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新訳 我と汝  作者: マルティン・ブーバー
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第1部 (27)

 未開人の生活、我々はそれを完全に解明し得たとしても、実際の原始人の生活を比喩的に描写することができるに過ぎず、双方の根源語の時間的な関連をしばし我々に垣間見させてくれるに過ぎない。より完全な学識は、子供から我々は授かる。

 根源語〈我‐汝〉の精神的実体は自然的な結合から、根源語〈我‐其〉の精神的実体は自然的な分離から、つまり根源語の精神的実体は自然的な実体の一方から生じるということが、ここにおいて包み隠さず明らかになる。

 子供の出生前の生は純粋な自然的結合、相互流出入、肉体的な相互作用である。この場合、生じつつある存在者の生活地平は、比類なき在り方で支えとなっているそれ自体に刻み込まれてはいるが、それでも他方では刻み込まれていないようにも見える。何故ならその生は、人間たる母親の胎内にばかり安らっているわけではないからである。こうした結合はきわめて宇宙的であり、ユダヤ神話の文言で「人間は母胎内で全てを知り、出生において全てを忘れる」と云われているのも、それは太古の碑文の不完全な解読のように思わせるほどである。そしてこうした結合は、まさしく密かな願望像としていつまでも人間に残っている。回帰願望を人間の憧れであるかのように考えてはならぬ。そのように思い誤るのは、精神を自分の知性と取り違えて、その中に自然の寄生生物を見てしまうのと同じである。精神とはむしろ自然の――むろん様々な病にさらされているに過ぎない――花である。それどころかそうした憧れは、真の〈汝〉によって精神への途に出た存在者が宇宙的な結合へと向かうものなのである。

 生まれつつある人間の子供はすべて、全ての生まれつつある存在者と同じく、未分化で前形体的な原世界という、大いなる母の胎内に安らっている。そこから離れて子供は個的生活へと入っていく。そして暗闇の数時間だけわずかに我々はそこから滑り出て(むろんこれは夜な夜な健康な身にも生じる)、再びそうした原世界に近づく。しかし個的生活からの分離は、肉体としての母からの分離のようには、急激かつ破局的に生じるのではない。失われつつある世界との自然的結合を関係たる精神的結合に取り換えるのには、人間の子供は猶予期間を与えられている。子供はカオス(混沌)の灼熱する暗黒を出て冷やかで明るい被造物界へと入ってきたが、被造物界はまだ彼のものではない。彼はそれをまずまさしく本当に引き出して現実に向かわねばならず、自己の世界を看取し、その声を聞き取り、手探りで探し、創り出していかなければならない。被造物界は出会いにおいてその形体性を明らかにする。それは待ち構える諸感覚の中に注ぎ込むのではなく、あれこれ食い込んでくるものに向かい合って持ち上がってくる。成熟した人間の周囲にはいつもながらの対象として戯れ動くだろうものを、生まれつつある者は求愛し、努力して獲得しなければならない。いかなる事物もある経験の存立要素ではなく、いかなるものも向かい合うものと相互に作用する力においての他に明らかになることがない。未開人と同じく、子供は眠りと眠りとの間に(子供においては目覚めているときの大部分もまた眠りである)、出会いの閃光と反閃光との中に生きるのである。

 関係志向という根源性は、最も幼く最もおぼろげな段階においてすでに姿を現している。個々のものが知覚され得る以前に、その視力の乏しい眼差しはまだ明確でない空間に、まだはっきりしないものに襲いかかる。そして明らかに食への欲求が存しないときには、見たところ当てもなく柔らかな両手の原形を虚ろな空中に差し伸べ、まだはっきりしないものを探し求める。何ならこれを動物的と呼んでも構わないが、それでは何も理解していない。何故ならまさにこうした眼差しは、長期にわたる試みのあと、ひとたび赤い壁紙のアラベスクの上にはり付けいてとどまるや、赤の精霊がそこに現れてしまうまでは逸らされることがないだろうからである。まさにこうした動作は、毛むくじゃらのクマ人形に触れてその感覚上の形式と確実性を獲得し、無欠の身体を愛おしく忘れがたく知覚するだろうからである。両者はいずれも対象物の経験ではなく、生き生きと働きかけてくる相手との対決――むろん〈空想〉においてのみだが――である。(しかしこうした〈空想〉は決して〈万物霊有化〉ではない。それは万物を〈汝〉にしようとする衝動、万物関係化への衝動であり、そこに生き生きと働きかけてくる相手がいなくてその単なる模写または象徴が与えられているなら、その固有の充溢により生き生きとした働きかけを補うものである。)小さく不明瞭な声が無意味に根気よく無の中にまだ響きわたっている。しかしまさにその声がある日突然、会話になっていることであろう。いったい何との? ひょっとするとそれは、ぐらぐら沸き立つ紅茶ケトルとの会話かもしれない。反射と呼ばれている多くの動作は、人格の世界構築の際の丈夫な左官ごてである。子供は決して、最初に対象を知覚してそのあとに自己をそれに関係させるわけではない。そうではなく関係志向が最初で、丸く膨らんだ手、その中に向かい合うものが寄り添う。こうしたものへの関係、〈汝〉を語る言葉なき前形体、これが二番目。事物化はのちの所産で、〈我〉の生成と同じく、原初体験の分裂、結合し合っていた相手との分離から発したものである。初めに関係がある。存在者のカテゴリーとして、下準備、把握する形式、心の鋳型として。関係の先験性が、生得の(・・・)〈汝(・)〉が(・)あるのである。

 体験される関係とは、出会うことによる生得の〈汝〉の現実化である。これが向かい合うものとして把握され、独占性の中に取り込まれ、最後に根源語でもって話しかけられるようになり得るということは、関係の先験性に基づいている。

 接触本能(ある他の存在者にまず触覚的に、次いで視覚的に〈接触〉しようとする本能)においては、生得の〈汝〉がいち早く影響を及ぼしている。その結果、それは常に〈情愛〉という相互性のことを意味することが明らかになる。しかし、もっとのちに始まる創始本能(総合的なやり方で物品を製作しようとする本能、あるいはこれがあり得ないなら、分解、離間による分析的なやり方での物品製作本能)も生得の〈汝〉によって決定されるので、その結果、被造物の〈擬人化〉が、〈会話〉が生じる。子供における魂の発育は〈汝〉を欲求していく発育過程と、こうした欲求の充足や失望と、彼のさまざまに試みる戯れや難渋したときの悲壮な真剣さと、分かちがたく一体となってつながっている。こうした諸現象の真の理解は、それらを狭い諸境域に帰するような試みを介してはいずれにおいても損なわれ、それらの観察や論究に際してその宇宙的・両世界間的な源泉が銘記されたままであるときにのみ促され得る。それは未分化で前形体的な原世界からの脱却であり、そこから確かに子供はすでに世界の中に肉体的な個体として生まれてはいるが、まだ身体的で現実化した、世界のほうへ完全に入ってきた存在者ではなく、そこから子供はむしろまず徐々に、まさしく関係に入っていくことを通じて離脱していかなければならないのである。

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