28.告白(3)
手鞄の中からリーザが取り出したのは、ハンカチーフで包んだ小さなふくらみだった。
手のひらの上で広げてみせる。
もうほとんど残っていない、あのビスケットの最後の欠片だった。
「これは……」
ホラントもその正体に気づいて驚いたように言った。
まだ残っていたのか、というような顔だ。
「知らなかったわ。このビスケットに使われている木の実……お酒に漬けて、どんどん継ぎ足していくこれって、元はあなたがお母さまと一緒につくったものなのね。それをあなたが引き継いで、修道院にいたお母さまに差し上げた。私が今まで食べてきたビスケットは、あなたとお母さまの合作だったのね」
リーザは修道院の厨房を思い浮かべた。
ささやかな厨房の片隅の棚に、その瓶はあった。
採ってきたきのこを干して詰めた瓶や、野いちごを煮詰めてつくったジャムなど、たくさんの保存食がずらりと並べてある棚だった。
そうして、修道院はほそぼそと、慎みある食卓を続けてきたのだ。
「私が物心ついた頃には、もう木の実の瓶があったから、長いことあるものだと思っていたけれど、違ったのね。ホラントがお母さまのために持ってきてくれた……」
「どうしてそれを? まさか、あのビスケットから読んだのですか?」
言外に、不可能だ、という意味を込めてホラントは言った。
「確かに、海辺の修道院にある木の実の瓶は、おれが持って行ったものです。半分を持って行って、残りの半分はおれが持っています。その半分を使ってあのビスケットを……。まだエミーリエさまがお輿入れする前に、一緒になって木の実を探して漬けました。だが、そんなのはもう遠い昔のこと――おれが長年、悲しい気持ちを込めて漬け続けていた木の実から、どうしてエミーリエさまの気持ちを……。王女殿下はでたらめを仰っているのですか?」
首を振ると、リーザは寂しげに言った。
「あのビスケットは、孤独だったわ。たくさんの悲しみや妬みが混じり合って、すべてをなぎ倒すような孤独……暗くて、私を押しつぶそうとして迫って来る壁だった。息苦しくて、どこにも逃げ場がない。……サンドウィッチを食べたときに感じた孤独と同じ。あれは、あなたのものだったのね」
記憶をなぞるようにリーザはそう言った。
「ここで一人でビスケットを食べたとき、私を襲うあなたの孤独な気持ちと、私の中にある同じような孤独、悲しみが共鳴したの。その孤独がふくらんで大きくなって……まるでソーダ水の泡のようにはぜようとしたとき、いちばん底のところで、お母さまに会ったわ」
木の実を継ぎ足し、酒を注ぎ足して漬け込みつづけた瓶の底に、沈むように残っていたエミーリエの残像をリーザは見たのかもしれない。
「お母さまは、ホラントの料理が誰かを傷つけることがないように願っていたわ。そしてそれ以上に、あなたが自分の料理で傷つく事がないように――そう祈ってた」
じっとリーザを見つめるホラントの呆然とした顔が、やがてよく知っているあの皮肉げな、飄々とした色にそまった。
「おれの恋心を知っていて……おれの料理がそんなものになっていることも知っていて――エミーリエさまらしいな、確かに」
声にならない自嘲めいた笑いを混ぜながら、ホラントは言った。
「……王女殿下は、あのビスケットを召し上がったのですか? 最後まで?」
「ええ、先ほど、頂きました。ここに来る前に」
「ここに来る前? テオに連れ出されるときではなく?」
「そのときには、自分の中でいろいろなものが共鳴しているところまでしかわからなかったわ。あのビスケットに込められていた悲しい気持ちや妬むような気持ちを引っ張りだすような何かを感じたところで、倒れてしまったから」
「では……あなたはもう一度召し上がったというのですか? 辛い目に遭うとわかっていてなお?」
「ホラントはそれを望んでいたのではないの? 私が引き受けることを」
混乱したように矢継ぎ早に質問をぶつけるホラントに、リーザは落ち着いた様子で答えた。
当事者でない人間にはわからない苦しみや痛みを、もう一度引き受けてまで王女は自分の為すべきことを為そうとしたのだ――貯蔵庫で倒れていたときと同じように。
リーザへの思いが明確に変わったあのときの自分のように、ホラントは今、王女の覚悟を目の当たりにしているのだ。
ホラントの横顔を見ながら、ラードルフはそう感じた。
「食べられたのですか……おれのビスケットは」
目の前のハンカチーフに包まれているビスケットのほろほろとした欠片を見ながら、ホラントはぽつりと訊いた。
リーザはそれには答えず、最後の欠片を細い指先でそっとつかむと、そのまま口の中へと運んだ。
固くくちびるを合わせて、もぐもぐと動かすリーザの身体は、少しこわばっているように見えた。
しかし、顔を青褪めさせることもなく、ふらつくこともなく、最後まで食べ終える様を見せることが、何よりもはっきりとしたホラントへの答えだった。
「もう、怖くないのですか。人生における避け難い苦しみを、あなたは受け入れる覚悟を決めたと仰るのですか」
「……わからないわ。私はやっぱり、誰からも嫌われたくない。強い気持ちを向けられるのも、自分の中にそんな気持ちがあることも、受け入れるのは難しいし、時間がかかると思います」
「しかし、もう決められたのですね。それくらい、顔を見ればわかります」
リーザの表情は晴れ晴れとしていて、言葉ほど迷ってはいないように見える。
「どうして――ああ、そうか」
ホラントは理由を問いかけて、途中で何かに気づいたように言葉を切った。
リーザに向けていた視線をラードルフへと移して、ホラントはぽつりと言った。
「ラードルフ、お前さんがただ一つの大きな誤算だった、ということか……」
「どういうことだ?」
意味がよく飲み込めないラードルフの言葉に、ホラントは言った。
「始めはただ、苦しませたかった。テオの料理を食べさせて……おれの料理が受け付けられないだろうことも予想できた。どんなに苦しんで、悲しんでも、人間はどうしようもなく腹が減る――滑稽なほどに、人間はそうなんだ。そうして日々をやりくりしていくんだ。王女殿下がどこまで悲しみや苦しみを受け入れないで生きていくことができるか……いつまで、おれの料理を食べずにいようともがけるのか、それが見てみたかった。そうすることで、いつか王女殿下も苦しみのある生き方を受け入れるのではないかと――そうなれば、王女殿下自身は苦しまずにすむようになるだろうと……信じて頂けないかもしれないがな」
そう言って、ホラントはラードルフの顔を見て語りかけるように続けた。
「だが、ラードルフ……お前さんがおれのただ一つの誤算だ。お前さんの『貧乏な騎士』を食べることができた見知らぬ女がいたと聞かされたとき、おれにはすぐ王女殿下のことだろうってわかった。あれが、たがを外した――エミーリエさまにおれの料理を拒まれたときのことを、思い出した」
自分といつもどおりの会話をしていたホラントが、胸の内に激しく沸き上がる想いを抱えていたとは――ラードルフは自分の話に顔色ひとつ変えなかったあの夜のホラントを思い出しながら聞いた。
「王女殿下をテオにさらわせたのは、おれがエミーリエさまをそうしたかったからだ。閉じ込めて、誰もいないところで、ただひたすらおれの料理を食べさせたかった。拒まれることを、拒みたかった。……あんなにエミーリエさまのことを想っていたおれが、愛する人の娘を心底苦しめるとはな」
そう言って溜め息を深く吐くと、ホラントは真面目な声で訊いた。
「なあ、ラードルフ。お前さんは今でも信じているのか? 悲しみのない人生なんて存在しない以上、悲しみのない料理なんてあり得ない。もちろん、お前さんの気持ちをすべて否定するつもりはない。愛する人の不安はすべて取り除いてやりたいという気持ちは誰でも持つものだ。おれもかつてはそうだった。でも、そんなこと不可能だと思わないか? 愛すれば愛するほど、取り除いてやりたいと思う自分の方の悲しみは増えていく一方だというのに。それでも、お前さんはやり遂げるのか?」
「……生きることに悲しみがつきまとって、それを取り除くことが不可能だとしても、取り除こうとする気持ちを俺は選びたい。それでも取り除いて差し上げたいと強く願い続ける気持ちを、信じたい」
「おれができなかったことをやってみせる、か。わかってるんだろうな? 力を尽くす、と言い切る力の源が、何か」
以前答えられなかった質問に、今度は背筋を伸ばして答える。
今ならはっきりと答えられる。
「わかっている――もう、『任務』だとは思っていない」
ラードルフがはっきりと言い切ると、ホラントは苦笑いの表情で言った。
「ラードルフは優秀な騎士だ。王家に対する絶対の忠誠、私情を挟まない務めぶり、自分の気持ちをコントロールする精神力――どれをとっても理想的だ。アデル様の信頼の厚さを見れば、王女殿下が戻られた暁には、その護衛を任されることは誰にでも予想できたことだ。だが、まさかお前さんがそんなことを言うようになるとは……」
ホラントは愉快そうに笑って言った。
「本当に、誤算だった。だが、最高の誤算だ。もしかしたら、これがおれが望んでいた結末なのかもしれない……」
窓の外の夕陽を見つめるホラントの影が、長く伸びて壁に写り込む。
「そう思いませんか、エミーリエさま」




