第26話 文字が読めない恋人に、公爵様が先生になりました
翌朝。
三枝宗一郎は、開店前の食堂で、人生四十二年目にして久しぶりに「勉強机へ座らされる側」になっていた。
目の前には、昨日レティシアが持ってきた初学者向けの文字帳。
横には木板と炭筆。
そして正面には、教師役を買って出た女公爵レティシア・アルヴェインが、やけに自信満々の顔で座っている。
「では始めるぞ」
「お願いします、先生」
「先生はやめろ」
「でも教えるんでしょう?」
「そうだが、何か落ち着かん」
「じゃあ公爵様?」
「名前で呼べ」
「注文多いなあ」
宗一郎は笑いながら文字帳を開いた。
この世界へ来てから、会話だけはなぜか通じる。
だが文字は別だった。
食堂の値札や簡単な数字、食材名の一部などはニーナに教わり、少しずつ覚えてきた。しかし帳簿や公爵家の文書となると、まだほとんど歯が立たない。
これまでは店を回すために必要な範囲だけ覚えれば何とかなった。
だが今後はそうもいかない。
レティシアと交際することで、オズワルドから渡された書類を読む必要も出てきた。
何より宗一郎自身、いつまでも他人に読んでもらう生活から抜けたかった。
「まず、この二十文字だ」
レティシアが文字帳の最初の頁を指す。
「昨日も言ってましたね」
「基本になる形だ。今日中に全部覚えろ」
「今日中?」
「ああ」
「先生」
「だから先生はやめろ」
「四十二歳の初心者に、初日から二十文字は多くないです?」
「子供なら一日で覚える」
「子供と張り合わせないでくださいよ」
「お前は子供より経験があるだろう」
「人生経験で文字の形は覚えられないんです」
レティシアは不思議そうな顔をした。
「見れば分かる」
「その『見れば分かる』が一番教えるの下手な人の言葉なんですよ」
「何だと?」
「ほら、もう出た」
「では、お前ならどう教える」
「いや、それを俺に聞かれても」
宗一郎は文字帳を見る。
最初の文字は、縦線に小さな鉤が付いた形をしていた。
「これは?」
「『ア』に近い音だ」
「次は?」
「『イ』」
「じゃあ似た形の三つ目は?」
「『エ』」
「全然似てないのに音だけ近いな……」
「そういうものだ」
「説明が終わった!」
宗一郎が頭を抱える。
レティシアは本気で困ったらしく、文字帳と宗一郎を交互に見た。
「私は子供のころ、こう覚えた」
「どうやって?」
「家庭教師が『覚えろ』と言った」
「最悪の参考例だな!」
「覚えたぞ」
「レティシアが優秀だっただけでしょう」
言われた本人は少しだけ誇らしそうにした。
「まあな」
「そこは否定しないんだ」
「剣も読み書きも、人より早かった」
「じゃあ、できない側の気持ちが分からないのかもしれませんね」
宗一郎が何気なく言うと、レティシアの動きが止まった。
「……そうかもしれん」
思ったより素直な返事だった。
「怒らないんですね」
「なぜ怒る」
「『私の教え方が悪いのか』って」
「悪いなら直せばいい」
「仕事のときはちゃんと柔軟なんだよなあ」
「恋人にも柔軟だ」
「そこはまだ評価保留です」
「何だと」
言い合いながらも、宗一郎は炭筆を持った。
「じゃあ、俺の方からお願いしていいです?」
「言え」
「一度に二十じゃなくて、五文字ずつ。形だけじゃなく、意味がある単語と一緒に覚えたいです」
「単語?」
「そう。たとえば俺が毎日使うもの」
宗一郎は厨房を指す。
「塩、肉、豆、水、パン。この辺なら、物と文字が繋がるでしょう」
レティシアは少し考えた。
「なるほど」
「まず生活に必要な文字から覚えた方が入りやすいと思うんです」
「ではやってみよう」
そこから授業は少しだけましになった。
レティシアが木板へ「塩」に当たる文字を書く。
宗一郎が真似する。
「違う」
「どこが?」
「最後の線が短い」
「これくらい?」
「長すぎる」
「厳しいな」
「文字が違えば意味が変わる」
「それは困る」
「もう一度」
宗一郎は書き直した。
今度はレティシアが黙った。
「どうです?」
「悪くない」
「先生、もっと褒めてもいいんですよ」
「読める形なら十分だ」
「褒め方まで不器用!」
次は「肉」。
その次は「豆」。
宗一郎にとっては、確かに意味のある単語と一緒の方が覚えやすかった。
「これが肉」
「そうだ」
「こっちが豆」
「ああ」
「じゃあ、この二つを逆に書いたら?」
「肉料理の札に豆と書くことになる」
「店として致命傷ですね」
「だから覚えろ」
「急に現実的になった」
しばらくすると、ニーナが出勤してきた。
扉を開けた瞬間、彼女は足を止める。
「……何をなさっているんです?」
「文字の勉強」
「レティシア様が?」
「先生です」
「先生と言うな」
「先生なんでしょう?」
ニーナは口元を押さえた。
「笑うな」
「申し訳ありません。でも、レティシア様が文字を教えていらっしゃるところを想像したことがなくて」
「そんなに変か?」
「いえ。ただ、教え方はお上手ですか?」
宗一郎が即答した。
「下手」
「宗一郎!」
ニーナが吹き出す。
「やっぱりですか」
「やっぱりって何だ!」
「レティシア様は、ご自分で理解するのが早いので、他人が分からないところを待つのが苦手そうです」
「ニーナまで……」
「でも三枝さん、そこは私も少しお手伝いできますよ」
「本当?」
「はい。城で新人の侍女に帳簿の書き方を教えることがありますから」
宗一郎はレティシアを見る。
「先生交代?」
「駄目だ」
「即答」
「私が教えると言った」
「意地になってません?」
「なっていない」
「顔がなってるなあ」
結局、ニーナが補助に入ることになった。
「三枝さん、この文字は単独で覚えるより、似た形を三つ並べた方が違いが分かりやすいです」
「なるほど」
「こっちは横線の位置が違います」
「本当だ」
「音も少し似ていますから、声に出しながら書くと覚えやすいですよ」
「分かりやすい!」
宗一郎が感心すると、正面のレティシアが明らかに不満そうになる。
「私の説明と何が違う」
「全部です」
「宗一郎!」
「いや、でも参考にしましょうよ。教えるのも技術なんだから」
「技術?」
「はい。知ってることと、教えられることは別です」
宗一郎は炭筆を置いた。
「会社でもよくありました。仕事が速い人が、新人を教えるの上手いとは限らないんです。『見て覚えろ』『前にも言った』『普通分かるだろ』って言われると、余計萎縮する」
レティシアの表情が少し変わった。
「……私も、騎士の訓練で言ったことがある」
「『見れば分かる』?」
「ああ」
「新人泣いてませんでした?」
「泣いてはいない」
「本当に?」
「……一人、辞めた」
「重い!」
ニーナも笑えなくなった。
レティシアは少し居心地悪そうに腕を組む。
「だが、私は悪意があったわけではない」
「分かってますよ」
「本当に分かる者には簡単だったのだ」
「だからこそです」
宗一郎は笑った。
「分からない人がどこで詰まってるのかを聞くのが、教える側の仕事なんですよ」
「では、お前はどこで詰まっている」
「ほぼ全部」
「範囲が広すぎる!」
「でも最初より分かってきました」
宗一郎は木板へ、先ほど覚えた五つの単語を書いた。
塩。
肉。
豆。
水。
パン。
多少歪んでいるが、読める程度にはなっている。
「ほら」
レティシアが覗き込む。
「……水だけ少し違う」
「どこ?」
「最後の曲がりが浅い」
「こう?」
「そうだ」
「今の説明、分かりやすかったですよ」
レティシアが少し驚く。
「そうか」
「はい」
それから彼女は、明らかに教え方を変え始めた。
以前のように「覚えろ」で終わらせず、宗一郎がどこで間違えたのかを確認する。
「この二つ、似ていて分からんのだな?」
「そう。横線一本しか違わないでしょう」
「なら、片方は『皿』、片方は『卓』と覚えろ。店で使うだろう」
「なるほど」
「こっちは?」
「それは分かる。金」
「なぜだ」
「毎日数えてるから」
「現金な男だな」
「商売人なので」
「元ソウムでは?」
「今は食堂店主」
「都合よく肩書きを変えるな」
二人の間に笑いが増えた。
途中からは、レティシアの方が面白がり始める。
「宗一郎、これは?」
「鶏」
「違う。馬だ」
「似すぎでしょう!」
「どこがだ」
「足の数くらいしか違わないじゃないですか」
「文字に足の数は関係ない」
「だったら余計ややこしい!」
ニーナはとうとう腹を抱えて笑い始めた。
「三枝さん、それはさすがに違いすぎます」
「ニーナまで敵になった!」
「敵ではありません!」
気づけば一刻などとうに過ぎていた。
開店準備の時間になり、宗一郎は文字帳を閉じる。
「今日はここまで」
「まだできるぞ」
「店開けます」
「あと五文字」
「先生が熱くなってどうするんです」
「今度こそ教えられる気がする」
「それ、昨日俺が料理教室で言われたら止めてたやつだな」
レティシアは少し不満そうだったが、しぶしぶ立ち上がった。
「では夜に復習しろ」
「宿題ですか」
「当然だ」
「恋人から宿題出される人生になるとは」
「嫌か?」
「いや、悪くないです」
宗一郎がそう言うと、レティシアの表情が少し和らいだ。
「なら明日も来る」
「仕事に支障がない範囲で」
「分かっている」
「夜更かし禁止」
「お前は母親か」
「恋人です」
言ってから、宗一郎自身が少し照れた。
レティシアはもっと露骨に反応した。
「……今のはよいな」
「何が?」
「恋人です、と言ったところ」
「そこ拾わないで」
「もう一度」
「授業終わり!」
「逃げたな」
昼の営業中。
宗一郎は覚えたばかりの文字を試したくなり、ニーナに頼んで簡単な札を書かせてもらった。
『本日の煮込み』
その下に、宗一郎自身が料理名を書く。
少し曲がった。
最後の字も危ない。
それでも、読める。
「できた」
宗一郎は札を見て、思った以上に嬉しくなった。
たった数文字。
それでも昨日まで読めなかった世界が、ほんの少しだけ自分のものになった気がする。
最初の客が札を見る。
「三枝さん、これ自分で書いたのか?」
「分かります?」
「ああ。少し子供っぽい字だけど」
「そこは言わなくていい!」
店内に笑いが起きる。
宗一郎も笑った。
午後。
レティシアがまた食堂へ来た。
「忙しいんじゃなかったんです?」
「近くで用事があった」
「本当に?」
「半分は本当だ」
「残り半分は?」
「お前の字を見に来た」
「教師として?」
「恋人としてだ」
「言うようになったなあ」
宗一郎は例の札を見せた。
レティシアはしばらく無言で読む。
「……読める」
「それ褒めてます?」
「十分だ」
「もう少しあるでしょう」
「では」
レティシアは考えた。
「よくやった」
「おお」
「何だ」
「ちゃんと褒められた」
「私は成長が早い」
「自分で言う?」
「事実だ」
宗一郎は笑った。
「じゃあ俺も頑張ります」
「ああ」
レティシアが少しだけ胸を張る。
「明日は十文字だ」
「増えてる!」
「今日五文字覚えたのだから倍でもいける」
「成長したの教え方だけで、難易度設定は変わってない!」
また店内が笑いに包まれた。
夜。
二階の自室へ戻った宗一郎は、宿題用の木板を机へ置いた。
昼間覚えた文字を一つずつ書く。
塩。
肉。
豆。
水。
パン。
次に、食堂。
そして最後に、教わっていない文字を一つだけ、見よう見まねで書いてみた。
レティシア。
もちろん、最初から全部書けるわけではない。
彼女の名前の綴りは長く、途中で何度も文字帳と昼間ニーナに書いてもらった見本を見返した。
それでも何とか形になった。
「……ひどい字だな」
自分で笑う。
それでも消さなかった。
翌朝。
レティシアが授業のために来ると、机の上の木板へすぐ気づいた。
「これは?」
「宿題」
「私の名前か?」
「たぶん」
「たぶんとは何だ」
「合ってるか分からないので」
レティシアは木板を持ち上げ、じっと眺めた。
「最後の文字が逆だ」
「やっぱり?」
「二つ目も少し違う」
「難しいなあ」
「だが」
レティシアは木板を置かなかった。
「読める」
宗一郎は笑った。
「なら初回としては合格ですか?」
「ああ」
「良かった」
レティシアは、まだ木板を手にしている。
「返してもらえます?」
「これは私がもらう」
「え?」
「私の名前だろう」
「いや、練習用ですよ」
「だからよい」
「字、かなり汚いですよ」
「構わん」
「最後逆ですよ」
「分かっている」
「何でそんなもの欲しいんです?」
レティシアは一瞬だけ迷い、それから少し照れたように答えた。
「お前が初めて自分で書いた私の名前だからだ」
宗一郎は何も言えなくなった。
四十二歳にもなって、ただ文字を書いただけでこんなふうに胸が温かくなるとは思わなかった。
「……じゃあ、どうぞ」
「ああ」
「でも次はもっと上手く書きます」
「では次ももらう」
「全部持っていく気です?」
「当然だ」
「公爵家に俺の汚い字が増えていくなあ」
「誰にも見せん」
「それはそれで恥ずかしい」
レティシアは木板を大事そうに鞄へしまった。
そして何事もなかったように文字帳を開く。
「では今日は十文字だ」
「感動の余韻短いな!」
「時間は有限だ」
「先生、そういうところですよ!」
こうして宗一郎の識字教育は始まった。
女公爵の教え方は、最初こそ壊滅的だった。
だが、教えることも教わることも、二人で少しずつ慣れていけばいい。
料理と同じだった。
最初から完璧でなくても、失敗した理由を聞き、次は少し変える。
そうやって続ければ、できることは増えていく。
宗一郎にとって、それは文字だけの話ではなかった。
この世界で暮らすことも。
食堂を続けることも。
そして、レティシアと恋人として歩いていくことも。
きっと同じなのだろう。
ただ、その日の夕方。
王都へ戻る支度を進めていたミレイユが食堂へ現れ、宗一郎の文字帳を見るなり笑った。
「へえ。ついに読み書きの勉強を始めたのね」
「笑わないでくださいよ」
「笑ってないわよ」
「口元が」
「それより、私もそろそろ王都へ戻るから」
宗一郎の手が止まった。
「もう?」
「調査は終わったもの。それに、報告しなきゃいけないことが山ほどある」
ミレイユは少しだけ意味ありげにレティシアを見る。
「魔力のない異世界人のことも、辺境の食堂のことも、それから――銀狼公に恋人ができたこともね」
「最後の報告、本当に必要です?」
「王都では、たぶん一番食いつかれるわよ」
宗一郎は嫌な予感しかしなかった。
どうやら文字を覚える暇さえ、これからは今まで以上になくなりそうだった。




