21.途方もない夢
遠くを見ていた目を、ホラントはゆっくりとラードルフに向けた。
真剣な目、しかしどこか虚ろで……それは初めて見る目だった。
「なあ、ラードルフ。今のお前さんならわかるだろ? 料理人は日々の食事をつくることで、誰かの人生を作ってる。けどな、その料理人にも人生があるんだ。人間の人生には幸せなんかよりも、悲しみや辛さが多い。傷つけられることへの恐怖、情けない猜疑心、無駄な虚栄心、思いどおりにならない相手への嫉妬……だから人間は人間なんだ。おれはそう思ってる。いつまでもお祭り気分じゃいられないのさ。人間の人生が幸せなことばかりなら、王女殿下がそんな病に苦しむことなんてないはずだ。そうだろ?」
吐き捨てるように言い切るホラントの顔に、うっすらとした陰がよぎった。その陰が、ホラントの顔に刻まれたしわを濃く浮かび出させる。
「悲しみのない人生なんて存在しない。ということは、悲しみのない料理なんてあり得ないんだよ。不可能をお前は可能にするっていうのか? 仮にできたとしても、それは対症療法でしかない。お前さんがいなくなったら……王女殿下はどうなる?」
ホラントの問いかけに、ラードルフはしばらくつぐんでいた口を開いた。
「それでも、やるだけだ。自分にできることは何でもやる、力を尽くす――そう決めた。いつか、本当に病を癒す方法が見つかるかもしれないだろう?」
為すべきことだから為すのではない。自分にできることは何でもする、何でもしたい――いつのまにか、そういう気持ちに変わっていることを、ラードルフは自覚した。
「ふうん」
ホラントは視線を手元に落として、包丁を研ぎ始めた。しゃっしゃっ、という研ぐ音が響く。
「お前さんがそう言うなら、そうなんだろう。私情はいっさい『任務』には挟まない団長殿だからな。悲しみのない料理をつくる――それが『任務』ならどんなことでも可能になるんだろうな。……もっとも、これがお前さんにとって『任務』かどうか、怪しいところだが」
「どういう意味だ」
「そのままの意味さ。力を尽くすっていう決意の源が、王家に対する忠誠とは違う気持ちのようだ――」
「……!」
「どう違うのか、それを直視できないうちは、王女殿下の病は癒せない。それに、今のままでは、王女殿下ご自身で病を克服することもできない――せいぜい頑張ってくれよ、団長殿。テオを早く厨房に戻したいんでね。テオは将来有望な弟子だ……悲しみをよくわかってる。いい料理人になるよ、あの坊ちゃんは」
なんと答えてよいかわからないまま、包丁を研ぐホラントを見つめていると、パタン、という音がして回廊につながる扉が開いた。
「ラードルフ、ホラント――いらっしゃる?」
「ああ、王女殿下ではありませんか。こんなところへ、どうしましたか?」
顔をのぞかせたリーザに応えたのはホラントだった。
表情はすでにいつもの飄々とした笑みだ。その見慣れた笑みを見ると、さっきまでのホラントがまるで嘘のように思える。夢でも見ていたかのような、そんな気分だ。
「厨房をのぞいたらこれが置いてあったから……こちらの部屋で要るものではないかと思って」
紙で包まれた何かを手に、リーザはホラントに笑いかけた。
「ああ、そうです。すみませんね、王女殿下。こちらで使えそうな皿を出しておいたんでした。……お勉強、さぼっていらっしゃったんでしょ?」
「失礼ね、ホラント。ちょっとした気分転換です」
「ははは、失礼なのは昔からなのでね、王女殿下。あなたのお父上にもお母上にも失礼な口を聞いたものです。……さて、ラードルフ。包丁も研いだし、おれは行くぜ。オットーに会いに行かなきゃいけないんでね」
そう言って、ホラントは立ち上がった。
「ホラント、カリーン村へ行かれるの?」
「はい、王女殿下。何かございましたか?」
「ちょうどよかった。申し訳ないのだけれど、これをオットーにお渡し頂きたいの」
リーザは手にしていた麻織の手鞄から、白い包みを取り出した。
例の咳止めの薬だ。
このあいだ、ラードルフはリーザの頼みで再び蒼の森へ同行して、一緒に葉を摘んだところだ。
「これが、王女殿下お手製の薬ですか」
「ええ。近頃また少し具合が良くないと聞いたものですから」
教会の修繕にやって来たオットーの弟子たちから聞かされて、リーザはずいぶんと心配していたのだ。
収穫祭の疲れでも出たのだろうかと、薬を煎じながら不安げに言っていたリーザの声を、ラードルフは思い返す。
「わかりました。ついでに、何か栄養になるものをつくってきますよ」
そう言って、ホラントは薬の包みを胸元へ収めた。
「それじゃ、ラードルフ。使おうと思えば今夜からでもここは使えるだろうし、よろしく頼むぜ。忙しいところ悪いが、もし手があいたら厨房の方の様子も見てやってくれないか。ああも倒れられちゃ、さすがに人手がぎりぎりだろうしな」
季節の変わり目、急に日中が寒くなってから、王城に仕える侍女や騎士たちも、体調を崩して任務を休む者が出始めた。厨房もそれに違わず、いつもより少ない人数で持ち場をやりくりしている。そのことをよく把握していたラードルフは、当然といったように頷く。
「わかった、できる限り手助けする。気をつけて行ってきてくれ」
「おうよ。では王女殿下、失礼致します」
丁寧に頭を下げて、ホラントは背を向けて歩き出す。と、思い出したように声を上げて振り返った。
「そういえば、王女殿下。カリーン村の作物も結構だが、たまには私の畑のことも思い出してやってくださいよ。私の畑の作物も、今年はよく実っておりますから」
「ええ、ありがとう、ホラント」
リーザの返事に満足したようにホラントはくるりと背を向けて、今度こそ去って行った。
ラードルフはふうと大きな溜め息をついた。
いつのまにか身体に力が入っていたことに気づく。ただホラントといつものように軽口を叩き合っていただけだというのに。
さすがに何日も続けて小部屋の片付けや掃除を続けていたせいで、疲れが溜まっているのだろうか。
隣のリーザをふっと見遣ると、心配そうにこちらを見ている目と合った。
以前よりもぐっと近づいた距離に、高鳴る。
「ラードルフも、どこか具合が悪いのですか?」
「いいえ、俺はどこも。頑丈にできていますから。お気遣いありがとうございます――リーザさま」
名前を呼ぶ前にはいつもいびつな間ができる。その分、名前を呼ぶ声には力が入る。
収穫祭からこちら、ラードルフはリーザを名前で呼ぶようになった。
名前を呼ぶときに詰まるラードルフと同じように、名前を呼ばれるリーザはリーザで、反応がいつもより一瞬遅い。
今も少しだけ固まって、顔をほんのり赤らめている様子に、満たされるものを感じる。
「それならば、よいのですけれど……。お兄さまもお疲れが続いているようですし、お姉さまも時々溜め息をついておいでですし……。ラードルフまで体調が良くないのではないかと思って。騎士団のお仕事だってあるでしょうに、厨房の改装まで手がけるなんて」
「俺が、ぜひやらせてほしいと言い出したことですから」
いつのまにか、リーザの目の前では『俺』という一人称で始終通すようになった。
すっかり打ち解けてしまったということだろうか。
いや、ただ単に、自分が王女の優しさや寛容さに甘えているだけだろう。
為すべきことだから為すのではない。自分にできることは何でもする、何でもしたい――何度も繰り返し自分の中に湧き上がって来る思いを噛み締めると、それに沿うようにして、ホラントの言葉が蘇って来る。
――人間の人生には幸せなんかよりも、悲しみや辛さが多い。傷つけられることへの恐怖、情けない猜疑心、無駄な虚栄心、思いどおりにならない相手への嫉妬……だから人間は人間なんだ。おれはそう思ってる。
その口調は、だからこそ人間を愛おしむ、というわけではなくて、だからこそ人間を蔑むのだ、とでも言いたげな、低い唸りを伴っていた。
胸に刺さる。
特に、『思いどおりにならない相手への嫉妬』と言われてしまっては――。
「本当に大きな窓ね。光がとても気持ちいいわ」
わき上がってくる暗い気持ちが、リーザの声にさっと身を潜める。
姿を見られてはならない、知られてはいけない――ラードルフは何気ないように返事をした。
「ここがずっと倉庫代わりだったというのも、もったいない話です」
天井のすぐ下あたりから、リーザの腰あたりまで窓がある。王城でも一、二を争うほどの大きさだろう。城壁の手前には木々が植えられていてある程度の距離があり、表門から裏の王家の庭に通じる道のようになっている。そのためか、窓から外をのぞいても圧迫感はあまり感じられない。
きらきらと夕方の光を受けながら、リーザがぽつりと言った。
「……ここが、収穫祭のような場所になればいいのに」
「収穫祭のような場所、ですか?」
「ええ。あの広場のように、いい匂いがして、優しい音楽が流れて……思い思いに、皆が好きな料理を選ぶの」
「デリカテッセン」
「そう」
よっぽど良い思い出になったのか、リーザはうっとりと言ってもよいくらいのまろやかな様子で言った。
「ここの窓に沿って大きなテーブルを出して、窓の外にはパラソルを立てて、看板を出して――捨てるところなんて何一つない料理を並べるの。王城の畑で採れた作物をたっぷりつかって、季節の移り変わりを感じられるような。もちろん、『貧乏な騎士』もよ」
「……『も』?」
「だってラードルフ、いろんな料理がつくれるようになっているもの。そうでしょう? どれもおいしいし」
確かにここ最近レパートリーを増やそうとしているのは確かだ。
誉められるのは嬉しいが、リーザにしてはあまりに大きな夢を語るのがくすぐったい気持ちだ。
「確かに『貧乏な騎士』だけでは『貧乏な騎士』屋さんでしかありませんからね」
苦笑して答えると、リーザのやわらかな笑みが萎んだ。
「――途方もない夢かしら?」
「いいえ」
即答した自分に何よりも自分が驚いた。
はっと自分の方を向いたリーザの目を丸くした様子からそっと視線を外して、しかしはっきりと言った。
「ここがデリカテッセンになるのは、俺も素敵だと思う――あなたがそれを望むなら、なおさらだ」
恐る恐る視線をリーザの方へ戻すと、王女もまたその視線を戻すようにこちらへ向いていた。
目が合うと、空気が一瞬、動きを止める。
いびつな角度で組み合わさった視線をそのままに、リーザは萎んだ笑みをぎこちなく整えるように笑った。
言ってはならない何かをじっと守るように、そのくちびるをつぐんだまま。




