29.デリカテッセン〜エピローグ(1)
冬へと移り変わろうとする寒い夜。
厨房脇の小部屋にろうそくの優しい灯りが並ぶ。
静かな夜をにじませる灯りがリーザの目をもにじませて、羽織ったストールの裾をきゅっと胸の前で掻き合わせた。
ふわり――
よく知っている甘い匂いが、背を向けている竃のあたりから漂ってきた。
窓に沿って置いたテーブルを拭き清める手を休め、準備しておいた大皿を手にラードルフの傍へ寄る。
ちょうどフライパンを火から降ろしたラードルフが、少し驚いたように言った。
「リーザさま、どうされましたか」
「できたのでしょう? はい、お皿」
「ははっ、ずいぶんよく効く鼻をお持ちのようだ」
「未来の料理人候補ですから、私」
そうリーザが言うと、ラードルフは楽しそうに笑った。
快活な笑い声に、リーザは自分の内側が満たされていくような思いがする。
あの日、すべてを告白したホラントは騎士団に拘束され、しばらくはそのことで混乱が続いた。
二人ともさすがに疲れが溜まっていて、しばらく身体を休めていたが、知らず知らずのうちに二人ともがまた小部屋の片付けへと戻っていた。
祭壇はないが、カリーン村の教会と同じようにたくさんの作物を準備して、大きな窓に沿って置いたテーブルに並べた。
外から見ると、窓枠が飾り立てられているように見える。
とりどりの作物は王城の畑で採れたもの――つまり、ホラントが手塩にかけた野菜たちだ。
ひとつひとつの作物には、カリーン村の人々がするように丁寧に、白いリボンが結わえられている。
結わえると申し出たのはホラントとテオ――今は王城の地下牢にいる二人だった。
王女の誘拐は王家への反逆罪と見なされる。
内密に事は運ばれているが、処罰をしないわけにはいかない。
できる限り寛大な対処を、と、リーザは正式な書面を整えてアデルに提出した。
いつのまにか王女としての振る舞いができるようになっていたリーザを、アデルは眩しく見つめていた。
ホラントがいなくなった畑の面倒を見るために、ホラントの弟子たちだけでなくカリーン村の男手も手伝いに来てくれている。
そうして収穫された作物に白いリボンを結わえるホラントは、いったい何を想っただろう?
地下牢まで作物を運んだオットーと再会したテオは?
自分もまた、会いに行きたい気持ちもある。
でも、今はまだその時ではないことを、リーザはよくわかっていた。
いつか、笑いながら話ができる日がくるといい。
そんなことを願っている。
最初にここでつくる料理は『貧乏な騎士』だと決めていた。
ラードルフが言い出したわけでもなく、リーザがそうお願いしたわけでもない。
ただ、二人のあいだで暗黙のうちにそう決まっていた。
いつものように卵と砂糖をかき混ぜるラードルフを背に、リーザはテーブルの準備をした。
窓に沿って置いたテーブルには焼き上がった『貧乏な騎士』を並べられるように、白いリボンで飾られた作物たちを上手に並べ替えた。
それより内側、小部屋の真ん中にもう一つのテーブルと椅子を出し、座って食べられるように整えた。
デリカテッセンごっこ。
今はまだ他愛もないごっこ遊びかもしれないが、当人たちは本気だ。
ホラントが計画していた、『王都に開かれたデリカテッセン』を、二人は実際に開きたかった。リーザがテオにさらわれたのは、この部屋が王城の端にあって王城の敷地内から王都へと行きやすいという理由もあったらしい。王城の警備に手を加える必要はあるだろうが、グラールの人々が訪れやすいデリカテッセンにできる、と考えることもできる。
『皆にその気持ちを振る舞ってあげなさい』というエミーリエの思いを踏みにじった、とホラントは言っていたが、デリカテッセンという形でひとりでも多くの人に料理を届けようとしていたのは、心のどこかにエミーリエのその言葉が残っていたからではないか――。
リーザはそう思っていた。
そのホラントの想いを実現したい……総料理長がいなくなった厨房は体制を整えるのに時間がかかるだろうが、いつか必ず。
それが、リーザとラードルフの共通の願いだった。
小部屋を少しずつ整えながら、リーザとラードルフは自分たちの描くデリカテッセンの夢を熱心に語り合った。
どんな料理を並べるか。
どんなふうに盛り立てるか……。
そして、いつかその中に自分がつくった料理を並べたい、という夢を、リーザは抱くようになった。
「リーザさま、テーブルの準備はよろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
焼き上がった『貧乏な騎士』をのせた大皿を、窓際のテーブルへ置いた。
白いリボンが結われた作物に囲まれた中、大皿に乗せられた『貧乏な騎士』はなかなか見栄えがした。
その大皿から『貧乏な騎士』をひとり分ずつ小皿に移し、紅茶を整え、もうひとつのテーブルに腰掛ける。
「では、頂きましょうか」
ラードルフの言葉に、リーザはそっと両手を組んだ。
しかし、祈る言葉は前とは違う。
「すべての命よ、お守りください。どうか、すべての命を引き受けることができるように」
もう、許しを乞うことはない。
祈る自分を見るラードルフの視線が、どこか安堵したものに変わったことに、リーザは気づいていた。
「……お父さまは、本当にお母さまのことを愛していらっしゃったのね」
『貧乏な騎士』を食べながら、リーザはぽつりと呟いた。
「仲睦まじくされていたのは確かです。俺も近くにお仕えして、よく存じています。しかし、どうして突然そう思われたのですか」
「なんとなく……そう思えるようになったというだけ」
理不尽な言葉を浴びせかけた父のことを、今の自分はこんなにも穏やかに思い出せる。
父もまた、妻を失った悲しみを引き受けようとして、そして時に失敗していた。
それが、自分を疎ましく思う言葉になって表れたのだろう。
「誰かを愛することは、苦しい気持ちを生むけれど……でも、それを乗り越えようとする強さもあるんだとしたら、私も強くなれるって、信じたいの。だからもう、自分を責めるのは、おしまいにします」
そうわかったのは、そう決められたのは、自分の中に、父と同じように誰かを愛する気持ちが芽生えたから。
そんなこと、当の本人を目の前にして言う勇気はなかったけれど。
「――俺は結局、あなたに何もして差し上げられなかった気がします」
リーザの話を黙って聞いていたラードルフが、リーザと同じようにぽつりと言った。
「あなたはご自分の力で、前へ進まれた。ホラントが指摘する弱さと向き合われた。きっと、俺がいなくてもあなたは同じようになさっただろう」
「いいえ、ラードルフ、それは違うわ。お願いだからそんなことを言わないで。あなたはずっと私のために大変な思いをしてきてくださったわ。それに、私が、お母さまに会えたのは、たぶんあなたのおかげなのだし……」
「エミーリエ様に? ……あのビスケットのことですか?」
「あ……え、ええ、そう……」
勢い込んでラードルフの言葉を必死に否定していたリーザは、ラードルフの問いかけに気まずく口ごもった。
言わなければよかった、という顔をしてしまう。
口に出してはいないが、ラードルフの目が続きを促すようにこちらを見ている。
「……ホラントの孤独や妬むような気持ちが、私の中にある同じような気持ちに共鳴した、って言ったでしょう? そのときに、残っていたお母さまの意識を読んだ、って」
「はい、うかがいました」
「その……共鳴したのは、私の気持ちだけではないの。確かに、私の中にあったそういうネガティブな感情も一緒にふくらんだけれど、そのとき……あなたの感情も混じり合っていたの」
「俺の……感情?」
「あの日の夕食にあなたがつくってくださった、『貧乏な騎士』……」
テオに無理矢理食事を口に運ばれていたとき、ぐったりしていながらも周りの言葉はリーザの耳に届いていた。
テオが、『貧乏な騎士』がすばらしいトラップになった、と言ったところで、あの日感じていた身体のだるさは、やはりラードルフのつくった『貧乏な騎士』のためだったのかとリーザは確信した。
熱のどこかにラードルフの声がすると思いながら、それ以上探ることはなかった。ラードルフの気持ちを読むことは、怖かったから。
でも、ホラントのビスケットを再び食べたとき、隠していたその熱が他のネガティブな感情とともに膨れ上がったのだ。
そうして、リーザはラードルフの中にあった感情に気づいてしまった――『思いどおりにならない相手への嫉妬』、そしてそれを誰に向けているか――。
ラードルフの強い気持ちが入り交じり、そうしてネガティブな感情は大きくふくらんだ。
きっとそのおかげで、小さく残っていた母の存在に気がついた。
言いづらいながら呟いたリーザに、ラードルフは無言のままリーザを見つめ返した。
その無反応ぶりにリーザは不安になって、慌てて打ち消すように付け加えた。
「ああ、で、でも、こんなこと初めてだったから、違うかもしれないですし! でも、あなたのおかげで私がとても助けられたというのも、間違いないことですし、なんというか……お願いだから、そんなふうに言わないで」
ラードルフのきれいな目にリーザは必死で訴えかけた。
伝わったのかはよくわからないが、ラードルフはそっと、ありがとうございます、とだけ呟いた。




