第21話 女公爵の恋人になった翌日、店が地獄のように混みました
女公爵の恋人になった翌朝、三枝宗一郎が最初に考えたことは、恋人らしい何かではなかった。
「豆、あと二袋で足りるかな……」
厨房の棚を開け、残量を確認する。
祭りの影響で、この数日は普段より食材の減りが早い。昨日も想定以上に客が入り、鶏肉と根菜の煮込みは昼過ぎにはほぼなくなった。
宗一郎にとって、恋人ができようが求婚されようが、朝になれば仕込みは待ってくれない。
むしろ、その方がありがたかった。
昨日の出来事を落ち着いて思い返すと、どうしても顔が熱くなる。
レティシアから結婚を申し込まれた。
すぐ結婚するのではなく、まず恋人として付き合うことになった。
名前で呼んだ。
手も握った。
「……四十二歳で何やってるんだ、俺」
「何をなさったんです?」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、宗一郎は危うく豆の袋を落としかけた。
ニーナが裏口に立っている。
「またですか」
「だから急に声かけるのやめてって」
「普通に入ってきましたよ」
「俺がぼんやりしてた?」
「かなり」
「そうか……」
ニーナは意味ありげに笑った。
「恋人ができた翌朝ですから?」
「朝からそこ触れる?」
「昨日、三枝さんご自身が教えてくださったではありませんか」
「教えたけどさ」
宗一郎は逃げるように鍋へ向かう。
「今日は普通に営業するからね。普通に」
「はい」
「変なこと言わないでよ」
「私は何も言いません」
「その言い方が一番怪しいんだよなあ」
ところが、異変は開店一時間前から始まった。
表の方が騒がしい。
最初は祭りの片づけが続いているのかと思った。
しかし違う。
人の声が、明らかに店の前から聞こえてくる。
「ニーナ」
「はい?」
「外、見てきてくれる?」
「三枝さんが見ればよいのでは?」
「何か嫌な予感がする」
「昨日から嫌な予感ばかりですね」
「だいたい当たるから困るんだよ」
ニーナが表へ回り、扉を少しだけ開けた。
数秒後。
静かに閉める。
「どうだった?」
「並んでいます」
「何人?」
「ざっと三十人ほど」
宗一郎は包丁を置いた。
「……何で?」
「皆様、三枝さんを見にいらしたのでは」
「俺、動物園の珍獣じゃないよ?」
「銀狼公の恋人ですから」
「昨日の夕方決まったばっかりだよ!」
「この町では、かなり速く情報が回ります」
「速すぎるよ!」
宗一郎は頭を抱えた。
誰が広めたのか。
候補は多い。
ニーナ。
ガレス。
ミレイユ。
レティシア本人。
昨日店にいた三人しか知らないはずだが、三人とも人と関わる立場である。
「ニーナ」
「私は誰にも言っていません」
「先回りしたね」
「ただ、昨日城へ戻ったら、ガレス様とミレイユ様が別々の方向へ行かれました」
「……絶対そこだ」
「それからレティシア様が、執務室でオズワルド様に何かお話しになったそうです」
「三方向から広がってるじゃないか!」
もう止めようがない。
宗一郎は開店札を出す前から疲れ始めた。
「仕方ない。店は店だ。普通にやろう」
「三枝さん」
「何?」
「今日は多めに作った方がよいのでは?」
宗一郎は鍋を見る。
今日の予定は四十食。
普段なら十分な量だ。
だが外にはすでに三十人。
「……増やす」
「どれくらい?」
「できる範囲で。六十」
「足りますか?」
「それ以上は無理。急に増やして味落としたら意味ないから」
そこは譲れなかった。
客が増えたからといって、量を水で伸ばして味を落とす。
そんなことをすれば、今日だけは売れても明日から客は戻らない。
「あと、ニーナ」
「はい」
「見物だけなら帰ってもらう。食べる人優先」
「分かりました」
「それと、公爵様の話を聞かれても、俺から勝手に何でも喋らない」
「恋人としての配慮ですか?」
「普通の個人情報の話!」
宗一郎の声が厨房に響いた。
昼前。
店を開けた瞬間、列が動いた。
「三枝さん、本当に付き合ってるのか!」
「昨日求婚されたって本当!?」
「閣下のどこが好きなんだ!」
「結婚はいつだ!」
「順番に入って! ここ食堂だから!」
宗一郎は入口で早くも叫ぶ羽目になった。
「恋愛相談所じゃないです! 飯食べる人から入ってください!」
「じゃあ飯食えば聞いていいのか?」
「そういう理屈じゃない!」
笑い声が上がる。
最初の十人が店内へ入る。
座席は六卓しかない。
詰めても十八人ほどが限界だった。
しかも、今日は普段見ない顔が多い。
祭りで肉串を食べた者。
噂を聞いた近隣の住民。
商人。
若い娘たち。
なぜか老夫婦までいる。
「三枝さん」
八百屋の主人が席につきながらにやにやしている。
「何です?」
「やるじゃないか」
「何を」
「閣下だよ」
「その言い方やめてください」
「求婚されたんだろ?」
「何でそこまで知ってるんです!」
「朝から市場中その話だぞ」
「俺、明日から市場行きたくないなあ……」
隣の縫い物屋の女性が笑う。
「でも良かったじゃないか。あれだけ周りが気づいてるのに本人だけ分かってなかったんだから」
「そんなに酷かったです?」
「酷かったねえ」
「即答しないでくださいよ」
「何度『閣下はあんたが好きなんじゃないか』って言いかけたことか」
「言ってくださいよ!」
「面白かったから」
「この町、本当に娯楽少ないな!」
店内に笑いが広がった。
宗一郎も、ここまではまだ笑えた。
問題は、その後だった。
「三枝さん、二人!」
「こっち三人!」
「持ち帰りできる?」
「今日は無理です! 店内だけ!」
「閣下はまだ来ないのか?」
「俺に聞かれても!」
客が入れ替わっても、外の列が減らない。
ニーナが会計と案内を担当し、宗一郎がひたすら料理を出す。
昼を過ぎるころには、追加した六十食の半分以上が消えた。
「早いな……」
宗一郎は鍋の残りを確認した。
料理自体は出せる。
問題は、いつもの客の姿が見えないことだった。
八百屋や縫い物屋など、馴染みの者は朝一番で来た。
だが普段なら昼過ぎに来る荷運び人や職人たちが来ない。
「ニーナ」
「はい」
「いつもの人たち、今日少なくない?」
ニーナも少し周囲を見た。
「そうですね」
「祭り疲れかな」
「それもあるかもしれませんが……」
言いにくそうにする。
「何?」
「店の前を見て、帰った方を何人か見ました」
「帰った?」
「列が長すぎるので」
宗一郎の動きが止まった。
「そっか」
それは当然だった。
昼休みの短い職人や荷運び人が、珍しい噂目当ての客に混じって三十分も一時間も並べるわけがない。
いつもの食堂へ、いつもの飯を食べに来たのに入れない。
宗一郎の胸に、喜びとは違うものが引っかかった。
「……これ、良くないな」
「三枝さん?」
「売上は増えてる。でも、これが続いたら常連さんが来られなくなる」
「今日は特別では?」
「たぶんね。でも、放っておくのも違う気がする」
宗一郎は手を止めず考えた。
客が増えるのはありがたい。
金にもなる。
店の知名度も上がる。
けれど、自分が作りたかったのは、公爵の恋人を見物するための観光施設ではない。
腹を空かせた近所の人が、普通に飯を食える店だ。
「ニーナ」
「はい」
「次から列の先頭で、『食事目的の方だけ』ってもう一度伝えて。見物だけの人は遠慮してもらおう」
「分かりました」
「あと、明日から一部の席を短時間の人優先にする。昼休みで急いでる職人さんとか」
「席を分けるんですか?」
「二卓くらい。長居はなし。その代わり早く食べて出られるよう、料理も一種類にする」
「なるほど」
「店が人気になったせいで、今まで来てくれてた人が困るのは嫌だから」
ニーナは少し笑った。
「三枝さんらしいですね」
「誉めてる?」
「はい」
「なら受け取っとく」
そのとき、店の扉が開いた。
ざわめきが一瞬で変わる。
宗一郎は見なくても分かった。
「……来たな」
レティシアだった。
今日は仕事の途中らしく、簡素な公務服を着ている。
後ろにはガレス。
店へ入った瞬間、客たちの視線が一斉に集まった。
「閣下!」
「本当に来た!」
「恋人の店に!」
レティシアの眉がぴくりと動く。
「何だ、この騒ぎは」
「こっちが聞きたいですよ」
宗一郎は厨房から答えた。
「あなたのせい半分、俺のせい半分です」
「私のせい?」
「昨日のこと、城で喋りました?」
「オズワルドには話した」
「それだけ?」
「執務上必要だった」
「ガレスさん」
宗一郎が見る。
ガレスは目を逸らした。
「副団長」
「聞かれたので、事実だけを」
「誰に?」
「騎士団長に」
「その人が?」
「部下に」
「はい、拡散経路一つ確定」
「申し訳ありません」
「ミレイユさんも絶対どこかで言ってるな……」
レティシアは店内を見回した。
いつもの席も埋まっている。
窓際の卓には若い夫婦が座っていた。
「私の席がない」
「今日は満席です」
「私は常連だぞ」
「常連でも並びます」
店内が静かになった。
公爵へ「並べ」と言う店主を、皆が見ている。
宗一郎も言った後で少しだけまずかったかと思った。
しかしレティシアは怒らなかった。
「どれくらいだ」
「今なら三組待ち」
「分かった」
そう言って、本当に外へ出ようとする。
今度は宗一郎が驚いた。
「並ぶんです?」
「店では客なのだろう?」
「そうですけど」
「なら従う」
外の客たちの方が慌てた。
「いやいや閣下、先にどうぞ!」
「我々は後で!」
「そうですよ!」
レティシアは振り返った。
「宗一郎が並べと言った。私は従う」
「公爵様、俺の言うこと全部聞く人じゃないですよね」
「今は店の規則の話だ」
宗一郎は少し笑った。
「じゃあ三組後で」
「ああ」
レティシアは本当に外へ出た。
ガレスも後ろへ続く。
店内がざわついた。
「すげえな、店主……」
「公爵を並ばせたぞ」
「何かもう夫婦みたいだな」
「違います!」
宗一郎の声が響いた。
数人が笑う。
だが、宗一郎にはその一件が少し嬉しかった。
レティシアが自分の店を、特権を使う場所にしなかったからだ。
三十分ほどして、ようやく彼女の番が来た。
「お待たせしました」
「遅い」
「並ぶってそういうものです」
「知っている」
「何食べます?」
「今日の料理は一つしかないのだろう」
「正解」
宗一郎はスープとパン、野菜を載せた皿を出した。
レティシアが席につく。
ただ、周囲の視線が強い。
「……食べにくい」
「ですよね」
「普段から私はこんなに見られているのか?」
「今日は特別です」
「なぜだ」
「恋人だから」
自分で言ってから、宗一郎も少し照れた。
レティシアはスプーンを止めた。
「もう一度言え」
「料理冷めますよ」
「逃げたな」
「忙しいんです」
レティシアは少し笑って、食事を続けた。
昼営業が終わったのは、いつもより一時間以上遅かった。
六十食は完全に売り切れた。
売上だけ見れば過去最高だった。
しかし宗一郎は、空になった鍋を見ても素直には喜べなかった。
「疲れた……」
椅子へ座り込む。
レティシアはまだ残っていた。
「成功だったな」
「売上だけなら」
「何か問題があるのか」
宗一郎は今日のことを話した。
常連が列を見て帰ったこと。
見物目的の客が多かったこと。
このまま「公爵の恋人の店」としてだけ有名になるのは困ること。
「せっかく来てくれてた人たちが、俺たちのせいで入りづらくなるのは嫌なんですよ」
レティシアはすぐには答えなかった。
「……私が来ない方がよいか」
「それは違います」
「だが私が来れば人が集まる」
「今日だけかもしれないし、しばらく続くかもしれない。でも、あなたを追い出して解決するのも変でしょう」
「ならどうする」
「店側で工夫します。昼の一部席を短時間客優先にして、長居したい人は少し遅い時間へ。見物だけの人は断る。あと、外に献立と『普通の食堂です』って書いてもらう」
「普通の食堂」
「大事です」
「女公爵が毎日来る普通の食堂か」
「そこはもう諦めました」
レティシアが笑った。
だがすぐ、少し真面目な顔になる。
「宗一郎」
「はい?」
「私と付き合ったことで、お前の店が困るのなら……」
「そこ、変に責任取ろうとしないでください」
「だが」
「俺、自分で付き合うって決めたでしょう?」
「そうだが」
「だったら、起きた問題も一緒に考えればいいんですよ。公爵様だから全部自分の責任にするの禁止」
「またそれか」
「何度でも言います」
「恋人になっても、うるさいな」
「恋人になったからって急に甘くなると思いました?」
「少しは」
「残念でした」
宗一郎は笑った。
レティシアも、少し遅れて笑う。
「では私にできることは?」
「一つあります」
「何だ」
「明日から普通に来てください」
「普通に?」
「変に遠慮して来なくなる方が、余計噂になります」
「確かに」
「それと、店では特別扱いなし」
「分かっている」
「満席なら並ぶ」
「今日も並んだ」
「野菜は残さない」
「それは別問題だろう!」
「同じ店のルールです」
「横暴だ!」
「公爵様に横暴って言われたくないなあ」
厨房の奥で片づけをしていたニーナが吹き出した。
「ニーナ」
「申し訳ありません」
「笑っているだろう」
「はい」
「認めた!?」
いつもの空気に戻る。
それだけで宗一郎は少し安心した。
恋人になったからといって、二人の関係が急に別物になる必要はない。
むしろ、この騒がしさの延長に恋愛が加わったくらいでいいのかもしれない。
夕方。
店の表に、新しい木札が掛けられた。
ニーナが書いてくれた文字を、宗一郎が何度も確認する。
『ここは普通の食堂です。食事をする方を優先します。昼の一部席は仕事中の方を優先します』
その下に、ニーナが勝手に小さく付け足していた。
『公爵閣下も順番を守ります』
「ニーナ」
「はい?」
「最後の一文いる?」
「説得力があります」
「確かにあるけど」
宗一郎は消そうか迷った。
結局、そのままにした。
翌朝。
店を開けると、昨日ほどではないものの十数人が待っていた。
その列の最後尾に、簡素な服を着たレティシアが立っていた。
「……何してるんです?」
「順番だ」
「まだ開店前ですよ」
「だから並んでいる」
「今日は一番じゃないんですね」
「途中で子供に抜かれた」
「譲ったんでしょう」
「違う」
前にいた子供が振り返る。
「お姉ちゃんが先でいいって言った!」
レティシアの顔が少し赤くなった。
「公爵様」
「何だ」
「良い恋人ですね」
言った瞬間、今度は宗一郎の方が恥ずかしくなった。
レティシアは一瞬だけ目を丸くし、それから満足そうに笑う。
「知っている」
「そこは謙遜してくださいよ」
列に並んでいた客たちが笑った。
昨日ほどの熱狂ではない。
それでも、この店が以前とまったく同じに戻ることはもうないのだろう。
宗一郎はそれを、少しだけ怖いと思った。
同時に、悪くないとも思った。
変わったのなら、変わったなりにやっていけばいい。
その日の昼過ぎ。
食堂の混雑が落ち着いたころ、今度は笑って済ませにくい人物が店へ現れる。
公爵家家令、オズワルド・ベルク。
宗一郎を見るなり、彼はいつも以上に厳しい顔で言った。
「三枝殿。閣下との交際について、公的な話をしなければなりません」
恋人になったというのは、どうやら二人だけの問題では済まないらしい。
宗一郎はそこで初めて、公爵の恋人という肩書きの重さを、本格的に知ることになる。




