第1部 (23)
初めに関係がある。
まだ対象に乏しいが、その生活自体が狭い範囲で強現存的な諸行動を築き上げている〈原始人たち〉、つまりかの諸民族の言語を観察してみる。こうした言語の諸細胞核、文状単語(文としての機能を有する単語)、前文法的な原始構文は、その爆破的分裂から諸品詞の多様性が生じるのだが、それらはたいてい関係の全体性を示している。我々が〈遠く離れて〉と言うのをズールー人(アフリカ大陸南部の原住民)はそれに代わって、〈「おお母さん、おれは迷子になったよ」と人が叫ぶところに〉ということを意味する文状単語をひとつ言う。フェゴ島民(南アメリカ大陸南端のフェゴ島の原住民)は、七音節の文状単語ひとつで「人がそれぞれ互いに、双方とも望んではいるが自分がしたくないことを、相手がすると申し出るのを期待しながら見つめ合う」という精密な意味を表現し、我々の分析的見識を凌駕している。名詞的及び代名詞的な諸個人は、まだ浮き彫り的な萌芽があるだけで円熟した独立性はなく、こうした全体性の中に埋没している。それは分析や熟慮の所産によって生じるのではなく、真の根源的統一性、生き生きした関係によって左右されるものである。
我々は出会った人に挨拶するとき、善きことを願うとか、忠誠を誓うとか、神の祝福を勧めるとか言ったりする。しかしこうした忌まわしい決まり文句(そうしたことを、もともとは原始的な力の付与のことであった Heil! (ごきげんよう!)から人はいまだに感じ取る)は、カフィール人(ズールー人と同じくアフリカ大陸南部の原住民)の〈私はあなたが見えますよ!〉とか、アメリカ原住民の滑稽ではあるが洗練された〈私のにおいを嗅ぎなさい!〉といった永遠に若々しい身体的関係性の挨拶に比べると、いかにも間接的である。
さまざまな名辞や概念そのもの、個人や事物の諸表象もまた、関係事象や関係状態の諸表象から分離してきたと推測してよい。〈自然人〉の原初的で精神を呼び覚ます印象や興奮は、自己と向かい合うものを体験するという関係事象と、自己と向かい合うものとともに生をいとなむという関係状態から生ずるものである。夜ごと見る月が、眠りのときでも目覚めているときでも、肉体的なものとして彼に近づき、素振りで彼を魅了し、あるいは辛苦・甘美いずれにせよ、接触によって何か苦痛を与えたのでなければ、そんなものに思いを馳せたりはしない。そこから原始人は、例えば運行する満月の光学的表象でも、それに何らかの形で付随する悪魔的な存在者でもなく、まず第一に動的なものだけを、あの月の作用によって身体を貫き流れる〈刺激心像〉を保持する。その中から作用する月の擬人化像が初めて徐々に分離していく。すなわち今や初めて、夜ごと刻み付けられた不可解な記憶が、あの作用の行為者であり運搬者であるという表象へと発火し、そして本来は経験不可能でただ一様に受け取られてきた〈汝〉が〈彼〉または〈彼女〉となることを可能にして、その対象化が始まるのである。
こうした始原的で長く作用し続ける関係特性、あらゆる本質的現象の関係特性からは、現在大いに注目され論議されている研究も生じている。そのことで、まだ充分には理解されていない原始的生の霊的な要素も理解しやすくなる。あの神秘に満ちた力の概念は、多くの未開民族の信仰あるいは知識における幾種類もの変容形(両者はここではまだ一体のものである)の中に見出されてきた。あのマナ(メラネシアなど太平洋諸島で信仰されてきた超自然的・神秘的な力のこと)やオレンダ(北米インディアンの間で信仰されてきた超自然的・神秘的な力のこと)から、本来の意味でのブラフマン(古代インド哲学またはヒンドゥー教における宇宙の根本原理のこと)に至るまで、そして魔術パピルス文書(古代ヘレニズム世界で書かれた魔術文書のこと)や使徒書簡(パウロなど原始キリスト教の宣教者が書いた書簡で新約聖書に収録されている)におけるディナミス(「力」を意味するギリシャ語)やカリス(原始キリスト教で「神の恵み」を意味するギリシャ語)に至るまで、一本の道が通じている。それを一種の超感覚的・超自然的な力だと称してきたが、両者は我々のカテゴリーからくるもので、それは原始人たちのカテゴリーには適合しないだろう。原始人の世界は身体的に体験されたことに限られていて、例えば死者の来訪などもまったく〈自然に〉その体験の一部になっている。体感されないものを存在するものとして受け容れることは、原始人には無意味なことに思えるに違いない。原始人が〈神秘的力〉に帰している諸現象は全て原初的な関係事象、すなわち総じて、彼の肉体を興奮させ彼の中に刺激心像を残していくがゆえに原始人が思いを寄せる諸事象である。夜になると苦痛あるいは歓喜とともに彼を悩ませる月や死者はかの力を有するが、彼の肌を焼く太陽や吠える動物、一睨みで彼を従わせる酋長や、歌うことで狩りに出かける彼に力を授けるシャーマン(北東アジアなどで霊的存在と交信する能力があるとされる職能人物のこと)などもそうである。マナとはまさに、天空の彼方にある月の擬人化物を血を沸き立たせる〈汝〉につくり変えたもの、そうした作用のことである。そしてその記憶の痕跡は、その刺激心像から対象像が剥がれ落ちた際にとどまった。ただしマナ本体は、作用の行為者や運搬者として以外には決して出現することはない。こうしてマナは、それによって人が、もし人がそれを例えば一個の不可思議な石に所有するならば、自らも同じような力を発揮することができるものとなる。原始人の〈世界像〉が魔術的なのは、人間の魔術力がその世界像の中心にあるからではなく、この力が全ての本質的作用が由来する普遍的な力の、特殊な一変種に過ぎないからである。彼らの世界像の因果律は連続体ではなく、常に新たな煌めき、力の疾走と自己産出、脈絡のない火山的な運動である。マナは原始的な抽象で、例えば数よりおそらくずっと原始的だが、数ほど超自然的ではない。記憶は自己を訓練していくうちに、大きな関係的出来事、原初的な諸感動を相互に分類して並べるようになる。自己保存本能にとって最も重要なものや認識本能にとって最も奇妙なことなど、まさしく〈作用者〉なるものは最も強く想起され、際立っていき、独立していく。それほど重要でないもの、共通性のないもの、変容しやすい諸体験の〈汝〉は後退し、記憶の中で分離したままとなり、徐々に対象化され、極めて緩慢に諸グループへと、種類ごとに統合していく。そして第三のものとして、それが剥離して ぞっとするような、ときには死者や月よりもさらに妖怪めいた、しかし常にさらに避けようのないほど明瞭に、もうひとつの〈不変の〉相方である〈我〉が起き上がってくるのである。
他の諸本能と同じく、〈自己〉保存本能という原初的な働きに〈我〉の意識は付着していない。その場で繁殖することを願うのは〈我〉ではなく、まだ〈我〉について知らない肉体である。道具や玩具などの諸物品を作って〈創作者〉であろうとするのは、〈我〉ではなく肉体である。そして原始人の認識機能においても、それがどれだけより素朴な形体であったとしても、一主体が経験する観念としてその形体がどれだけ子供じみたものであったとしても、〈われ認む、ゆえにわれ在り〉ということ(フランスの哲学者デカルトが考え出した「われ思う、ゆえにわれ在り」と同様の根本原理)は見出し得ない。原初体験の分裂、〈我に働きかける汝〉そして〈汝に働きかける我〉という生気にあふれた原初語の分裂から、名詞化、つまり分詞の具体化のあとに、元祖的に〈我〉が出現するのである。




