第1部 (28)
人間は〈汝〉に接して〈我〉となる。向かい合うものが現れては消え、関係的出来事が濃密化しては飛散する。そしてその交替のたび次第に成長しつつ、〈汝〉の不変の相方であるという意識、〈我〉の意識が明らかになってくる。確かにそれはまだ、〈汝〉を得ようとしていて〈汝〉でないものという、識別可能事物として関係の織物の中に、〈汝〉への関わりの中に出現してくるに過ぎない。しかしそれがますます強い力で急出現してくると、あるとき一気にその結合が破砕され、〈汝〉に向かい合って立つようにして〈我〉が一瞬、剥ぎ取られた自分自身を掴む。するとただちに自身のことを所有物と捉え、そのあと自身を意識しつつ関係の中に歩み入ってくるのである。
するといまや初めて、もう一つの根源語が組み立てられ得る。何故なら、確かに関係の〈汝〉はこれまで繰り返し色あせたが、それをもって〈汝〉が〈我〉に対する〈其〉、ある結合性のない知覚や経験の対象になったのではない。それはあとになって生ずることになるのであって、いわば自己に対する〈其〉に、まずは顧慮されざるものであって新しい関係的出来事における復活を待望するものになったのである。そして確かに肉体へと成熟しつつある身体は、その諸感覚の担い手そしてその諸衝動の実行者として周囲世界から自身を際立たせたが、それは自己発見の並存においてに過ぎず、〈我〉と対象との絶対的な分離においてではない。だがいまや剥ぎ取られた〈我〉は変貌へと歩み出す。すなわち実質的な充溢から、ある経験し利用する主体の、機能的な点状性へと収縮し、あらゆる〈自己目的の其〉に手を広げてこれを占拠し、それとともに一体となってもう一つの根源語へと身を置く。〈我〉を意識するようになった人間、〈我‐其〉を言う人間は諸事物の前に立ちはだかり、相互作用の流れの中でそれらと向かい合うことはなくなる。客体化の拡大鏡でもって個々のものの上に身をかがめて覗き込み、あるいは客体化の双眼鏡でもって一体化して配置された景色へと個々のものを見遣り、それを観察して専一感情なしに孤立させたり、あるいはそれを観察して世界感情なしに結びつけたりする。前者は関係においてのみ、後者は関係からのみ見出し得るのだが。いまや初めて彼は諸事物を諸特性の総和として経験する。確かに諸特性は、その想起される〈汝〉に付随するあらゆる関係体験からその記憶に残ってはいたが、いまや初めてその諸特性からなる諸事物が彼に立ちはだかる。もっぱら関係の記憶から、この人間の流儀にそれぞれ応じて夢想的または形像的または思索的に、あらゆる諸特性を内包しつつ強力に〈汝〉の中で明らかになったその核を、その実体を彼は補う。だがいまや初めて彼は諸事物をある空間的・時間的・因果的連関に置くのでもあり、いまや初めてそれぞれがその場所、その経過、その測定可能性、その制約性を蒙る。〈汝〉は確かに空間の中に現れはするが、それはまさしく独占的に向かい合うものがいる空間の中であり、そこでは他のすべてはそこから〈汝〉が浮かび上がってくる背景に過ぎず、その境界やその尺度ではあり得ない。〈汝〉は時間の中に現れはするが、それはそれ自体が充実した出来事の生じる時間であり、ある絶え間なく区分される連続体の構成部分としてではなく、純粋に集中的な次元がその出来事自体から決定可能な、ある〈経過時間〉の中で生きられる。〈汝〉は作用しつつ同時に作用を受けるものとして現れるが、原因惹起の鎖にではなく、〈我〉との相互作用の中で事象生起の初めにして終わりであるものにはめ込まれている。秩序づけられ得るのは〈其〉のみであるということ、これは人間的世界の根本真理に属する。諸事物は我々の〈汝〉から我々の〈其〉になることによって初めて、秩序化可能となる。〈汝〉は秩序化の体系など知らないのである。
しかし我々がここにまで言い及んでくると、もうひとつ述べることも必要になってくる。そうでなければ、こうした根本真理の一片は無用の断片に過ぎなくなってしまう。それは、秩序づけられた世界は世界秩序ではないということである。世界秩序を現在のものとして目の当たりにするような、沈黙の底から生じてくる瞬間が在る。そのとき束の間その調べを聞きとるのだが、その調べの解しがたい楽譜が秩序づけられた世界である。こうした瞬間は不滅であり、かつ最も過ぎ去りやすい。その瞬間の内容は保持され難い。しかしその力は被造物界と人間の認識の中に入り込み、その力の輝きが秩序づけられた世界に達し、繰り返しそれを溶かし込む。これは個人の歴史にも種族の歴史にも当てはまるのである。




