22.孤独の闇
今夜からここの設備は使えるとホラントは言っていたが、今日のところはとりあえず元の厨房を使うことにした。
ホラントが不在の厨房を念のため見ていた方がいいような気がしたからだ。
自分がいることで何の役に立つかと言われたら大して思い浮かばないが、いないより良いような気がした。
いや、それはただの言い訳か。
――つまるところ、リーザと一緒にいるのが居心地が悪いのだ。
小部屋で最初に料理をするときは近くで見ていたいと言われていたが、今日は使わないので、と言って自室へと送り届けた。そうして、騎士の詰所に顔を出してから厨房に立った。
今日は『貧乏な騎士』をつくる気でいた。
最近はレパートリーが増えたからかあまりつくる機会もなかったが、アデルが食べたいと直々にお願いしてきたという事情もあって、久しぶりに余り物の卵を割り、湿気った砂糖を混ぜている。
居心地の悪さは、居心地が良すぎるから感じてしまうのだ。
ラードルフはそう思う。
リーザと一緒にいると、不思議とあたたかい気持ちになる。
あの微笑みが、どうしようもなく好きで、必要としている自分がいる。
だがそれも行き過ぎると、あるところでぱちんとはぜてしまうのだ。
仕えるべき王女相手に何をしているのか、自分は――。
そう自問自答し始めると、止まらない。
相手は王女さまだ、アデル陛下の妹君だ。
こんなことならば、名前で呼ぶなどやめておけばよかった。
しかもあんな『途方もない夢』を一緒に描くなど――自分はいったい何をしているのか。
いちばん幸せなときにその幸せははぜてしまう。
現実にやわらかな雫をはらりと振りまいて。
ラードルフはよくわかっている。
リーザはいずれ、グラール国の第一王女として、ふさわしい相手と結ばれるべき人なのだ。
兄の優しさゆえに王城に呼び戻されただけとはいえ、リーザももう十七歳。近いうちにそれなりの縁談があってもおかしくない。
『デリカテッセン』など、そんな夢をいつまでも語っていられるわけではないのだ。
他国の王家か、縁続きの隣国トレーネか、はたまたグラール国の貴族の元へか――確かにリーザは今の段階では厄介な爆弾持ちかもしれないが、それが払われれば何の問題もない。
いや、払われずとも、そのままの王女でも構わないとまで言い切る相手であれば、それはそれですばらしいことではないか。
――お前さんがいなくなったら……王女殿下はどうなる?
答えは簡単だ。
どうもならない。
もしくは、どうもならないような縁談が、望ましい。
ホラントの問いかけの中で唯一淀むことなく答えられるそれに、自分は口をつぐんだ。
理由は明確だ。
その答えが気に入らないから。
……これが、ホラントの言うところの、『思いどおりにならない相手への嫉妬』というものなのだろうか。
ラードルフは拭いきれない感情を必死に押しとどめようと、卵をひたすらかき混ぜた。
気に入らない――そんな感情を、なかったことにするために。
***
侍女に断りを入れて、リーザは自室を抜け出した。
足は厨房脇の小部屋へと向かっている。
『貧乏な騎士』は久しぶりに食べたが、おいしかった。体調を崩し気味のアデルもマルグレートも、喜んで食べていた。……そう、自分だって喜んで食べた。
リーザは歩きながらラードルフの顔を思い浮かべた。
小部屋へ行くことは、ラードルフには伝えずに出て来てしまった。
どうしても、今日はもう顔を合わせたくなかった。
いつも食事の席へ付き添って、食べられるかどうかを見届けてくれる。
おいしいですと言えば、心から喜んでくれる。
そうして、食べられることがわかればそっと部屋を抜け出して、家族の食事を必要以上に邪魔したりしない――王家と親しくしているがゆえの、気遣い。
部屋を抜け出す瞬間、いつもリーザは扉をそれとなく見つめてしまう。
最初は自分が見ているだけだった。
アデルが話しているのを邪魔しないように、何も言わず一礼して退出する俯いた横顔を、じっと見つめているだけだった。
いつからか、彼はその視線に気づいてしまった。
今では退出するその瞬間、ラードルフは顔をそっと上げる。
リーザの視線を探すように――そうして目を合わせて、お互いが笑む。
ラードルフは去り難いように、リーザは行ってほしくないように。
彼が退出してから、リーザは後悔する。
どうしてあんな視線を送ってしまったのだろう、どうして目を合わせてしまったのだろう――。
自分の気持ちが、目が合うごとに深くなっていくのが、怖い。
厨房をのぞくとすっかり片付けられいて、誰もいなかった。
いつもならホラントがのんびり新聞でも読んでいるところだが、今日はカリーン村へ行っているのだったと思い出した。
手にしていたランプを掲げながら、小部屋へそっと中へ入る。
――ここを、簡易的な厨房として使おうかと思っているんです。
収穫祭から帰ってきて数日、ラードルフはこの小部屋の扉を開けて言った。
――ホラントに、追い出されてしまいましたから。
それが半分本当だとしても、半分は照れ隠しのようなものだと、リーザにはわかっていた。
そう言ったラードルフの横顔が、どことなくやわらかく、しかしくすぐったそうに笑っていたから。
ラードルフは本当に、自分のために力を尽くしてくれているのだ。
いずれ、この小部屋にあたたかな匂いが満ちるだろう。
それが待ち遠しいような……怖いような。
いくらラードルフが課せられた任務のために動いてくれているのだとわかっていても、自分の気持ちがふくらんでいくのは、それとはまったく別問題だ。
それなのにどうしてあんな夢を見てしまった?
ここをあの収穫祭のような場所に……
――デリカテッセン?
問い返すラードルフの優しい声が自分をこんなにも締め付ける。
自分が望めば、彼はきっと忠実に遂行するだろう。
それが彼に課せられた任務だから。
この厨房からあたたかな匂いがこぼれるように押し寄せて、そうして大きな窓からやわらかな光が差し込んで――そのときには本当に、取り返しがつかないくらいに、ラードルフが好きになってしまうのではないか。
もう既にそうである可能性を頭から取り払って、窓から外を眺めた。
大きな窓からは夜空が見えた。
曇っていて月もない。
夕方、ラードルフが仕上げに水拭きをしていた調理台の上に、手にしていた荷物を置く。
今日、海辺の修道院の修道女たちから、リーザへビスケットが届いたのだ。
王城へ帰ってきたときは、このビスケットがなければ自分は死んでしまうのではないかと思いつめるほどだったが、今では懐かしい気持ちでこのビスケットを口にすることができる。
侍女に沸かしてもらった湯を水筒に入れ、簡単なティーセットを使って紅茶を入れて、椅子に腰掛ける。
……身体がさっきからずんと重い。こんなだるさは久しぶりだ。すぐに倒れてしまうほどではないが、そのうちに熱が出るかもしれない。
目を閉じて、熱の元を探るように意識を澄ますと、どこかにラードルフの声がするようで――でもそれは、触れてはいけないもののような気がして。
怖い。
これ以上好きになってしまうことが。
好きになってしまえば、行き着く先がどこかはよく知っている。
――お前は、私から母を取り上げてなお、私を苦しめるのか……
お父さま、お願い、許して。
頭の中に幼い頃の苦い記憶が蘇ろうとするのを押さえ込んで、リーザはビスケットを口にした。
***
ふっと、まぶたを開ける。
――暗い。
自分の身体が寝転がっていることに気づいて起き上がろうと――しかし、身動きがとれない。
ぼんやりとした頭が、状況をとらえようとゆっくり動き出す。
両腕が縛られている。
そして、両足もまた。
ずいぶんと遠くに、ぱたぱたと叩くような雨の音がする。
いったい何が起こったのか、頭がしびれてよく思い出せない。
頰が触れている床から、木と土の混じり合った匂いがすることにリーザは気づいた。
暗くてよくわからないが、地面の上に薄布が敷いてあるらしい。その薄布から、湿った空気がにじみ出て来る。
息が苦しい。
呻くように息を吐くと、舌が口の中に残っていた何かに触れた。
甘い欠片。
舌にじゃりっとした食感とほんのりとした甘さが伝わった瞬間、雷が身体を通り抜けたような痛みが走る。
リーザはびくっと身体を震わせた。
固く目を閉じると、まぶたの裏側に見たことのある闇が現れた。自分を押しつぶそうと迫って来る闇――そう、確か、王城に戻って二度目に倒れたときに感じたあの、言いようのない孤独。
リーザは闇を払うように必死に目を開いた。
幸い、目はすんなりと開いた。
口の中に残っていた甘い欠片の正体を思い出そうと、記憶を探る。
この甘み。砂糖の甘みじゃない。
もっと素朴な……果実の甘み。
知ってる、あの蒼の森でよく拾った木の実の甘み……食べ慣れない人には食べづらいけれど、みんな大好きで……あの人に、食べてもらうんだって、約束してた……
リーザが答えにたどり着いた瞬間、地面がぼわっと浮かび上がるように明るくなった。
誰かが灯りを持っていた。
「ビスケットの味は、お楽しみ頂けましたか……」
冷気に包まれているかのような声に、リーザは既視感のある孤独を感じた。




