5.前夜
「陸…………っ!」
口走ってから、青褪める
昔からそうだ
あらゆる事が、望んでも止まってはくれない
エリカの内側に、精が吐き出される
事切れるような自分の声
痺れるような悦び
虚脱感
躰の震え
そして、後悔
「今………」
「あの子の名前を呼んだの?」
エリカが、当惑の眼差しを俺に向けて居る
───いや、実際に狼狽えて居るのは俺だ
真夜中の寝室は外よりも深い闇の中だが、それでも解る
エリカが視開いた眼で、軽蔑の眼差しで俺を視て居た
「もしかして、あの子と───」
「違う」
「…………違う」
エリカは「煙草吸ってくる」と言うと、いそいそと衣服を纏い、寝室から出て行った
煙草など、ここでも吸える
出て行く時の背中の様子から、苛立ちや悲しみ、戸惑い、失望……幾つかの考え過ぎも含んで居るに違いないが、様々な感情を俺は感じて居た
部屋の外で暴力の音がして、はっとした
自分がする事には、既に何年も前から感じなくなっていたが、この家に自分以外の暴力の音がしたのは、初めての事だからだ
誰かが、壁や床に叩き付けられる音
玄関のドアの音
施錠音
少しして、外にサンダルの音がした
『エリカが誰かを殴ったあと、怒りが冷めやらず出て行った』といった感じか
寝室を出る
答え合わせは一瞬の事だった
片方の頬と瞼を腫らした陸が、鼻と口から血を流して廊下に横たわって居た
瞳には、いつも通り何の表情も感じられない
その様子をエリカの子である姉弟が、子供部屋から顔だけを出して観察して居たが、俺に気付くと慌てて引っ込み、部屋の戸を閉めた
廊下には、はあはあと呼吸しながら、僅かに痙攣する陸だけが残された
俺は陸を抱きかかえると、「陸」と声を掛けた
───何故、俺はいまこんな事をして居るのだろう
解らなかった
気付けば、いつの間にか頬は涙で濡れて居た
朦朧として居た陸が、俺に気付き眼を視開く
抱かれたまま、俺から少しでも遠くに離れようと、恐慌のように四肢を蠢かせる
陸の手が明確な意志を持って、俺の手を押し退けようとする
こんな地獄が在るだろうか
躰に力が入らない
俺の腕が、緩むや否や
何処にそんな力が残されて居たのか、視た事も無い速さで、陸は這うように廊下を走り去っていった




