第2部 (5)
――しかしそもそも、現代人の社会生活は必然的に〈其〉の世界に埋没させられてはいないか? 経済や国家が現今のような規模で現今のような完全なものになると、あらゆる〈直接性〉を卓越して放棄するより他の基盤、そう、こうした領域自体に由来する機関でない、その都度〈よそよそしい〉ものを怯まずきっぱり拒否するという基盤の上に、こうした生活の二つの部門があり得るだろうか? そしてそれを経験し利用する〈我〉がここの支配者で、経済において財産や業績を利用し、政治において意見や動向を利用するものだとすれば、この二つの周辺にある巨大で〈客体的な〉産物の広範で強固な構造は、まさしくこうした〈我〉の無制限な支配に負うているのではないか? 指導的政治家や指導的経済人の造形的な偉大さは、彼が関わり得る人々を、経験不可能な〈汝〉の担い手としてではなく、彼らの特別な権能のもとで算出し利用することが肝要である業績や動向の中心として見るということ、まさしくそのことに結びついているのではないか? もし彼が〈彼〉+〈彼〉+〈彼〉と加算して〈其〉をひとつ作る代わりに、更なる〈汝〉の他には決して何も生み出しはしない〈汝〉と〈汝〉と〈汝〉の総和を引き出そうとしたならば、彼の政治的または経済的な世界は彼の上に崩れ落ちてしまうのではなかろうか? これは育成的な名人芸を場当たり的な素人芸と取り違え、明晰な理性を蒙昧な熱狂と取り違えることを意味しはしないか? そして我々が統治者たちから離れて被統治者たちのほうを見やるならば、労働の近代的方式と所有の近代的方式とにおける発展自体が、向かい合う者との生の、つまり意味深い関係の各痕跡をほとんど消し去っていないか? だからといってこうした動きをもとへ戻そうとするのは馬鹿げていよう。もしその馬鹿げたことが成功するならば、途方もなく膨張した人類の生をもっぱら可能にしている、この文明の途方もない精密機械は、それと同時に破壊されていよう。
――演説家よ、君の演説は遅すぎる。ついさっきなら君は自分の演説を信用することができただろうけど、今となってはもうそれはできない。何故ならつい先ほど、君は私と同じく、国家がもはや操縦されるものではないことを見たからである。火夫たちはまだ石炭を積み上げてはいるが、運転士たちは次々に暴走していく機関車をかろうじて操縦しているように見せかけているにすぎない。そしてこの刹那、君が演説している間に、経済の推進装置が異様な音で唸り始めるのを、私と同じく君も聞くことができる。装置の機関士たちは悠然と君に微笑みかけるが、彼らの心には死が潜んでいる。自分たちは装置を情勢に適合させたのだ、と彼らは君に言う。しかし君は気づいているのだ。今後はあくまで装置の許す限り、彼らが自身を装置に適合させていくことができるにすぎないことを。彼らの代弁者たちは、経済が国家の遺産を相続するのだと君に教示する。だが君は知っているのだ。相続するのは蔓延していく〈其〉の専制より他に何もなく、その専制のもとで、克服する力をますます弱めた〈我〉が相変わらず自分が支配者であると夢見ているということを。
人間の社会生活は人間自身と同様、〈其〉の世界なしでは済まし得ない。――だが同時に〈其〉の世界の上には〈汝〉の現在が、水の上の霊魂のように漂っている。人間の利用意思や権力意思は、人間的な関係意思につなげられていてそれによって担われる限りは、自然で正当なものとして作用する。本能がその本性から分離するのでなければ、悪い本能など存在しない。本性につなげられそれによって決定される本能は、社会生活の原形質である。分離した本能が社会生活の解体なのだ。利用意思の住み処たる経済や権力意思の住み処たる国家は、精神に関与している限りは生に関与している。それらが精神からの離反を宣誓するなら、それはすでに生から離反してしまっている。生命がその役目を終えるのはもちろん時間に委ねられていて、もうとっくにある歯車装置が回転しているのに、かなりの間ある形象がまだうごめいていると錯覚することがある。そこにいくらか直接性を導入しても、実際のところ救いようがない。 精密化した経済もしくは精密化した国家を弛緩させても、それらがもはや〈汝〉に語りかける精神の優位のもとに立っていないことは埋め合わせようがない。外縁を掻き回したぐらいでは中心との生きた関係を補うことはできないのだ。人間の社会生活の産物は、その諸要素に浸透している関係力の充溢によってその生命を有し、精神の中でこの力が結合していることでその血肉化した形体を有する。その精神に忠実な政治家あるいは経済人が物好きだということではない。彼が関わり得る人々に〈汝〉の担い手たちとして立ち向かえば、必ず彼の事業を無にしてしまうことを確かに彼は知っている。にもかかわらず敢えてそうするが、ただしまさにひたすらそうするのではなく、すなわち精神が彼に吹き込む限界までである。そこでは精神が彼に限界を吹き込むのだ。またその冒険は、分離された形象だったらそれを破砕していたであろうが、〈汝〉の現存によって担い手たちが漂っていた形象の中では成功する。彼は夢中になったりはしない。彼は真理に、理性を超えてはいるが理性を追い出さないで内奥に保持している真理に貢献するのだ。彼が社会生活においてなすことは、〈汝〉を純粋に実現することが自身ではおそらく不可能と知りつつ、それでも日々〈其〉に接しながら〈汝〉の存在を確かめ、その日の道理と尺度にもとづいて、日ごと新たに境界を引いていく――境界を発見していく人間が、個人的な生活においてなすことと異なるものではない。労働や所有もそうで、それ自体によって救済するものではなく、ただ精神によってのみ救済される。精神の現存からのみ、あらゆる労働には意義と歓喜とが、あらゆる所有には畏敬と犠牲力とが、溢れそうなほどではないが充分な量で流れ込み得る。――あらゆる労働成果とあらゆる所有物は、〈其〉の世界に捕われたままではあるが、向かい合うもの、〈汝〉を具現するものとして輝かしいものになり得る。労働や所有もそうで、それ自体によって救済するものではなく、ただ精神によってのみ救済される。精神の現存からのみ、あらゆる労働には意義と歓喜とが、あらゆる所有には畏敬と犠牲力とが、溢れそうなほどではないが充分な量で流れ込み得る。――あらゆる労働成果とあらゆる所有物は、〈其〉の世界に捕われたままではあるが、向かい合うもの、〈汝〉を具現するものとして輝かしいものになり得る。後ろへの逆戻りは存しない。最も深い困苦の瞬間にもなお、いや、その中でこそ初めて、事前には予想外だった先への乗り越えが在るのである。
国家が経済を規制しようと、あるいは経済が国家に委託しようと、両者に変化がない限り、重要ではない。国家の組織がより自由に、経済の組織がより公正になるかどうかが重要なのだが、真の生命についての問いに関しては、ここでは問われない。組織はそれ自体では自由にも公正にもなり得ないのだ。〈汝〉に語りかける精神、応答する精神が現実に生きてあり続けるかどうか、さらに精神について人間の社会生活にはめ込まれたものが今後も国家や経済に隷属させられたままか、それとも独自に作用するようになるかどうか、さらに精神について人間の個人的な生活に持ちこたえられるものが再び社会生活に融合するかどうか、これが決定的である。社会生活が互いに影響されない諸領域に分割され、精神的生活もこれに属するならば、社会への精神の関与はむろん行なわれないであろう。これはつまり、〈其〉の世界に埋没させられた諸領域が〈其〉の専制に決定的に委ねられ、精神を再びすっかり非現実化してしまうことを意味するしかないだろう。何故なら生の中へ独自に働きかけるのは精神自体では決してなくて、世界に関わってであり、その〈其〉の世界に浸透していってそれを変容させる勢いによってである。精神は、精神に開かれた世界に立ち向かい、世界に自己を捧げ、世界を、そして世界に関わって自己を救済することができるのであれば、真に〈自己のもとに〉にある。こんにち精神を代行している、散乱・衰弱・悪化し矛盾に貫かれた精神性は、再び精神の本性に、〈汝〉と言えることに帰着するならば、むろん初めてこれが可能になるだろう。




