわり、じわりと、包囲を狭めて近づいてくる。
「くっ、来るな……!」
絶望の表情を浮かべて後ずさるミーヴェル。
結界の中にさえ逃げ込めれば何とかなるかもしれない。だが、暗闇と雨の中ではここがどこなのか、どっちへ走れば結界があるのかも全く分からなかった。
一方の狼たちは、怯えるミーヴェルの姿が何よりのごちそうだと言わんばかりに、喉の奥で醜悪な笑い声を漏らす。
(どうしよう……!?)
その時だった。
『――グルガァァァァッ!!』
「ひいっ!?」
群れのリーダー格と思われる狼が、空に向けて咆哮を上げた。
直後、狼の体表の結晶が青白く発光し、周囲のナノヘイズを強制的に操って『魔法』を発動する。魔物の中には魔法を使える個体が存在するが、この狼が放ったのは単純にして凶悪な精神魔法――『威圧』だ。
対象が弱ければ弱いほど、その効果は絶対的なものとなる。
目に見えない重圧がのしかかり、ミーヴェルはブルブルと震えながら、泥水の中にへたり込んでしまった。
もはや指一本動かせない。彼はただ、震えるルナの小さな体を庇うように強く抱きしめることしかできなかった。
ミーヴェルの心を完全にへし折ったことに満足したのか、狼が嘲笑うように牙を剥き出しにして、ゆっくりと歩み寄ってくる。
(……ごめん、ルナ……)
ミーヴェルが強く目を瞑り、己の終わりを覚悟した、その瞬間だった。
――ヒュンッ!!!
突如、暗い雨の森に風を切る無機質な音が響き渡った。
『個体【ミーヴェル】ヲ発見。個体【ミーヴェル】ヲ発見。現在地――』
「……なっ、なに……?」
威圧の魔法すら切り裂いて、突如ミーヴェルの目の前に現れたのは、淡く発光するミーヴェルのこぶし大の小さな銀色の球体だった。
一つだけではない。暗闇の中から、同じような銀色の球体が次々と飛来し、ミーヴェルの周囲を護衛するようにフワフワと滞空し始める。
未知の物体に警戒した狼たちが、グルルッと唸りながら一歩後ずさった。
だが、やがて球体が何もしてこないと分かると、再び殺意を向けてミーヴェルへと飛びかかろうとする。
その瞬間。
ドゴォォォンッ!!
「キャインッ!?」
銀色の球体の一つが、あり得ないほどの超高速で狼の顔面に体当たりを食らわせた。
魔法の光など一切ない、ただの純粋な物理的質量による一撃。それだけで、巨大な狼の体が紙屑のように吹き飛ばされる。
突然の反撃に、狼たちと球体群の間に一時的な膠着状態が生まれた。
……だが、狼たちはそこで尻尾を巻いて帰っていればよかったのだ。彼らはまだ、眼前の無機質な物体がどれほど恐ろしい存在なのかを理解していなかった。
『――敵性反応検知。エコー群ブレードウルフヲ確認』
そこへ、他の球体とは少しだけ意匠の違う、一回り大きな銀色の球体が上空から静かに降下してきた。
『個体【ミーヴェル】ノ保護ヲ最優先トシ、守護対象ノ承認排除ヲ実行……コンバットモード、起動』
大きな球体の中心で、赤く光った単眼のレンズがギョロッと狼たちを睨み据える。
『兵装展開。――【ヘイズ・ロックダウン】発動』
「えっ……?」
直後、ミーヴェルは自分の目を疑った。
ズンッ……!! と、大気が不自然に鳴動したかと思うと、先ほどまで恐ろしい殺気を放っていた狼たちが一斉に見えない巨大な手に上から叩き潰されたように、地面にベチャリと這いつくばったのだ。
今、目の前で何が起きたのか、ミーヴェルには全く理解できなかった。
ただ一つ分かるのは、それが先ほど狼が使った威圧などとは比べ物にならない、絶対的で一方的な暴力だということだけ。
あんなに恐ろしかった狼たちは泥の中で血を吐き、ピクピクと痙攣しながら、もはや立ち上がることすらできずにいた。




