第1部 (18)
この根本的な二様性は、第三の対立命題克服のものとして〈観念世界〉に調停を依頼しても打開されない。何故なら私は、貴方や私という現実の人間について、我々の生や我々の世界についてのみ語っているのであって、〈我〉自体や存在自体について語っているのではないからである。しかし現実の人間にとっては、本来の境界が諸観念の世界を横にも貫いていく。
むろん、諸事物の世界の中でそれらを経験し利用することで満足する多くの人は、増築あるいは上部構造として諸観念を打ち立ててきており、その中で虚無の襲来にそなえて慰安と安寧とを見出す。彼はその入り口で不快な日常の衣服を脱ぎ捨て、小奇麗なリンネルを身にまとい、彼の生活とは関係のない根源存在とか当為存在とかを一瞥して元気づく。そしてそうしたことを言い広めることで快い気分になるのであろう。
しかし、人が想像したり仮説を設けたり宣伝したりする〈其〉の人間性は、一人の人間が真に〈汝〉に語りかける具体的な人間性とは、何も相通じるものをもたない。どんなに気高くても虚構は呪物崇拝であり、どんなに崇高でも作為心情は悪徳である。諸観念は我々の頭の中に宿らず、同様に我々の頭の上にいささかも君臨することはない。諸観念は我々の間をさまよい、我々に襲いかかる。これに〈我‐汝〉の根源語を語らないままにしておく者も嘆かわしいが、それの代わりに概念とか標語とかがその観念の名前であるかのように、そうしたもので諸観念に呼びかける者も惨めである!




