第3話 料理しかできないおじさん、城で働くことになる
異世界生活二日目の朝、三枝宗一郎は、日の出より少し遅れてアルヴェイン城の厨房に立っていた。
日本にいたころなら、休日のこの時間はまだ布団の中にいた可能性が高い。平日なら目覚まし時計を二度止めた後、そろそろ本気で起きないと電車に間に合わないという現実に追い立てられ、冷蔵庫から作り置きの味噌汁を出していたころである。
ところが今、宗一郎の目の前には、昨夜見たものよりさらに大きな肉の塊が置かれていた。
「これが朝飯なんですか」
「はい」
料理長は、何が問題なのか分からないという顔で頷いた。
名をベルトランというらしい。五十歳前後の大柄な男で、昨日までは宗一郎に対して客人として一歩引いた態度を取っていたが、麦雑炊を作るところを見てから妙に距離が近くなった。
「毎朝です?」
「基本的には。閣下はよく食べられますので」
「いや、よく食べるのはいいんですけど……朝からこれは重くないですか」
肉は牛に似た大型獣の腿らしく、一枚でも宗一郎の手のひらより大きい。それを鉄板で豪快に焼き、塩を振るのがこの城の朝食だという。
さらにパン。
そして野菜。
正確には、「肉の隣に置かれている葉野菜」である。
宗一郎はその葉を指先でつまんだ。
「これ、どうやって食べるんです?」
「そのままです」
「味付けは?」
「必要なのですか?」
「……なるほど」
異世界というのは、魔法や魔物だけを警戒すればいい世界ではないらしい。
食卓にも文化の壁はあった。
「閣下はこの朝食を何年くらい?」
「私がこちらへ仕えてからだけでも十五年ほどは」
「十五年」
宗一郎は額を押さえた。
レティシアが戦場に出る生活をしていることを考えれば、高カロリーな食事自体は不自然ではない。しかし毎朝焼いた肉ばかりで、しかも野菜は飾りに近いとなると話は別である。
「胃、丈夫なんだなあ……」
「閣下は頑健でいらっしゃいます」
「だからって胃袋まで騎士団長みたいに扱っちゃ駄目でしょう」
ベルトランが吹き出した。
「三枝殿は、閣下を恐れないのですな」
「恐れるも何も、昨日知り合ったばっかりですから。それに、怪我した人に朝からこんなの出したら駄目でしょう」
「ですが閣下はこれを望まれます」
「本人が望むものと、食べた方がいいものは別です」
「それを閣下ご本人に言えますか?」
「言いますよ」
宗一郎が即答すると、厨房にいた若い料理人たちが一斉にこちらを見た。
その顔には、勇者を見る敬意ではなく、死地へ赴く無謀者を見る憐れみが浮かんでいる。
「……何です、その顔」
「いえ。どうかご無事で」
「朝飯の話ですよね?」
この城では、食生活の改善が戦争並みの扱いらしい。
宗一郎は朝食の食材をひと通り確認した。
卵、乳、麦、根菜、葉物野菜、燻製肉、数種類の香草。調味料は塩が中心だが、酸味のある果実酢と蜂蜜もある。
思ったより何とかなる。
「じゃあ、今日は肉を薄く切って少なめにして、卵と野菜をつけましょう。パンも軽く焼いて……ああ、この乳ってそのまま飲めます?」
「もちろんです。ただ、今朝搾ったものですので少し温めた方がよろしいかと」
「それならスープにしてみます」
「朝からスープを?」
「朝だからですよ」
ベルトランは、すでに紙と木炭を取り出していた。
「何してるんです?」
「記録を」
「俺、そんな大したことしませんよ」
「昨日もそうおっしゃいました」
「本当に普通の家庭料理なんですって」
「その普通が我々には普通ではない、と昨日申し上げたはずですが」
言い返せない。
宗一郎は仕方なく調理を始めた。
根菜を小さく切り、乳と少量の水でゆっくり煮る。燻製肉は香りづけ程度に使い、塩は控えめにした。野菜には果実酢と蜂蜜を少し合わせ、簡単なドレッシングのようなものを作る。
卵は半熟にしたかったが、森鶏の卵は大きいため火加減が難しい。そこで昨夜より慎重に鍋を見る。
背後ではベルトランが恐ろしく真剣な顔で、宗一郎の手元を観察していた。
「料理長さん、そんな近くで見られるとやりにくいんですが」
「お気になさらず」
「気になりますよ。会社で上司に真後ろから画面を見られてるみたいです」
「カイシャというところでは、料理をする際も監督が?」
「いや、それは別の嫌な思い出です」
宗一郎が苦笑しているところへ、昨日宗一郎を客室まで案内した栗色の髪の少女が駆け込んできた。
「料理長、大変です!」
「どうした」
「閣下がいらっしゃいます!」
「朝食なのだから来るだろう」
「違います、厨房へです!」
ベルトランの顔色が変わった。
「止めろ!」
「無理です!」
「なぜだ!」
「閣下だからです!」
「それはそうだが!」
非常に筋の通った混乱だった。
間もなく、レティシア本人が姿を現した。
昨日の鎧ではなく、濃紺の上着と動きやすそうな黒いズボンを身につけている。脇腹の傷をかばっているのか、歩幅はやや小さいが、寝ていなければならない重傷者にはまったく見えない。
「いい匂いがするな」
「公爵様」
「何だ」
「何でここにいるんです?」
「朝食の時間だからだ」
「食堂で待っててくださいよ。怪我してるんでしょう」
「歩ける」
「歩けることと休んだ方がいいことは別です」
「昨日から、私に随分命令するな」
「命令じゃありません。常識です」
「私の常識ではない」
「じゃあ今日から増やしてください」
レティシアが口を開きかけ、黙った。
背後では、料理人たちが誰一人として鍋を見ていない。
全員が二人の会話に耳を澄ませていた。
「……お前たち、仕事をしろ」
レティシアが振り向く。
途端に全員が散った。
見事な統率力である。
「公爵の威厳、便利ですね」
「お前にも少し分けてやりたいくらいだ」
「いりませんよ。総務に威厳なんて持たせたら誰も相談に来なくなります」
「そのソウムという仕事が、いまだによく分からん」
「俺も二十年やってましたけど、最後までよく分からなかったです」
レティシアが呆れたように笑い、鍋を覗き込んだ。
「今日は何だ」
「野菜と乳のスープ、卵、少しの肉、パンです」
「肉が少ない」
「怪我人なので」
「私は戦場ではこの倍を食う」
「今日は戦場じゃないでしょう」
「腹が減る」
「そのときは昼飯を食べればいいんです」
「昼まで持たなかったらどうする」
「人間は三時間で餓死しません」
「お前は妙に断言するな」
「四十二年間、一応人間やってますからね」
レティシアは不満そうだったが、昨日の納豆ほど警戒するものはなかったらしい。食堂へ戻るよう言うと、今度は素直に従った。
宗一郎は完成した朝食を運び、自分も端の席へ座った。
レティシアの向かいには、副団長のガレスもいる。
「三枝殿もご一緒に?」
「俺も食べないと動けませんから」
「客人ですので、もちろん構いません」
「それよりガレスさん、その『殿』やめません?」
「しかし、閣下の恩人です」
「昨日も言いましたけど、ただの会社員ですよ」
「異世界から来た者を『ただの』と言ってよいものか、私には判断がつきません」
「それは俺も判断ついてないですね」
食事が始まった。
レティシアは最初にスープを口へ運び、しばらく味を確かめるように飲んだ。
「どうです?」
「美味い」
「昨日より反応早いですね」
「昨日学んだ」
「素直なのはいいことです」
「子供扱いするな」
ガレスが口元を押さえた。
「副団長」
「何も申しておりません」
「まだ何も言ってないぞ」
「念のためです」
この城の人々は、主君を恐れているというより、扱い方をよく理解しているのかもしれない。
宗一郎はそんなことを思いながら、自分もスープを飲んだ。
乳の風味は日本の牛乳より濃かったが、悪くない。根菜にも甘みがある。食材そのものはむしろ恵まれている。
「料理長、これなら城でもいろいろ作れますよ」
宗一郎が言うと、ベルトランはなぜか胸を張った。
「食材には自信があります」
「なのに毎朝肉を焼くだけ?」
胸が少し縮んだ。
「……閣下がお望みでしたので」
レティシアが卵を食べながら口を挟む。
「腹に入れば同じだと思っていた」
「料理人の前でそれ言ったら駄目ですよ」
「なぜだ」
「人生かけて飯を作ってる人に失礼でしょう」
レティシアはベルトランを見る。
ベルトランは視線を逸らした。
「料理長」
「はい」
「……不満だったのか」
「滅相もございません」
「では、なぜ目を逸らす」
「長年の習慣でございます」
「どういう習慣だ」
宗一郎は吹き出しそうになり、パンで口元を隠した。
結局、朝食は普段より時間がかかった。
理由は単純で、レティシアが思っていた以上にゆっくり食べたからである。
「野菜も食べてください」
「食べている」
「一枚だけじゃなくて」
「宗一郎、お前は母親か」
「四十二歳独身男性を母親扱いするの、やめてもらえます?」
「では父親か」
「もっと嫌です」
「なら何だ」
「ただのおじさんです」
最終的にレティシアは野菜まできれいに食べた。
そのことにベルトランが妙に感動している。
「閣下が葉野菜を……」
「大げさだ」
「私が十五年仕えて、初めて一皿お食べになりました」
「本当に大げさじゃなかった」
宗一郎は頭を抱えた。
この城の問題は、思ったより根が深いかもしれない。
朝食が終わったところで、レティシアが昨日の話を持ち出した。
「宗一郎。雇用の件だ」
「忘れてませんでしたか」
「私を何だと思っている」
「怪我してるのに厨房まで歩いてくる人」
「そうではない」
レティシアは一度言葉を切り、ガレスへ合図した。
副団長が何枚かの羊皮紙をテーブルへ置く。
「この城で働くなら、衣食住はこちらで保証する。賃金については職務によって決めるが、お前にはこの国で通用する金がないのだろう」
「そうですね。昨日見せた紙幣も使えそうにないですし」
「ならば、しばらくここで働けばよい。帰る方法を探すにしても、金も情報も必要になる」
昨日までの強引な調子とは少し違った。
宗一郎は意外に思った。
レティシアなりに、こちらの事情を考えているらしい。
「ありがたい話ではあります。ただ、問題が一つ」
「言ってみろ」
「俺、この世界の文字が読めません」
ガレスとベルトランが固まった。
レティシアだけは、少し考えてから頷いた。
「そうか。昨日、言葉は通じていたから気にしていなかった」
「俺もです。今朝、廊下にあった掲示板を見て初めて気づきました」
「何と書いてあったか分からなかったのか」
「一文字も」
「では、ソウムは難しいな」
「でしょうね。文書仕事ができない総務は、ほぼ足を一本縛られてます」
「なら料理人だ」
「だから俺は料理人じゃないって言ってるでしょう」
「しかし飯は作れる」
「家庭料理です」
「城の者が喜んでいる」
「昨日と今朝の二回だけですよ」
「料理長」
「はい。ぜひ厨房へ」
「裏切るの早くないですか、料理長さん」
ベルトランは少しも悪びれなかった。
「私は美味い飯を作る者の味方です」
「昨日まで俺のこと客人扱いしてませんでした?」
「今日から同僚になる可能性がありますので」
「順応が早いなあ」
宗一郎は苦笑した。
料理人として雇われるのは違う気がする。
それでも、何もない今の自分に選択肢が多いわけではない。
何より、帰る方法を探すにもこの世界を知らなすぎる。
「じゃあ……仮採用みたいな形にできます?」
「カリサイヨウ?」
「正式に職を決める前に、しばらく働いてみる制度です。俺も何ができるか分からないし、そちらも俺が本当に役に立つか分からないでしょう」
「なるほど」
レティシアはすぐに意味を理解した。
「期間は?」
「まず一か月くらい」
「短いな」
「いきなり一生ここで働けって言われても困りますよ」
「私は別に構わんが」
「俺が構うんです」
ガレスがまた口元を押さえている。
宗一郎は気づいたが、もう放っておいた。
「では一か月。厨房の手伝いをしながら、城の仕事も見てもらおう」
レティシアが言う。
「向いている仕事が見つかれば、改めて決めればいい」
「それなら助かります」
「住居は客室をそのまま使え」
「いや、それはさすがに申し訳ないですよ。働くなら使用人用の部屋で十分です」
「客室でいい」
「でも」
「命の恩人を狭い部屋へ押し込んだとなれば、私の外聞が悪い」
「そういう理由なら……」
「それに近い方が便利だ」
「何がです?」
「飯を頼みやすい」
「結局そこですか!」
レティシアは満足そうに笑った。
こうして三枝宗一郎、四十二歳。
異世界転移二日目にして、職を得た。
役職はまだ決まっていない。
仮採用。
仕事内容も曖昧。
あえて日本語にするなら「とりあえず何でもやる人」である。
「……異世界まで来て、また総務じゃないだろうな」
宗一郎がぼそりと呟くと、レティシアが聞き逃さなかった。
「何でもできるのだろう?」
「何でもできるんじゃなくて、何でもやらされるんです」
「やはり同じではないか」
「違いますって」
その日の午前。
宗一郎は厨房の棚が食材別ではなく、「よく使う物を空いた場所へ突っ込む」という恐ろしい方式で管理されていることを知り、頼まれてもいないのに整理を始めた。
昼前には、割れた皿の数と在庫が合っていないことに気づき、帳簿を読めないにもかかわらず料理長へ確認を始めた。
午後には、厨房の裏口の蝶番が緩んでいるのを見つけ、近くを通った使用人から工具を借りて応急処置をした。
夕方、ガレスが様子を見に来たころには、宗一郎は厨房の隅に積まれていた雑巾を分類していた。
「三枝殿」
「さんでお願いします」
「……三枝さん」
「はい」
「あなたは料理人なのですか?」
「違います」
「では大工でしょうか」
「違います」
「倉庫番?」
「違います」
「何者なのです?」
宗一郎は手を止めた。
二十年近く日本で働き続け、何度となく尋ねられたような気がする質問だった。
「だから、総務です」
「ソウム……」
ガレスは、その単語を初めて恐ろしい魔法の名前でも聞いたように繰り返した。
そして夕食の席で、その報告を受けたレティシアは、しばらく黙ってから言った。
「宗一郎」
「はい」
「明日から厨房だけでなく城内全部を見ろ」
「嫌な予感しかしないんですが」
「人手が足りんと言っただろう」
「言ってましたね」
「お前が何をできるか、試してみる」
「それ、仕事が増える言い方ですよね?」
「安心しろ。賃金も増やす」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「当然だ。働かせた分は払う」
宗一郎は少しだけ目を丸くした。
強引ではあるが、労働をただで当然とは思わない。
そういうところは嫌いではなかった。
「……分かりました。ただし、無茶な仕事は断りますからね」
「例えば?」
「魔物退治とか」
「それは騎士の仕事だ」
「戦争とか」
「それも騎士の仕事だ」
「命がけの任務とか」
「頼まん」
「それならまあ」
宗一郎は少し安心した。
その直後、レティシアは何でもないことのように付け足した。
「まず明日は、城の倉庫を見てくれ」
「倉庫?」
「食料、武具、衣類、建築資材、薬品、飼料などが入っている」
「結構ありますね」
「全部で十二棟だ」
「十二?」
「どこに何があるのか、私も正確には知らん」
「ちょっと待ってください」
「担当者も三人辞めた」
「何で?」
「忙しすぎたらしい」
宗一郎はしばらく黙った。
日本から異世界へ転移した。
勇者にはならなかった。
魔法も使えなかった。
代わりに与えられた最初の大仕事が、十二棟ある倉庫の在庫整理だった。
「……俺、何のために異世界へ来たんだろう」
思わず漏らすと、向かいに座るレティシアはスープを飲みながら実に真面目な顔で答えた。
「少なくとも、今のところは私の城を片づけるためではないか?」
「壮大さが一ミリもない!」
食堂に笑い声が広がった。
宗一郎は頭を抱えながらも、気づけば自分まで笑っていた。
そして翌朝、十二棟の倉庫を前にした宗一郎は、昨日の自分へ言ってやりたくなることになる。
異世界というのは、魔王がいなくても十分に厄介である、と。




