第25話 公爵の恋人という肩書き、重すぎませんか?
公爵家家令オズワルド・ベルクが食堂の卓へ置いた書類の束は、恋人同士の話をするための量には到底見えなかった。
三枝宗一郎は椅子へ座ったまま、その厚みを眺める。
「……これ、全部俺に関係あるんです?」
「はい」
「恋人になっただけですよね?」
「相手が公爵閣下でなければ、その認識でも構わなかったでしょう」
オズワルドはいつもの落ち着いた声で答えた。
向かいにはレティシアも座っている。
「宗一郎。面倒なら私が処理する」
「その言葉、今日は禁止です」
「なぜだ」
「俺が分からないまま全部任せたら、余計危ないからですよ」
レティシアが何か言おうとしたが、オズワルドが先に口を開いた。
「その点に関しては、三枝殿の判断が正しいかと」
「家令、お前は最近宗一郎の側につきすぎではないか」
「正しい方につくだけです」
「私が間違っているように聞こえるぞ」
「そう申し上げております」
「相変わらず強いなあ、この人」
宗一郎が感心すると、レティシアは不満そうに腕を組んだ。
だが、本気で怒っているわけではないらしい。
「では、最初からご説明いたします」
オズワルドが一枚目の紙を開く。
「まず、三枝殿は現在、閣下の正式な婚約者ではありません」
「はい」
「公爵家の役職も持っておられません」
「はい」
「よって、現時点では公爵家の意思決定へ口を出す権限はありません」
「それは当然ですね」
「しかし周囲は、そう見ない可能性があります」
宗一郎は首を傾げた。
「どういうことです?」
「たとえば、商人が三枝殿へ『この街道の通行税を下げてほしい』と頼んだとします」
「俺に言われても困ります」
「三枝殿はそう考えるでしょう。ですが、その商人が次の日に閣下から別件で優遇された場合、どう見えるでしょうか」
宗一郎は少し考える。
「ああ……俺を通したように見える?」
「その通りです」
「実際には何もしてなくても?」
「関係ありません。政治や商売では、事実と同じくらい『そう見えること』が問題になります」
「面倒くさいなあ……」
「恋人だからな」
レティシアが言う。
「そこ、ちょっと誇らしげに言うところじゃないですよ」
「事実だ」
「そうだけど」
オズワルドは次の紙へ移った。
「次に金銭です。三枝殿の食堂へ公爵家から不自然に安い価格で食材が流れれば、利益供与と見なされます」
「それは嫌ですね」
「現在までの公爵家所有の建物については、命を救った礼としての一時的な使用許可です。これはすでに記録を残しております」
「良かった……」
「しかし今後、閣下の私的な感情によって家賃を免除し続けるとなれば、話は変わります」
宗一郎は隣を見る。
レティシアが目を逸らした。
「……何です?」
「別に」
「何か考えてました?」
「少しだけ、店くらい正式にやってもよいかと」
「駄目です」
「なぜ即答する」
「俺が自分で商売してる意味なくなるでしょう」
「私には金がある」
「そういう問題じゃありません」
宗一郎は少し真面目な声になる。
「恋人になったからって、俺の生活全部をあなたに面倒見てもらう気はないですよ」
「嫌なのか?」
「嫌というより、怖いです」
「怖い?」
「自分で稼がなくていい、自分で考えなくていい、困ったら公爵の恋人だから何とかなる。そうなったら、俺が俺じゃなくなる気がする」
レティシアが宗一郎を見る。
「俺、こっちの世界では何も持ってないでしょう。だから余計に、自分でできることくらいは自分でやりたいんです」
「……分かった」
思ったより素直な返事だった。
「ただし、本当に困ったときまで意地を張るな」
「それは約束します」
「ならよい」
オズワルドが静かに頷いた。
「その考えは、今後も非常に重要になります」
「まだあるんですね」
「むしろここからです」
「今ので前置き!?」
宗一郎は書類の山を見て、すでに帰りたくなった。
「次に贈答品です」
「贈り物?」
「はい。三枝殿へ、商人や貴族から品物が届く可能性があります」
「何で俺に?」
「閣下の恋人だからです」
「便利な言葉みたいに使わないでください」
「事実です」
オズワルドは淡々と続ける。
「高価な酒、宝石、食材、衣類、馬車。表向きは祝意でも、裏に要求がある場合もございます」
「うわあ……」
「全部断ればいい」
レティシアが言う。
「閣下」
「何だ」
「外交上、断る方が問題になる品もございます」
「なら返礼すればよい」
「三枝殿がその判断をできるよう説明しているのです」
「なるほど」
宗一郎は苦笑する。
「レティシアも全部知ってるわけじゃないんですね」
「細かい儀礼は家令がやる」
「領主としてそれでいいんです?」
「適材適所だ」
オズワルドが小さく息をついた。
「閣下は、その言葉を都合よく使う傾向がございます」
「宗一郎もソウムという言葉を都合よく使う」
「巻き込まないでください」
宗一郎は思わず笑った。
「次に警護です」
オズワルドの声が少しだけ低くなった。
宗一郎の表情も自然に引き締まる。
「三枝殿が閣下の恋人であることは、すでに領都の多くが知っています。これはつまり、閣下へ直接手を出せない者が、三枝殿を利用しようと考える可能性があるということです」
「利用って……」
「脅迫、誘拐、人質、買収、情報収集。可能性として考える必要があります」
さすがに宗一郎も笑えなかった。
「俺、そこまで重要な人間になります?」
「三枝殿自身の身分は関係ありません。閣下が三枝殿を大切にしているという事実に価値が生まれます」
宗一郎は隣を見る。
レティシアの顔からも笑みが消えていた。
「だから私は護衛をつけると言った」
「聞いてないですよ」
「今言った」
「そういう重要なことは先に相談して」
「危険なら必要だ」
「必要なのは分かります。でも、店の中まで騎士が立ってたら客が困るでしょう」
「では店の外に置く」
「それも目立ちます」
「宗一郎」
レティシアの声に、強さが混じった。
「これは譲れん」
宗一郎もすぐには返さなかった。
自分が面倒だからという理由だけで断れる話ではない。
レティシアの立場を考えれば、自分の安全も彼女の責任問題につながる。
「……分かりました。ただし方法は相談しましょう」
「方法?」
「店の中に鎧の騎士を置くんじゃなくて、普段着で離れた場所から見てもらうとか。ガレスさんたちの負担も増やしたくないです」
「それなら検討できます」
オズワルドが答える。
「警護の存在自体を隠す必要はありませんが、商売へ支障が出ない形にいたしましょう」
「お願いします」
「私が近くにいれば不要だろう」
レティシアが言う。
「あなたが毎日ずっと店にいる方が問題でしょう」
「恋人だぞ」
「公爵でもあります」
「最近そればかり言うな」
「事実です」
言い返され、レティシアは黙った。
「次に発言です」
「まだあるんだ……」
「三枝殿が公の場で『この村はもっと支援されるべきだ』と言えば、領主の意向だと受け取る者が出ます」
「俺個人の感想でも?」
「はい」
「『この税金高いですね』とかも?」
「場合によっては」
「『道路直した方がいい』も?」
「同様です」
宗一郎は両手で顔を覆った。
「何も言えないじゃないですか」
「何も言うなとは申しません。発言が以前より重くなることを自覚していただきたいだけです」
「会社の役員の家族みたいなものか……いや、それより重いな」
「何の話だ?」
「日本でも偉い人の家族や恋人が何か言うと、本人の考えだと思われることがあるんですよ」
「なら同じだな」
「規模が違いすぎますけど」
宗一郎は背もたれへ体を預けた。
店を始めたころ、自分が悩んでいたのは食材の値段や文字が読めないことだった。
それが今は、恋人への贈り物、政治的発言、警護である。
「人生の難易度、急に上がりすぎじゃないです?」
「私と付き合ったからだ」
「レティシア、ちょっと責任感じてください」
「感じている」
冗談だと思っていた。
だがレティシアの返事は真面目だった。
「だから、もしお前が嫌になったなら――」
「その話はやめましょう」
宗一郎が途中で止める。
「まだ最後まで言っていない」
「聞かなくても分かります。俺のために別れるとか、距離を取るとかでしょう」
レティシアは何も言わない。
図星だった。
「それ、前にも言いましたけど、勝手に決めないでください」
「だが、お前を面倒へ巻き込んでいるのは私だ」
「俺は四十二歳ですよ」
「知っている」
「自分で選んだ相手と付き合うくらい、自分で決めます」
宗一郎は少し身を乗り出した。
「面倒だって分かったなら、覚えればいい。危ないなら対策すればいい。無理ならそのとき二人で考える。最初から『俺のために』って勝手に離れるのだけはやめてください」
「……宗一郎」
「それやられたら、たぶん怒りますよ」
「お前が?」
「かなり」
レティシアはしばらく宗一郎を見た。
やがて少しだけ笑った。
「分かった」
「本当に?」
「ああ。勝手にお前の分まで決めない」
「お願いします」
「その代わり、お前も危険を隠すな」
「約束します」
「困ったら頼れ」
「それも」
「無茶をするな」
「それはお互い様でしょう」
「……そうだな」
二人で笑う。
オズワルドはそのやり取りを黙って見ていた。
「家令」
「何だ」
「何か言いたそうだな」
「いえ」
「その顔は何だ」
「少なくとも、閣下が一方的に暴走する可能性は以前より減りそうだと安心しております」
「どういう意味だ」
「三枝殿が止めてくださるでしょう」
「俺、恋人兼ブレーキなんです?」
「重要な役目です」
「給料出ます?」
「宗一郎!」
レティシアが本気で怒った。
その声で、少し重くなっていた空気がようやく緩んだ。
オズワルドは書類の束を一つ横へ移した。
「最後に、現段階で最も重要なことを申し上げます」
「まだ最後があるんですか」
「あります」
宗一郎は姿勢を戻した。
「三枝殿は今後、公爵家に近づきたい者から、様々な顔を見せられるでしょう」
「様々な顔?」
「善意、友情、同情、商談、相談。すべてが嘘とは限りません」
「そこが厄介ですね」
「はい。完全な悪人だけなら簡単です。しかし、人は一つの理由だけで近づくとは限らない」
宗一郎は少し黙った。
それは分かる。
会社員時代にもいた。
本当に困っていて相談する人。
困っているのは本当だが、ついでに自分の部署を有利にしたい人。
仲良くなりたい気持ちもあり、仕事も頼みたい人。
人間の動機は、たいてい混ざっている。
「なるほど……」
「ですから、すべて疑えとは申しません。ですが、すべてを一人で判断しようとしないでください」
「怪しいと思ったら相談する」
「それで結構です」
「オズワルドさんにも?」
「もちろん」
「レティシアにも?」
「当然だ」
レティシアが即答する。
「ガレスさんにも?」
「彼も適任でしょう」
宗一郎は頷いた。
「分かりました。知らないことは聞く。勝手に判断しない」
「それで十分です」
「十分って言うには書類多すぎません?」
「これは礼儀、貴族名、王都の主要家系、贈答規則、公爵家の親族関係です」
「全部読めないんですけど」
宗一郎が紙を一枚持ち上げる。
この世界の文字は、まだ簡単な単語と数字しか読めない。
書類の大半は、細かな線が並んでいるようにしか見えない。
オズワルドが初めて少し困った顔をした。
「……そうでしたな」
「重大な問題忘れてましたね?」
「失念しておりました」
「家令でも忘れるんだ」
「人間ですので」
「ちょっと安心しました」
レティシアが紙を一枚取った。
「なら私が教える」
「え?」
「文字だ」
「レティシアが?」
「何だ、その顔は」
「いや、先生できるんです?」
「私は公爵だぞ」
「公爵と教師は別職業ですよ」
「文字くらい教えられる!」
「本当に?」
「明日からだ」
「明日?」
「朝、店を開ける前に一刻ほど」
「仕事は?」
「早起きする」
「休む練習どこ行った!」
「これは恋人の教育だ」
「言い方!」
オズワルドが小さく咳払いした。
「それについては、私も賛成です」
「オズワルドさんまで?」
「三枝殿が今後、公爵家と関わるのであれば、読み書きは急務です」
「それは分かります」
「閣下が教えるというのであれば、時間も取れるでしょう」
「取れるのか?」
宗一郎が聞くと、レティシアは迷いなく答えた。
「取る」
「だから仕事を圧縮しないでくださいよ」
「一刻だけだ」
「その一刻のために夜中まで書類やったら意味ないからね?」
「分かっている」
「本当に?」
「……できるだけ」
「怪しい!」
こうして、恋人になった宗一郎に新しい課題が増えた。
公爵家との距離。
政治的な発言。
贈答。
警護。
貴族社会。
そして何より、文字。
食堂の売上だけを考えていればよかったころとは、明らかに世界が広がっている。
同時に、広がった分だけ責任も増えていた。
オズワルドが帰った後、宗一郎は残された書類の山を見つめた。
「公爵の恋人って、重すぎません?」
「嫌か?」
レティシアが少しだけ不安そうに尋ねる。
宗一郎は書類から彼女へ目を移した。
「肩書きは重いです」
「……そうか」
「でも」
宗一郎は笑った。
「相手がレティシアなのは、今のところ後悔してません」
「今のところ?」
「まだ付き合って数日でしょう」
「そこはずっとと言え」
「重いなあ」
「求婚した女だぞ」
「そうだった」
宗一郎が笑うと、レティシアも笑った。
「じゃあ明日から文字、お願いします」
「任せろ」
「教え方が下手だったら言いますよ」
「言ってみろ。厳しく教える」
「恋人に厳しくするんです?」
「野菜を食わせる男に言われたくない」
「それは健康のためです」
「私もお前のためだ」
「……それ言われると弱いな」
宗一郎は降参するように両手を上げた。
翌朝。
食堂の開店前。
レティシアは約束どおり一冊の初学者向け文字帳を持って現れた。
「宗一郎。まず、この二十文字を覚えろ」
「今日だけで?」
「一刻あれば十分だ」
「先生」
「何だ」
「たぶん教え方、下手です」
「まだ始めてもいないだろう!」
どうやら公爵の恋人になった次に待っていたのは、甘い恋人生活ではなく、女公爵による容赦のない読み書き教育らしかった。




