第2部 (3)(4)
(3)
経験し利用する機能の発達は、たいてい人間の関係力の低下を介して起こる。
精神を嗜好品に仕立てた人間、それと同じ人間は、自分の周りで生きる存在者とどのように関わるのか?
〈我〉と〈其〉とを相隔てる分離の根源語に基づいて、そのような者は共存者との生活を、組織と感情という二つのきちんと線引きされた区域、〈其〉の区域と〈我〉の区域に分けてきた。
組織は〈外にあるもの〉であり、そこでは人は様々な目的に関わり合う。そこでは人は労働し、交渉し、感化し、企図し、競争し、組織し、経営し、執務し、説教する。それはある程度秩序づけられた、いくらか調和もとれた機構であり、そこでは人的頭脳や構成人員の多彩な関与のもと、諸要件の進展が行なわれる。
感情は〈内にあるもの〉であり、そこでは人は生を営み、組織から離れて休養する。ここでは一人のとき情緒のスペクトルが好奇心ある眼差しの前で揺れ動く。ここでは人は自分の好みや憎しみや楽しみを、そしてその追い立てがひどすぎるものでなければ苦悩をも堪能する。ここでは人はくつろいで、揺り椅子の中で伸びをする。
組織は面倒な公共広場であり、感情は何といっても変化に富んだ豪華な私室である。
その境界設定はむろん絶えず危険にさらされている。何故なら気まぐれな感情は、ときには最も実質的なる組織に押し入るからである。しかし若干の適切な意思があれば、その境界設定は容易に復旧する。
いわゆる個人的生活の諸領域では、頼りになる境界設定は最も難しい。例えば結婚生活においては、また別の領域を設けないわけにはいかないことがある。だがその領域はなくなっていく。いわゆる公的生活の諸領域では、そうした境界設定は卓越して遂行されている。例えば諸政党の、それも超党派を目指す諸団体の年間行事やその〈諸活動〉を見よ。そこでは天をつんざくばかりの諸大会と――それと同じ程度に機械的に均一な、あるいは有機的に放漫な――地を這うような実務運営とが交代し合うのだ。
しかし組織における分離された〈其〉は一種のゴーレム(ユダヤ教の伝承に登場する泥人形で、作った主人の命令だけに動くロボットのようなものだが、狂暴化することがある)であり、感情における分離された〈我〉は あちこち羽ばたき回る魂だけの鳥である。両者はどちらも人間を知らない。組織はただ模範を、感情はただ〈対象〉を知っているに過ぎず、人物を知らず、共同性を知らない。両者はどちらも現存を知らない。組織はどれだけ現代的なものでもただ硬直した過去を、完了した存在を知っているに過ぎず、感情はどれだけ長続きするものでもただかすめ過ぎる瞬間を、まだ存在しないものを繰り返し知るに過ぎない。双方とも真の生への手がかりを有しない。組織は公的生活を、感情は個人的生活を生み出すことにならない。
組織が公的生活を生み出すことにならないということは、ますます多数の人間たちが、ますます増大する苦悩とともに感知している。これは、時代が切実に必要とする出発点である。感情が個人的生活を生み出すことにならないということは、まずわずかの人しか理解していない。ここにこそ最高に個人的なものが宿っているように見える。そして現代人が学んできたように、人がまず自分自身の諸感情とやたら関わり合ってその非現実性に絶望しても、もっと良いものをと容易に悟ることがない。何故ならそう、絶望も一つの感情で、それも興味深いものだからである。
組織が公的生活を生み出すことにならないということ、そういうことで悩む人々は、一つの策を思いついた。すなわち、組織をまさしく感情によってほぐすなり、溶かすなり、こじ開けるなりしなければならないと。組織の中に〈感情の自由〉を取り入れることによって、まさしく感情のほうから組織を革新しなければならないと。例えば、オートメーション化した国家が本来無縁同士の住民たちを結びつけているに過ぎず、お互いが喜捨したり支援したりするのでなければ、そうした国家は愛の共同体に取って代わるべきであると。そして人々が自由で熱狂的な感情から集い合って生を共にしようとするとき、まさしく愛の共同体が生じるのであると。しかし実際はそうではない。真の共同体は人々がお互いに対して感情を有すること、そのことによって生じるのではない(むろんこのことなしには生じさえしないが)。そうではなく真の共同体は次の二つのことによって生じる。すなわち、人々が全て一つの生ある中心に対して生ある相互的関係の中に立つこと、そして人々がお互いに生ある相互的関係の中に立つことである。後者は前者から生ずるのだが、それが単独で生じたことはまだない。生ある相互的関係は感情を内に含むが、それは感情に由来するのではない。共同体は生ある相互的関係から築かれるのだが、その建築士は生ある働きかける中心である。
いわゆる個人的生活の組織も、自由な感情によって新たにされ得るものではない(むろんそれなしではなされないが)。例えば結婚は、二人の人間が互いに〈汝〉を顕現させること、その中から常に真の結婚は生じるのであって、それ以外のことによっては決して新たにされないだろう。そのことによって、双方どちらも〈我〉ではないところの〈汝〉が結婚を築き上げる。これが愛の形而上的・超心理的な事実であり、これに愛の諸感情が付随するに過ぎない。結婚を他のことによって新たにしようとする者は、結婚を解消しようとする者と本質的に異なるものではない。何故なら両者とも、自分たちがこの愛の事実をもはや分かっていないことを言明しているからである。そして実際、当代さかんに論じられている性愛すべてから、そもそも〈我〉の関与性があるもの、すなわちその中で一方が他方に対して全く現存的でなく相手に対して全く現存性を認めない、一方が他方に対して自分自身を堪能するだけの全ての関係を差し引いたなら、いったい何が残るだろうか?
真の公的生活と真の個人的生活は、結合の二つの形態である。それらが生起し存続するためには、変容しやすい内容である感情が必要であり、不動の形式である組織が必要である。しかし両者が統合しても、まだ人間的な生活は成就されない。それを成就するのは第三のものである〈汝〉の中心的な現存、というよりもっと正しく言うなら、現在の中に受け容れられる中心的な〈汝〉なのである。
(4)
根源語〈我‐其〉は、物質が悪でないのと同じように悪ではないが、不当にも現存者であるかのように振る舞えば、物質が悪になるのと同じように悪となる。もし人間がそれに支配を委ねるなら、絶え間なく増大する〈其〉の世界は人間を覆い尽くし、生得の〈我〉は現実性を失い、ついには彼にのしかかる夢魔と彼の中の幽霊とが、互いに自分たちの救いのなさを告白し耳打ちするに至るのである。




