第4話 女公爵様、俺の朝飯で泣く
十二棟。
三枝宗一郎は、朝食を終えて城の裏手へ案内されるなり、その数字が決して聞き間違いではなかったことを理解した。
アルヴェイン城の北側には、石造りと木造の倉庫がずらりと並んでいた。城壁沿いに建てられたそれらは、一棟ずつでも日本の小さな体育館くらいありそうで、食料、武具、衣類、飼料、薪、工具、薬草、予備の家具など、用途ごとに分けられているらしい。
問題は、「分けられているらしい」というところだった。
「……ガレスさん」
「何でしょう」
「食料倉庫ですよね、ここ」
「はい」
「どうして槍があります?」
宗一郎は麦袋の脇に立てかけられている三本の槍を指さした。
騎士団副団長のガレスは、しばらく槍を見つめた後、非常に真面目な顔で答えた。
「誰かが置いたのでしょうな」
「それは見れば分かります」
「なるほど」
「納得しないでください」
倉庫へ入って十分もしないうちに、宗一郎は頭痛を覚え始めていた。
入り口近くには今年収穫された麦が積まれている。その奥には去年のものらしい袋があり、さらに奥からはもっと古そうな袋まで出てきた。干し豆の樽の上には馬具が置かれ、蝋燭の箱の中になぜか木槌が二本入っている。
何より恐ろしいのは、誰もこれを不思議に思っていないことである。
「古いものから使わないんですか?」
「基本的には、そのはずですが」
「基本的には?」
「忙しいと、手前にあるものから持っていく者もおります」
「そうすると新しいものから減って、古いものが奥で忘れられますよね」
「……そうなりますな」
「なってます」
宗一郎は奥から引っ張り出した麦袋の口を開けた。
わずかに湿気た匂いがする。
「これ、もう危ないですよ。虫も入ってる」
ガレスが覗き込み、顔をしかめた。
「まだ食えるのでは?」
「食べられるかどうかと、食べていいかは別です。兵士の腹を壊したいなら止めませんけど」
「それは困りますな」
「俺も困ります」
宗一郎は腕を組み、倉庫全体を見渡した。
日本の会社でも、倉庫整理を嫌がる部署は多かった。
誰かが「後で片づけよう」と置く。
その「後で」が来ない。
次の人間がさらにその上へ置く。
数年後、誰も正体を知らない箱が誕生する。
世界が違っても、人間の面倒臭がり方には驚くほど共通点があるらしい。
「まず全部を一気にやるのは無理ですね。食料だけ先に整理しましょう。古いもの、新しいもの、傷んでいるものを分けて、何がどれだけあるのか数える。それと、出したら記録する」
「記録ですか」
「入ってきた量と、使った量が分からなかったら、在庫管理にならないでしょう」
「しかし三枝さんは文字を読めないのでは?」
「そこなんですよねえ」
最大の問題である。
倉庫の札を見ても、宗一郎には何と書いてあるのか分からない。
言葉は聞けば理解できるのに、文字だけは完全に別物だった。
「誰か一人、俺について文字を読んでくれる人をつけてもらえません?」
「承知しました。でしたらニーナが適任でしょう」
「ニーナ?」
「昨日、三枝さんを部屋へ案内した侍女です。読み書きも計算もできます」
「あの子ですか。仕事増やして大丈夫なんです?」
「本人に聞いてみましょう」
「そこ大事ですよ。上が勝手に決めると、現場が泣くので」
宗一郎が当然のように言うと、ガレスは妙な顔をした。
「三枝さんは、使用人にも本人の都合を聞くのですか」
「そりゃ聞きますよ。仕事するのは本人なんだから」
「……なるほど」
「何です?」
「いえ。少し珍しい考え方だと思いまして」
宗一郎には、その言葉の方が引っかかった。
だが今は、異世界の雇用制度を論じている場合ではない。
まずは倉庫だった。
やがて呼ばれてきたニーナは、事情を聞くと目を輝かせた。
「やります!」
「本当に大丈夫? いつもの仕事もあるんでしょう」
「午前中は客室の整えが中心ですけれど、今日は三枝さんのお部屋しか使われていませんので余裕があります。それに、倉庫の整理なんて今まで誰もやりたがりませんでしたから、少し面白そうです」
「面白いかなあ」
「三枝さん、昨日から楽しそうに片づけていますよ」
「俺は楽しくてやってるんじゃなくて、散らかってると気になるんです」
「同じでは?」
「それ、レティシア様みたいなこと言うね」
ニーナはくすくす笑った。
こうして、宗一郎、ガレス、ニーナ、それに倉庫番の兵士二人を加えた即席の整理班が出来上がった。
作業は想像以上に大変だった。
まず物を全部外へ出し、用途ごとに分ける。食料の中でも穀物、豆、乾燥肉、塩、香草と場所を決め、古いものを手前へ、新しいものを奥へ置き直した。
宗一郎は文字が読めないため、ニーナに札を書いてもらう。
「ここは『麦・古いもの』、こっちは『麦・新しいもの』。この樽は干し豆。日付みたいなものも書けます?」
「入ってきた日ですか?」
「そう。それが分かるだけでも全然違います」
「なるほど……」
ニーナが感心しながら木札へ書き込む。
その横でガレスが古い盾を持って立っていた。
「これはどこへ?」
「なんでまだ食料倉庫に盾があるんです?」
「棚の裏から出てきました」
「武具庫です」
「承知した」
少し後には、鍋が出てきた。
「これは?」
「厨房」
さらに毛布。
「これは?」
「衣類か寝具の倉庫!」
最後には壊れた椅子まで出てきた。
「……これは?」
「捨てるか直してください!」
宗一郎は額の汗を拭った。
異世界転移からまだ二日半しか経っていないというのに、すでに会社の年度末棚卸しを思い出している。
「俺、神様か誰かに嫌われてるのかな」
「神に会ったのですか?」
ニーナが真顔で尋ねる。
「いや、会ってないよ」
「では、なぜ?」
「こういう状況だと、日本では冗談でそう言うんです」
「ニホンの神様は倉庫を散らかすのですか?」
「それはかなり嫌な神様だね」
昼前には、一棟目の床がようやく見えるようになった。
ガレスが感心したように周囲を眺める。
「広かったのですな、この倉庫」
「元からこの広さですよ」
「私はここまで床が見えているのを初めて見ました」
「副団長、それ誇っちゃ駄目です」
そこへ、城の方からレティシアがやってきた。
医師から安静を命じられているはずなのに、今日も普通に歩いている。
「宗一郎、昼だ」
「知ってますけど、何で公爵様がわざわざ呼びに来るんです?」
「お前が厨房に来ないからだ」
「俺、倉庫の整理してるんですが」
「だから呼びに来た」
「料理長さんがいるでしょう」
「いる」
「じゃあ問題ないじゃないですか」
「問題がある」
レティシアは当然のように言った。
「今日の昼を、誰が作る」
「料理長です」
「お前は?」
「倉庫番です」
「昨日は料理人ではないと言っていたではないか」
「今日は倉庫番でもないですよ!」
ガレスが咳払いをしながら横を向いた。
ニーナは完全に笑っている。
宗一郎は、この城では自分とレティシアの会話が早くも見世物になりつつあるのではないかと不安になった。
「公爵様、俺が毎食作る約束はしてませんよ」
「分かっている」
「なら」
「だが、昨日の飯の方が美味かった」
「料理長さんが聞いたら泣きますよ」
「ベルトランにも同じことを言った」
「本人に言ったんですか!」
宗一郎は頭を抱えた。
「そういうのは言い方があるでしょう。『昨日の料理も違った美味しさだった』とか」
「なぜ事実を曲げる必要がある」
「人間関係を円滑にするためです」
「面倒だな」
「公爵様が一番その面倒を増やしてるんです」
しばらく言い合った末、結局宗一郎が昼食を一品だけ作ることで話がまとまった。
自分でも押しに弱いと思う。
ただ、朝から倉庫作業をして腹が減っていたのも事実だった。
厨房へ戻ると、ベルトランは腕を組んで待っていた。
「閣下に『三枝の飯の方が美味い』と言われました」
「ごめんなさい」
「なぜ三枝さんが謝るのです」
「何となく俺にも責任がある気がして」
「ありません」
ベルトランはきっぱりと言った後、口元を緩めた。
「それに、腹は立ちましたが、料理人としては悔しいだけです。あの方が食事を楽しみにされるようになったのは、悪いことではありません」
「昔からあんな感じだったんです?」
宗一郎は野菜を洗いながら尋ねた。
ベルトランは少し考えてから答えた。
「昔は、もう少し食事を楽しまれていたと思います」
「昔?」
「先代公爵夫妻がお元気だったころです」
宗一郎は手を止めかけたが、ベルトランはそれ以上詳しく話す様子を見せなかった。
聞き出すようなことでもない。
代わりに、宗一郎は今日の材料を確認した。
根菜、玉葱に似た野菜、鶏肉、卵、それに香りの強い豆の発酵調味料がある。
「これ、昨日はなかったですよね」
「東方から入る調味料です。匂いが強いため、閣下はあまり好まれませんが」
宗一郎は少量を指先につけて舐めた。
塩気が強い。
日本の味噌そのものではないが、発酵した豆の旨味がある。
「……これなら」
「何か作れますか?」
「俺の国に、似たような調味料を使った汁物があるんです。ただ、同じ味にはならないと思いますけど」
「ぜひ」
宗一郎は鶏肉と根菜で出汁を取り、発酵豆の調味料を少量ずつ溶かした。
最初は塩辛かったが、野菜を加えて煮ると角が取れた。最後に火を弱めてから調味料を追加すると、湯気と一緒に懐かしい香りに似たものが立ち上る。
それは味噌汁ではない。
けれど、宗一郎の記憶の中にある朝の台所を、ほんの少し思い出させる匂いだった。
「……近いな」
「何にです?」
「俺の国の味に」
答えた瞬間、宗一郎自身が少し黙った。
昨日までは忙しくて考える暇がなかった。
けれど、香りというものは厄介である。
古い記憶を勝手に連れてくる。
冬の朝、母親が作っていた味噌汁。
一人暮らしを始めてから自分で適当に作るようになった味。
残業帰り、疲れていても鍋を温めれば少しだけほっとした夜。
宗一郎は鍋をかき混ぜながら、遠く離れた日本が急に現実味を帯びたことに気づいた。
「三枝さん?」
「いや、何でもないです」
今は考えない。
そう決めた。
食堂では、レティシア、ガレス、ニーナ、それにベルトランまで同じ卓についた。
「珍しいな」
レティシアが言う。
「料理長まで食うのか」
「自分の料理ではありませんので、今日は客です」
「そういう理屈か」
宗一郎は一人ずつ器を配った。
「これ、俺の国の料理そのものじゃありません。材料が違うので。でも、似た作り方をした汁物です」
「名前は?」
レティシアが尋ねる。
「向こうなら味噌汁って呼ぶんですけど、これは味噌じゃないから……まあ、豆のスープとでも」
「ミソシル」
「だからこれは違いますって」
「覚えやすいから、それでいい」
「料理の名前を勝手に決めないでください」
レティシアは笑いながら匙を入れた。
一口。
そして、二口。
先ほどまでの軽口が止まった。
「どうです?」
宗一郎が尋ねても、すぐには答えない。
レティシアは器を見つめたまま、もう一口飲んだ。
やがて、不自然なほどゆっくり匙を置いた。
「……似ている」
「何に?」
宗一郎が聞くと、彼女は答えなかった。
代わりに目元を指で拭った。
宗一郎は一瞬、湯気でも入ったのかと思った。
しかし、そうではない。
レティシアは明らかに泣いていた。
ニーナが驚いたように息を呑み、ガレスは黙って顔を伏せた。ベルトランだけは何か知っているらしく、動かなかった。
「えっ、ちょっと……公爵様?」
「見るな」
「いや、見るなって言われても正面なんですけど」
「横を向け」
「何か変なもの入ってました?」
「違う」
「辛すぎたとか」
「違うと言っている」
レティシアは苛立ったように袖で目元を拭いた。
泣いているところを見られるのが、相当嫌らしい。
「母が……」
それだけ言って、しばらく黙った。
「昔、似たような汁物を作った」
声は先ほどまでより小さかった。
「料理が上手な人ではなかった。むしろ下手だった。それでも冬になると、豆を潰して、根菜と一緒に煮たものを作っていた。父も私も不味いと言いながら食べた」
「それ、不味かったんですか」
「不味かった」
「そこは美しい思い出にしておきましょうよ」
宗一郎が言うと、レティシアは涙を拭きながら少し笑った。
「だが、温かかった」
その言葉には、宗一郎も何も返せなかった。
レティシアが昨日「久しぶりに食事を美味いと思った」と言った理由が、ほんの少し分かった気がした。
食べることは、ただ腹を満たすだけではない。
忙しくなれば、つい忘れる。
宗一郎自身、コンビニ弁当を机で食べながらパソコンを眺めていた夜が何度もある。
「……お母さんは?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
レティシアは怒らなかった。
「八年前に亡くなった。父はその二年前だ」
「そうですか」
「謝るな。昔のことだ」
昔のことだから平気、というほど人間の気持ちは単純ではない。
宗一郎は四十二年間生きて、それくらいは知っている。
だから余計な慰めは言わなかった。
「じゃあ、また作りますよ」
「……何?」
「同じ味になるか分かりませんけど。今日ので近いなら、調整してみます」
「よいのか」
「飯くらいなら。ただし毎食は無理です」
「そこで条件をつけるのか」
「大事でしょう。俺にも倉庫十二棟が待ってるんですから」
レティシアが笑った。
今度は涙を隠さずに。
「分かった。では、たまにでよい」
「はい」
「週に五回くらい」
「それ、ほぼ毎日ですよ」
「七回ではない」
「そういう問題じゃないです」
食堂に笑いが戻った。
重くなりかけた空気を、レティシア自身が壊したのかもしれない。
昼食が終わった後、宗一郎は再び倉庫へ戻った。
作業はまだ山ほどある。
だが午後になって、別の問題が見つかった。
「三枝さん」
ニーナが一枚の木札を持ってきた。
「これ、変です」
「何が?」
「帳簿では塩が二十樽あることになっています。でも実際には十三樽しかありません」
「七樽足りない?」
「はい」
宗一郎は眉を寄せた。
単なる記録漏れかもしれない。
誰かが別の倉庫へ移した可能性もある。
しかし塩は、この世界でも貴重な物資だという。
「ガレスさん、最近大量に塩を使う予定ってありました?」
「いや。兵糧用に一定量は使うが、七樽も一度には使わん」
「では、どこかに移した記録は?」
「確認させよう」
宗一郎は倉庫の奥を見た。
整理されていないというのは、単に不便なだけではない。
物がなくなっても気づかない。
誰かが持ち出しても分からない。
「……これ、ただ片づければ終わりって話じゃないかもしれませんね」
ガレスの顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「三枝さん」
「はい」
「他の倉庫も、予定どおり確認していただけますか」
「もちろんですけど」
「急いだ方がよさそうです」
宗一郎は頷いた。
異世界へ来て三日目。
朝までは、散らかった倉庫を整理するだけの仕事だと思っていた。
しかし、どうやらこの城では、誰も把握していないところで物資が消えている。
そして宗一郎が最初に見つけた不足は、塩七樽だけでは終わらなかった。




