第1部 (22)
しかし我々の世界におけるそれぞれの〈汝〉が〈其〉にならなければならないということ、これは我々の運命の高貴な憂鬱である。直接の関係において〈汝〉が独占的に現前していたとしても、関係自身が作用し終えるか、あるいは間接的手段が混入してくるや否や、〈汝〉は諸対象の中の対象、例えば最も崇高ではあるが、基準と境界とに据えられた諸対象のうちの一つになってしまう。作品においてその実現は、別の意味で一つの現実喪失を表す。純粋な直観はごく束の間である。相互作用の神秘の中でたったいま私に打ち明けられた自然存在者は、いまや再び記述可能、分析可能、分類可能となって、多様な法則群の交点となる。そして愛ですら直接の関係の中でも保持され難い。愛は持続するが、それは顕在と潜在との交替においてである。たった今まで唯一掛替えのない、持ち合わせていたのでなくただ現前していた、経験可能でなく触れられるのみだった人間が、いまや再び〈彼〉または〈彼女〉、諸特性の総体、形状のある数量となっている。いまや私はその人から再びその髪の色、その話し方、善意の在り方を取り出すことができる。しかし私がそうし得る限り、その人はもはや私の〈汝〉ではなく、もう再び〈汝〉になることもない。
この世のあらゆる〈汝〉はその本性により事物となるか、あるいは少なくとも繰り返し事物性の中に入り込むように定められている。客観的な表現で言うならば、この世のあらゆる事物はその事物化の以前か以後のいずれかに、ひとりの〈我〉に対しその〈汝〉として現れる。しかし客観的な表現というのは、現実の生の突端をひとつ垣間見ているに過ぎない。
〈其〉は蛹であり、〈汝〉は蝶である。ただし、いつも明確にお互いが交替する状態にあるのではなく、しばしばもっと深い二様性において複雑に絡み合った事態になっているのである。




