閑話 厄災の種
「私は、反対です」
その冷徹な一言は、広大な会議室の空気を一瞬で凍りつかせた。
発言の主は、燃えるような赤い髪を肩まで伸ばした女性。無機質な白衣姿が、かえってその赤髪の艶やかな色香を強烈に際立たせている。
だが、そのひどく目を惹く容姿とは裏腹に、彼女の眼差しは冷徹な氷の刃そのものだった。
「……気持ちは分かる博士。だがな、隣国に後れを取るなと、大統領も仰せなのだ。あちらの実証実験による遺伝子適合率は、我が国を遥かに凌駕している。このままでは国としての均衡が崩れるのだよ」
円卓の向かいに座る年配の高級官僚が、苦渋を滲ませた顔でホログラム資料を指し示す。空中に浮かぶ半透明のディスプレイには、人道的とは言い難いスピードで更新される実験データと、それを裏付ける夥しい数の被験者リストが羅列されていた。
「理解に苦しみますね。男の闘争本能ほど不毛なものはありません。それにあちらは、どこから買い取ったかも分からぬ罪なき孤児や浮浪者を、文字通り使い潰してデータを集めている。……遺伝子を弄くり回して、将来的に種としてどんな弊害が出るかも分からないというのに。そんな目先の成果に目が眩んだ人体実験など、正気の沙汰とは言えません。科学への冒涜です」
彼女は吐き捨てるように言い放ち、手元の端末を操作して自国の管理リストをホログラムへ同期させた。
「我が国には、既に法に基づいたリソースがあります。……実験体は、執行を待つ死刑囚のみ。それがこのプロジェクトの絶対条件です。得体の知れない突然変異の種を、未来ある子供にまで植え付けるような隣国の無策に合わせる必要など、どこにもありません」
「……しかしな博士、それでは検体数が絶対的に足りんのだ。統計的な有意性を得るには、あと数千のサンプルが――」
「数が必要なら、静観していればいいのです。あちらが制御不能な遺伝子のバグに飲まれて自滅するのを待ってから、その無残な結果を拾い集めるのが、最も効率的かつ安全な戦略です」
彼女は冷たく言い捨て、視線を窓の外――どこまでも澄み切った青空の下に広がる、広大な研究施設の建造物群へと向けた。
科学の発展のためなら、死刑囚の命を削ることにも、隣国の自滅を待つことにも躊躇はない。だが、その一線だけは――未知の恐怖を、罪なき子供たちに背負わせることだけは、彼女の科学者としての矜持が許さなかった。
世界の経済は、先進諸国において一つの完成……あるいは飽和という名の袋小路に達していた。
超高度AIが社会の最適解を導き出し、無音のエアカーが施設間を滑るように行き交う。それがこの世界の日常。
科学が極致に達した時、人類が最後に見出したフロンティア。それは開拓すべき宇宙でも、未踏の深海でもなく――自らの肉体という限界を突破する永遠の命であった。
【エデン計画】
科学の探究は、いつしか倫理という名のブレーキを焼き切っていた。他国が手を出すなら、その一歩先へ。隣国が神の領域を侵すなら、こちらはその玉座を奪う。
国家という巨大な装置が主導する、醜く、そして子供じみた生存競争。国民には甘い言葉と「人類の進化」という大義名分をバラ撒き、その裏で計画は着々と、引き返せない地点へと加速していた。
◇
「……はぁ」
巨大な研究施設内に併設された、ガラス張りのカフェラウンジ。
赤毛の女性は、透過ガラスの向こうに整然と並ぶ白銀の施設群を見下ろし、深く重いため息をついた。
「大丈夫かい? 何か悩み事があるなら相談に乗るよ?」
不意に背後から声をかけられ、彼女は視線だけを動かして冷たく鼻で笑った。
「っふん。これが大丈夫に見えるのなら、あなたの思考回路は相当におめでたいか、壊れているかのどちらかね」
「っふ。相変わらずだね。そう褒めないでくれ」
「褒められたと勘違いできるなんて、あなたの脳内チップも随分と楽観的なプログラムが組まれているようね」
想定外の角度から返された毒舌に、男は思わず苦笑しながら彼女の向かいの席へと滑り込む。それは拒絶であると同時に、彼女が彼の着席を黙認したという合図でもあった。
ちょうどそのタイミングで、無機質な銀色をした人造ドロイドが静かにテーブルへと近づいてきた。
『オ待タセシマシタ。ご注文ノ品デ御座イマス』
ドロイドが彼女の前に湯気の立つカップを置くと、男がすかさず声をかける。
「私も同じのを頼むよ。砂糖、ミルクなしで」
『畏マリマシタ』
注文を受け、ドロイドが足音もなく滑るように去っていく。その後ろ姿を見送ってから、彼女は再び冷ややかな視線を男へと戻した。
「それで? 何の用」
「聞いたよ。随分と派手に揉めたそうだね。……男の闘争本能ほど不毛なものは無いだっけ? 偉い方々の前でよくぞそこまで啖呵を切ったものじゃないか。もう上の層では噂になっているよ。今頃は大統領の耳にも入っているだろうね」
「あら、噂が広まるのが早いのね。……でも、言ったことは事実だから。止まらない暴走機関車に乗っている自覚がない連中に、少し現実を教えてあげただけよ」
一歩引いて俯瞰すれば分かるはずだ。死刑囚ならまだしも、孤児を使って人体実験など正気の沙汰ではない。隣国は既に倫理観を捨てた。その事実は国際社会から猛烈な非難を浴びているが、この国のトップもまた、焦りのあまり同じ過ちを犯そうとしている。
「ボクも君の意見に賛成さ。あっちの国は最近、軽犯罪であっても適当な言い訳を捏造して実験体を仕立て上げていると専らの噂だ。もちろん、自国民じゃなく、他国から来た移民や労働者たちをね」
「――冗談よね?」
「いや、マジさ。ソースが不自然だから調べてみたら、裏で人身売買組織と繋がっていた……ってわけさ。狂ってるよ」
「……信じられない」
彼女は静かに、届いたばかりのコーヒーカップを置いた。
透過ガラスの向こう、陽光を反射して白銀に輝く完璧な研究区画。だが、その白く、清潔すぎる光景が、彼女には何故か、血の通わない巨大な墓標のように見えていた。
欲望を制御できなくなった人類が、いつか自らが生み出した奇跡に裏切られ、この繁栄のすべてが音も立てずに崩れ去る……。
まだ誰も知らない。まだ名前すら付いていない。だが、取り返しのつかない厄災の種がこの星に産み落とされようとしていることを――彼女の冷めた瞳だけは、確かに予見していたのかもしれない。




