第22話 初デートなのに、女公爵が仕事を持ってきました
公爵家家令オズワルド・ベルクは、恋愛の話をするために食堂へ来たとは思えないほど、いつもどおり隙のない格好をしていた。
白髪は乱れなく撫でつけられ、灰色の上着には皺一つない。午後の営業を終えた食堂で、三枝宗一郎とレティシアを前にして座る姿は、結婚の挨拶に来た親族というより、予算超過を指摘しに来た監査役にしか見えなかった。
「三枝殿。まず確認いたしますが、閣下と恋人関係になった、という認識で相違ありませんな」
「改めて他人から言われると、すごく恥ずかしいですね」
「質問への回答を」
「はい。そうなりました」
「私も認めている」
レティシアが横から答える。
オズワルドは眉一つ動かさず頷いた。
「承知しました」
「それだけ?」
宗一郎は拍子抜けした。
「もっと、身分違いだとか、認めないとか言われるものかと」
「私が誰を好こうと勝手だろう」
レティシアがすぐに口を挟む。
「閣下。三枝殿の話をしております」
「私も関係者だ」
「最も厄介な関係者です」
「家令」
「事実です」
宗一郎は思わず笑いそうになった。
レティシアにここまで平然と物を言える人間は少ない。
「別に私は、お二人の感情へ口を挟みに来たのではありません」
オズワルドが続ける。
「ただし、公爵家当主の私的な交際が、完全な私事で済むとは考えないでいただきたい」
宗一郎は笑うのをやめた。
「やっぱり、そうなりますよね」
「閣下がどこへ出入りするか、誰と親しくするか、それだけでも政治的な意味を読み取ろうとする者はおります。ましてや求婚までなさったとなれば、王都の貴族や近隣領主が関心を持つのは避けられません」
「求婚の件まで?」
「すでに城内ではかなり広まっております」
「誰が広めたんです?」
宗一郎が見ると、レティシアは少しだけ目を逸らした。
「必要な者には私から話した」
「必要な範囲、広くないです?」
「公爵家の後継にも関わる話だぞ」
「まだ結婚してません!」
「だから正式には何も決まっていないと伝えてある」
オズワルドが淡々と補足する。
「その点は閣下も理解しております。ただ、三枝殿には今後、知らないままでは済まされないことが増えるでしょう。警護、公的な場での発言、商売上の利益供与と見られかねない行為、閣下を利用して近づこうとする者への対応などです」
「恋人になっただけなのに、急に就業規則が百ページ増えた感じだな……」
「シュウギョウキソク、とは?」
「俺の世界の面倒な決まりごとです」
「似たようなものだと思っていただいて結構です」
「やっぱりかあ」
宗一郎は額を揉んだ。
レティシアが隣から言う。
「必要なら私が守る」
「それも駄目です」
「なぜだ」
「俺が何も知らないまま、全部レティシアに任せるのは違うでしょう」
名前で呼ばれたレティシアが、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。
その変化をオズワルドは見逃さなかったらしいが、何も言わなかった。
「俺自身が知っておかないと、知らないうちに店や周りの人まで巻き込むかもしれない。だから説明はちゃんと聞きます」
「よい判断です」
「ただし」
宗一郎は指を一本立てる。
「今日はもう駄目です」
オズワルドが初めて少しだけ怪訝な顔をした。
「と申しますと?」
「明日、レティシアと初デートなんですよ」
「……」
「その顔、何です?」
「いいえ」
「絶対何か言いたい顔ですよ」
「公的な説明は明後日にいたしましょう」
「助かります」
「ただし閣下」
「何だ」
「明日は本当にお休みになってください」
「午前の仕事は終わらせる予定だ」
「終わらせる、ではなく持ち込まないでください」
「分かっている」
宗一郎はその返事を聞いて、なぜだか嫌な予感がした。
翌日。
その予感は、見事に当たった。
「レティシア」
「何だ」
「その鞄、何です?」
二人が待ち合わせたのは、領都の北側にある小さな公園だった。
正確には城壁近くに造られた広い緑地で、低い木々と石造りの腰掛けが並び、小さな池まである。祭りが終わったばかりの町はまだ少し浮ついた空気を残しているが、この辺りは中心街ほど人が多くない。
そこへ現れたレティシアは、以前の買い出しと同じような簡素な私服姿だった。
問題は、その右手に持っている革鞄である。
「荷物だ」
「見れば分かります。中身です」
「少しだけ書類が入っている」
「少し?」
「本当に少しだ」
宗一郎は手を差し出した。
「貸してください」
「なぜだ」
「重さを確認します」
「必要ない」
「貸して」
レティシアは渋々渡した。
宗一郎が受け取る。
ずしりと重い。
「これのどこが少しなんですか!」
「紙の束が三つだけだ」
「厚さ五センチくらいありますけど!」
「緊急ではない」
「じゃあ何で持ってきたんです?」
「移動中に目を通せるかと思って」
「初デート中に?」
「待ち時間があれば」
「ないです」
「まだ何をするか聞いていないぞ」
「今決めました。仕事しない」
「それが予定か?」
「今日の最重要予定です」
宗一郎は革鞄を抱えたまま、はっきり言った。
「今日は『仕事をしない練習』をしましょう」
「何だそれは」
「レティシア、休むの下手でしょう」
「そんなことはない」
「祭りの日の朝も夜明け前から仕事してましたよね」
「必要だった」
「食堂へ来る前に公務を全部片づけようとして、予定詰め込んだこともありますよね」
「効率が良い」
「怪我した後も現場へ出ようとしましたよね」
「領主だからな」
「はい。全部それで押し切る」
宗一郎は鞄を持ち上げた。
「仕事ができる人って、仕事をたくさん抱えられる人だけじゃないですよ。休まないと判断が鈍るし、人にもきつくなる。会社でもいましたよ、休まないことを頑張ってる証拠みたいに考える人」
「私は部下に無理をさせてはいない」
「自分にさせてるでしょう」
レティシアは黙った。
宗一郎は少し言い方を柔らかくする。
「今日は半日だけです。公爵じゃなくて、俺の恋人として付き合ってください」
恋人、という言葉へ反応するように、レティシアの表情が変わった。
「……それを言われると、反論しにくいな」
「狙って言いました」
「卑怯だ」
「総務は交渉も仕事です」
「またソウムか」
「便利でしょう」
宗一郎は笑った。
「鞄はどうする」
「ガレスさんに返します」
「今日は護衛を遠くへ置いている」
「いるんですね?」
「当然だ」
宗一郎が周囲を見渡すと、かなり離れた木陰でガレスが立っていた。
目が合う。
宗一郎は革鞄を持ち上げて見せた。
ガレスが、ものすごく申し訳なさそうに頭を下げた。
「副団長、知ってたな……」
「止めたのだが」
「押し切った?」
「私は閣下だからな」
「そういうところ!」
結局、宗一郎はガレスへ書類鞄を預けた。
「夕方まで返さないでください」
「承知しました」
「ガレス!」
「三枝さんからの依頼ですので」
「私の部下だろう!」
「本日は恋人との休暇中と伺っております」
「オズワルドに言われたな!」
「申し上げられません」
「完全に家令側だ!」
宗一郎は笑いながらレティシアの腕を軽く引いた。
「ほら、行きますよ」
「どこへ」
「まず昼飯です」
「お前の店ではないのか?」
「今日は他の店に行きます」
レティシアが目を丸くした。
「なぜだ」
「俺、自分の店以外ほとんど知らないんですよ。こっちの普通の料理をもっと食べたい。それに、デートなのに俺が厨房へ入ったら結局仕事になるでしょう」
「なるほど」
「それと、恋人の作った飯じゃないと不満とか言わないでくださいね」
「言わん」
「今ちょっと言いそうな間がありましたけど」
「気のせいだ」
二人が入ったのは、市場の外れにある小さな食堂だった。
石壁の店内には四人掛けの卓が五つ。昼時より少し早いため、客はまだまばらだった。
店主はレティシアの顔を見て固まったが、宗一郎が「今日は普通の客として」と頼むと、ぎこちなく頷いた。
「こういうの、悪くないですね」
「何がだ」
「自分で作らない飯を食べること」
「お前は毎日作っているからな」
「一人暮らし長かったですし、外食するとお金かかりますから」
「今日は私が払う」
「割り勘で」
「なぜだ」
「初デートだから」
「私が誘ったのだから私が払う」
「俺が店選んだんですよ」
「なら半分ずつか」
「最初からそう言ってます」
レティシアが少し不満そうにする。
「何です?」
「恋人に食事を奢るのも駄目なのか」
「次はお願いするかもしれません」
「次があるのだな」
「付き合い始めた翌日に最終デートにしないでくださいよ」
「そうか」
急に機嫌が良くなる。
分かりやすい。
料理は、塩漬け肉と根菜を煮込んだ濃いめのスープ、黒パン、焼いた豆だった。
宗一郎は一口食べて、少し感心する。
「うまい」
「お前の料理より塩が強いな」
「肉体労働の人が多い地域なら、これくらいでもいいのかも。豆の焼き方も面白いな」
「料理人の顔になっているぞ」
「職業病みたいなものです」
「今日は仕事をしない練習では?」
「食べて分析するのは趣味です」
「ずるいな」
「じゃあレティシアも領主目線禁止」
「それは難しい」
「ほら、人のこと言えない」
二人で笑った。
その後は市場を歩いた。
買い出しではない。
本当に見るだけである。
祭り後の値下げ品を眺め、木工職人の店を覗き、路地で焼いていた甘い菓子を一つずつ買った。
「甘いな」
「嫌いです?」
「いや、好きだ」
「初めて聞いた」
「公爵として菓子が好きと言う必要がない」
「恋人には?」
「……言ってもよい」
「じゃあ覚えておきます」
レティシアは菓子を食べながら、少しだけ嬉しそうにした。
宗一郎も、その顔を覚えておこうと思った。
恋人になったからといって、相手のことを急に全部知るわけではない。
むしろ今まで見えなかったものを、一つずつ知っていくのだろう。
昼を過ぎるころ、二人は町外れの小高い丘へ向かった。
領都を見渡せる場所で、祭りの日には人が多かったらしいが、今日は静かだった。
石造りの腰掛けへ並んで座る。
風が少し冷たい。
「寒くないです?」
「平気だ」
「俺は少し寒い」
「弱いな」
「日本よりこっち寒そうなんですよ」
「なら近くに来い」
「え?」
レティシアが何でもないことのように言う。
「私の方が体温が高いのだろう?」
「そういう意味で言ったんじゃ……」
「嫌ならよい」
「その言い方ずるいなあ」
宗一郎は少しだけ距離を詰めた。
肩が触れる。
前なら、それだけでお互い固まっていただろう。
今日は緊張しながらも、そのままでいられた。
「宗一郎」
「はい」
「今日は、何もしていないな」
「してますよ。飯食って、菓子食って、歩いた」
「仕事の話だ」
「ああ」
「朝から数時間も書類を見ていない」
「どうです?」
「落ち着かん」
「正直ですね」
「城で何か起きていないか気になる」
「本当に緊急ならガレスさんが来ます」
「それは分かっている」
「なら、今は任せましょう」
「簡単に言うな」
「部下を信じるのも仕事ですよ」
レティシアは領都を見下ろした。
「父も似たことを言っていた」
「そうなんですか」
「ああ。私は若いころ、何でも自分でやろうとした。剣も、巡察も、書類も、兵の訓練も。父に『お前一人で全部できるなら、家臣はいらんのか』と叱られた」
「いいこと言いますね」
「そのときは腹が立った」
「今は?」
「分かる。だが、分かることとできることは別だ」
「そこはすごく分かります」
宗一郎は少し笑った。
「俺も会社にいたころ、人に頼むより自分でやった方が早いって抱え込んだ時期ありました。結果、残業増えて体調崩して、結局周りに迷惑かけた」
「お前でもそうなるのか」
「俺を何だと思ってるんです?」
「何でもできるソウム」
「できないから総務なんですよ。できる人を探して、頼んで、繋ぐのが仕事」
宗一郎は町を眺めた。
「だから休むのも同じです。自分がいない時間に回るようにする。それも管理職の仕事」
「私は管理職なのか」
「公爵なんて、究極の管理職みたいなものでしょう」
「夢のない言い方だな」
「肩書きは豪華ですけど、やってることは大変そうです」
レティシアが笑った。
「では今日の私は、休む練習をしているわけか」
「そうです」
「成績は?」
「午前中は赤点。書類持ってきたから」
「今は?」
「七十点くらい」
「残り三十点は?」
「仕事のこと考えてる」
「厳しいな」
「料理教室と同じです」
「恋人なのに厳しい」
「恋人だから甘やかすところは別にします」
「例えば?」
即座に返され、宗一郎が詰まった。
「……急に聞くなあ」
「言ったのはお前だ」
「じゃあ、寒いときに手を繋ぐとか」
「今寒いな」
「誘導しました?」
「偶然だ」
絶対に偶然ではない。
それでも宗一郎は笑いながら右手を差し出した。
レティシアが握る。
「これで七十五点」
「五点しか上がらんのか」
「採点厳しいんです」
「ではもう一つ」
「何を」
レティシアが宗一郎の肩へ少し体重を預けた。
「これなら?」
「……八十五」
「まだ十五足りない」
「欲張るなあ」
「公爵だからな」
「関係ないでしょう」
二人で笑った。
午後。
城へ戻る時間が近づき、宗一郎たちは公園へ戻った。
ガレスが待っている。
そして、例の革鞄もある。
レティシアの目がそちらへ向いた。
宗一郎はすぐ気づいた。
「今から仕事の顔した」
「夕方だからよいだろう」
「デート終了までは駄目」
「では、いつ終了だ」
「城門まで」
「分かった」
レティシアは鞄を見ないようにした。
その努力が少し可笑しかった。
城門へ向かう途中、彼女がぽつりと言った。
「宗一郎」
「はい」
「今日は、楽しかった」
「俺もです」
「何もしないのも、悪くないな」
「それが分かったなら八十五点から九十五点へ上げます」
「あと五点は?」
「次のデートまで取っておきます」
「なら近いうちにする」
「公務優先で」
「分かっている」
「書類持ち込み禁止」
「……分かった」
「今の間!」
「持ってこない!」
城門の前で、宗一郎は笑った。
レティシアも笑う。
昨日までは、恋人になるというのは手を繋ぐとか、名前で呼ぶとか、そういうことばかりだと思っていた。
けれど実際には、相手が無理をしていれば止めることも、休むのが苦手なら一緒に休むことも含まれるらしい。
宗一郎にとっても、それは初めて知る恋人の仕事だった。
「では明日、店へ行く」
「並んでくださいね」
「分かっている」
「野菜も」
「それは今関係ないだろう!」
最後までそこは譲らない。
宗一郎は手を振り、城へ戻るレティシアを見送った。
その後ろで、ガレスが革鞄を差し出す。
レティシアは受け取った瞬間に中を開こうとしたが、途中で宗一郎の方を見た。
二人の目が合う。
宗一郎が無言で首を振る。
レティシアは渋々、鞄を閉じた。
まだ城門の外だからだ。
「……真面目だなあ」
宗一郎が笑うと、遠くからレティシアの声が返ってきた。
「聞こえているぞ!」
「休みは大事ですよ!」
「分かっている!」
その日の夜。
宗一郎が食堂二階の部屋で眠る準備をしているころ、城ではレティシアが朝から我慢していた書類を猛烈な勢いで処理していた。
そして彼女の机の脇には、今日市場で宗一郎と一緒に買った小さな甘菓子の包み紙が、なぜか捨てられずに残されていた。




