第1部 (19)
直接の関係が向かい合うものへの作用を含むことは、先の三つの類例のうちの一つにおいて明白である。芸術の本質行為は、形体が作品になる過程を決定する。向かい合うものは出会いを通じて満たされ、出会いを通じて諸事物の世界に入っていき、絶えず活動し続けるため絶えず〈其〉となるが、しかし喜びと励ましを与えながら絶えず再び〈汝〉にもなる。〈其〉は〈具現される〉が、その肉体は空間も時間もない現存の流れから存立の岸辺に舞い降りるのである。
人間の〈汝〉に対する関係においては、その作用意義がそれほど明白ではない。ここで直接性が引き起こす本質行為は、通常は感情的に理解されるため誤解されやすい。感情は愛の形而上的及び超心理的事実に伴なうものだが、感情がそうした愛の事実を形成しているのではない。しかもそれに伴なう感情には、非常に様々の種類が在り得る。悪霊に憑かれた者たちに対するイエスの感情は、愛弟子たちに対する感情とは別種のものである。だが愛は一つである。感情は〈所有される〉ものだが、愛は生じるものである。感情は人間の中に宿るが、人間は自分の愛の中に住む。これは隠喩ではなく現実である。愛は〈汝〉を単に〈内容〉として、対象として有するようにして〈我〉に付着するものではない。愛は〈我〉と〈汝〉との間に存するのだ。このことを知らぬ者、その本性でもって知らぬ者は、たとえ体験し、経験し、堪能し、表白する諸感情を愛に組み入れようとも、愛のことを分かっていないのだ。愛は世界における一作用である。愛の中に在る者、愛の中に見る者は、巻き込まれている絡繰りから人間自身を解き放つ。善と悪、賢と愚、美と醜、これらは一つまた一つと現実になり、解き放たれ現れ出た、唯一の向かい合って存する〈汝〉に対するものとなる。独占性が驚くほどいくたびもよみがえり、こうして愛の中に在る者は、活動し、助力し、癒し、育て、高揚せしめ、救済することができる。愛とは〈汝〉に対する〈我〉の責任である。ここにおいては、いかなる感情にも存し得ないような、全ての愛する者たちに通じる均一性が存する。最も小さき者から最も大いなる者に至るまで、そして一人の愛する人間の生の中に自分の生を包まれた、至福にいだかれた者から、終生この世の十字架に打ちつけられながらも、なお人間を愛するという途方もないことを敢えて成し遂げる者に至るまで。
被造物とそれを観照することについての第三の類例における作用意義は、神秘の中にとどまれ。生の素朴な魔力を、全ての生における奉仕を信じよ。そうすれば、被造物があのように待ちこがれ、窺い、〈頭を差し伸べて〉何を望んでいるのかが明らかになる。各々の言葉は欺くかもしれない。しかし見よ、存在者たちは君の周りで生をいとなんでいて、どちらに君が歩み寄ろうとも、君は常に存在者に在りつくのである。




