↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新訳 我と汝  作者: マルティン・ブーバー
PR
26/28

第2部 (2)

 人間的な告知をする精神とは、自分の〈汝〉に対する人間の応答である。人間が語る媒体は多くある。言語という媒体、芸術という媒体、行為という媒体。しかし精神は一つであり、それは神秘の中から出現し神秘の中から呼びかける〈汝〉への応答である。精神とは言葉である。そして言語による発話は確かにまず人間の脳の中で言語化され、そのあとその喉において発音されるとはいえ、それでも両者は真の事象の屈折に過ぎない。実はつまり、言語が人間の中に潜んでいるのではなくて、人間が言語の中に生きて立ち、そこから語るのだ。あらゆる言葉がそうであり、あらゆる精神がそうである。精神は〈我〉の中にあるのではなく、〈我〉と〈汝〉との間にあるのだ。精神は君の中を循環している血液のようなものではなく、君が呼吸する空気のようなものだ。人間は、自分の〈汝〉に応答することができるとき、精神の中に生きている。人間は、あらゆる存在者と関係に入るとき、精神の中に生きることができる。人間は自分の関係力によってのみ、精神の中に生きることができるのである。

 しかしここにおいて、関係事象の運命が最も強力に頭をもたげてくる。応答が力強ければ力強いほど、その応答はますます力強く〈汝〉を縛りあげて対象へと呪縛する。〈汝〉への沈黙、あらゆる媒体の沈黙、無形の未分化な媒体以前の言葉における黙された待望だけが、〈汝〉を自由にさせ、精神が表明されずに存するだけの抑制状態の中で〈汝〉とともに生きて立つ。あらゆる応答は〈汝〉を〈其〉の世界に閉じ込める。これは人間の憂鬱であり、人間の偉大さである。何故ならこのようにして〈汝〉は生ある者たちの中心で認識となり、作品となり、絵画や模範となるからである。

 だがこのようにして〈其〉に変わった、諸事物の中の事物に凝固して存するものは、繰り返し〈汝〉となって甦るという性向と規定を内に秘めている。精神が人間に働きかけてその中に応答を産み出したように、〈其〉は精神の時間の中で繰り返しそのように云われてきた。繰り返し対象化されたものが現存となって燃え上がり、〈其〉が生じてきた元素世界に立ち寄り、人間によって現存的に見られ生きられるべきである。

 こうした性向の、こうした規定の成就は、経験し利用するものとして〈其〉の世界に満足してきた人間によって無に帰せられてしまう。そうしてこのような人間はその中に閉じ込められているものを、解きほどく代わりに押さえつけ、眼を向ける代わりに観察し、受け容れる代わりに利用するのである。

 認識とは、向かい合うものに視線を向けることで、その本質が認識する者に明らかになることである。確かに認識者は現存するものとして見たものを、対象物として把握し、諸対象物と比較し、対象系列に組み入れ、客観的に記述し分析しなければならないだろう。ただ〈其〉としてのみ、それは認識の存続に入り込むことができるのだ。しかし見ることでそれは、諸事物の中の事物ではなく諸事象の中の事象でもなく、独占的に現前していたわけである。その本質は、そのあとで現象から導き出された法則の中にではなく、現象そのものの中で自己を打ち明ける。普遍的なことを考えるのは、糸がもつれた諸事件を解きほどくことに過ぎない。何故ならそれはその特殊性において、向かい合うものの中で見られたからである。そしていまやこうしたものは、抽象的認識という〈其〉の形体の中に閉じ込められている。そこからそれを打ち開いて再び現存的に見る者は、人間たちの間で現実化し作用するものとしてのあの認識行為の意味を満たす。しかし人は、〈それゆえそれはそのことでそのような状態であり、その事物はそのように呼ばれ、そのような性質であり、そこに属する〉というふうに確かめたり、〈其〉になったものを〈其〉のまま経験し利用したり、さらには世界に〈通暁〉し次いで世界を〈征服〉しようと企図するのに合わせて役立てるよう認識を行なうこともできるのである。

 芸術もそうである。向かい合うものを見ることで芸術家に形体が明らかになる。彼はその形体を造形物へと呪縛する。造形物は神々の世界ではなく、人間たちのこの広大な世界に存する。人間の眼がそれにふりかからなくても、確かにそれは〈そこに〉ある。だがそれは眠っているのだ。中国の詩人が語っている。彼が自分の翡翠石笛で奏でた歌を人々は聞こうとしなかった。そこで神々に向かって歌を奏でたら、神々は耳を傾けた。それ以来人々も歌に耳を傾けるようになった、と。そこで彼は神々のところから、造形物がなくては済まされない人々のところに行ったのである。造形物は夢の中でのように人間との出会いを伺い、時間を超越した瞬間を求めて人間が呪縛を解き形体を包み込むことを待ち望んでいる。そうしてそこへ人間がやって来て、経験し得ることを経験する。それはこのように作られているとか、このことがその中に表現されているとか、その特質はこのようなものだとか、その上さらに、それはいかなる等級を占めるとか。

 学問的・美学的理解が必要でないというわけではない。しかしその作品について理解を超えたものに誠実に取り組み身を沈めることで、取り囲む関係の真理が理解可能になるのである。

 そして、認識の精神や芸術の精神より上に高められた第三のものがある。というのは、ここで移ろいやすい身体をもった人間は、自身をもっと永続的な素材だと思い込む必要がないからだ。それどころか自らが造形物としてそうした素材よりも永続的であり、自分の生きた発話の音楽に奏でられ、精神の星空へと昇っていくからだ。これは純粋な作用であり、恣意ではない行為である。このときさらに深い神秘の中から人間に現れた〈汝〉は、暗闇本体から人間に語りかけたのであり、人間は命を賭けて答えたのであった。ここでは言葉がいくたびも命となっている。そしてこうした命は、それが掟を守って果たしたにせよ掟を破ったにせよ教えであって、双方とも精神がこの世で死なないためにその都度必要なことである。それゆえそうした命はのちの世代の人々に対して、何があるとか何があるべきとかではなく、心の中で〈汝〉と向かい合っていかに生きるかを教えるための教えとして存する。そして言い換えれば、それは彼らに対して常に自ら〈汝〉となって〈汝〉の世界を開く準備をしている。いや、準備をしているのではなく、絶えず彼らに近づいてきて彼らに触れるのだ。しかし彼らは、世界を開け放つ〈汝〉との生きた交わりには気乗りがせず不向きになって、情報を知るのみである。彼らは人を歴史の中に、その発話を書庫の中に取り囲んできた。そして履行されたことも破棄されたことも、同じように法典に編纂してきた。現代の人間にふさわしく、彼らは充分に心理学を一緒に混ぜ込んで、崇拝そして尊崇さえも惜しむことがない。おお、孤独な、暗闇の中の星のような風貌よ、おお、無感動な額の上の命ある指よ、おお、次第に消えていく足音よ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。