第1部 (24)
二つの根源語の間における根本的な相違は、原始人の精神史において露わになる。原始人はすでに原初的な関係的出来事において、すなわち自己を〈我〉として認識する以前に、根源語〈我‐汝〉を、素朴でいわば前形体的な在り方で語っている。それに対して根源語〈我‐其〉は、総じてこうした認識を通じて、〈我〉の剥離を通じて初めて可能となる。
一番目の根源語は〈我〉と〈汝〉とに分解することはできるが、これは両者の統合から生じたものではなく、〈我〉に先行したものである。二番目の根源語は〈我〉と〈其〉との統合から生じたものであり、こちらのほうは〈我〉に後続するものである。
原始人の関係的出来事には、その独占性を介して〈我〉が含まれている。そのことにより、すなわちその本性により、人間とその向かい合うものという相方同士だけが完全な現実をもたらし、彼の中の世界が二重の構造になることによって、その中にいる人間はすでに、自分ではまだ〈我〉のことを感得することなく、あの宇宙的な悲壮性を感じ取るのである。
それに対して、自己中心的な経験である根源語〈我‐其〉へと移行することになる自然の事象においては、〈我〉はまだ含まれていない。こうした事象は、諸感覚の担い手としての人間の身体がその周囲世界から乖離することである。身体はこうしたその特異性において自己を認知し識別することを身につけるが、その識別は全く並存したままであり、それゆえ内に秘められた〈我〉ということの特性を考え合わせることはできない。
しかし、もし関係の〈我〉が出現し、分離して存在するようになっているならば、それは珍妙なほど希薄化・機能化して、身体がその周囲世界から孤立しているという自然な事象にも入り込み、その中で〈我〉ということを呼び覚ます。今や初めて自覚した〈我〉の行為が、根源語〈我‐其〉の、自己中心的な経験の最初の形体が生じ得る。こうして出現した〈我〉は諸感覚の担い手として、周囲世界をその対象とすることを表明する。むろんあくまでもこれは〈原始的〉な形で生じるのであって、〈認識論的〉な形で生じるのではない。しかし〈私は樹木を見る〉という文が初めて発話されるなら、もはや彼は〈我〉という人間と〈汝〉という樹木との間の関係を物語っているのではない。そうではなく人間の意識を通じて樹木という対象を知覚していることを確かめているのであり、すでに主体と客体との間に障壁を打ち立てているのであって、分離の言葉である根源語〈我‐其〉が語られているのである。




