第23話 恋人になっても、公爵様は野菜を残します
恋人になれば、相手の欠点まで少し可愛く見える。
そんな話を、三枝宗一郎は昔どこかで聞いたことがある。
たぶん間違いではない。
ただし、可愛く見えることと、許していいことは別問題だった。
「レティシア」
「何だ」
「その皿、俺に見えないように少しずつ右へずらしてません?」
「気のせいだ」
「じゃあ戻してください」
「なぜだ」
「残ってるからです」
昼営業の終わり。
最後の客が帰り、店内には宗一郎とレティシア、それに会計の片づけをしているニーナだけが残っていた。
今日の献立は、香草を利かせた鶏肉の煮込み、焼いたパン、そして蒸した青菜と根菜を果実酢で和えた温野菜である。
鶏肉はない。
パンもない。
汁もきれいに飲み干している。
残っているのは野菜だけだった。
しかも偶然ではない。
皿の端へ青菜を寄せ、その上へ根菜を載せ、さらに空になった小鉢を少し重ねている。
四十二歳まで会社勤めをしてきた宗一郎には、この手の「気づいているけれど気づかないでほしい細工」を何度も見てきた。
机の引き出しへ壊れた備品を隠す社員。
冷蔵庫の奥へ賞味期限切れの土産菓子を押し込む部署。
責任者不明の書類を、他部署の棚へそっと移す人間。
そして今、目の前には野菜を隠す女公爵がいる。
「公爵ともあろう人が、何してるんです?」
「恋人になったのだから、少しくらい甘くしてもよいだろう」
「その理屈、初めて聞きました」
「恋人とは、相手を甘やかすものではないのか」
「場合によります」
「私は今、甘やかされたい」
「野菜を残す方向で?」
「ああ」
「駄目です」
「即答だな!」
レティシアが不満そうに宗一郎を見る。
以前なら、この顔を見ても「また始まったな」で済んだ。
今は少し違う。
恋人になったせいか、その不満げな顔さえ以前より近く感じる。
だからこそ、甘やかしたくなる気持ちがまったくないわけではなかった。
それでも、宗一郎は皿を指した。
「食べてください」
「宗一郎」
「はい」
「私は昨日、午前中だけで十三件の決裁をした」
「お疲れさまです」
「騎士団の訓練計画も見直した」
「大変でしたね」
「北の街道補修について、商人組合とも話した」
「頑張りましたね」
「褒めているのだから、その流れで『今日は残していい』と言うところではないのか」
「仕事頑張った大人に野菜免除制度はありません」
「冷たい男だな」
「恋人になった途端、食生活まで崩したら俺の方が駄目でしょう」
レティシアは、しばらく青菜を見た。
それから一本だけフォークで持ち上げる。
「これが多い」
「半分以上残してる人が言う量じゃないですよ」
「青い」
「青菜ですから」
「苦い」
「今日はかなり食べやすくしました」
「それでも苦いものは苦い」
ニーナが奥で口元を押さえている。
宗一郎はそちらを見た。
「ニーナ」
「はい」
「笑ってる?」
「少しだけです」
「正直だなあ」
レティシアが振り返る。
「お前まで笑うな」
「申し訳ありません。でも閣下が、野菜一皿でここまで粘るとは思わなくて」
「これは野菜の話ではない」
「何の話なんです?」
「恋人への配慮だ」
ニーナが一瞬黙り、それから宗一郎を見た。
「三枝さん、これは難しい問題ですね」
「乗らないでくれる?」
「私はもう城へ戻りますので、お二人でよく話し合ってください」
「逃げた!」
「失礼します」
ニーナは会計箱を抱え、妙に晴れやかな顔で店を出ていった。
扉が閉まる。
食堂に二人きりになる。
それまで少し芝居がかった不満顔をしていたレティシアが、急に宗一郎を見る目を変えた。
「本当に駄目か」
「何がです?」
「少しくらい、特別扱い」
さっきまでと似た言葉だ。
だが今度は野菜だけの話ではないと、宗一郎にも分かった。
「特別扱いなら、してますよ」
「どこがだ」
「店であなたの顔を見ると嬉しいし、来ないと気になる。休みの日に会いたいとも思う。手も繋ぐし、名前でも呼ぶ」
「……それは」
「それは?」
「もっと言ってもよい」
「調子に乗らない」
「恋人だぞ」
「便利に使うなあ、その言葉」
宗一郎は笑った。
「でも、食事のことで言えば別です。恋人だからって、体に悪いことまで見逃すのは違うでしょう」
「一日くらいなら問題ない」
「一日だけならね。でもあなたの場合、その一日が三日になって一週間になります」
「信用がないな」
「実績があります」
「いつの実績だ」
「初めて城で朝食見たとき、肉ばっかりだったでしょう」
「……昔の話だ」
「二週間ちょっと前ですよ」
「十分昔だ」
「異世界の時間感覚、短すぎません?」
レティシアは渋々、青菜を一口食べた。
顔が露骨に嫌そうになる。
「そんなに嫌いなんです?」
「嫌いだ」
「子供みたいに堂々と言いますね」
「嫌いなものを好きと言う方が不誠実だろう」
「そこだけ立派な理屈にするなあ」
宗一郎は向かいの椅子へ座った。
「じゃあ、何が嫌なんです? 味? 匂い? 食感?」
「全部ではない」
「具体的には?」
レティシアは少し考えた。
「この葉は、噛んだ後に苦味が残る。根菜は甘いからまだよい。あと、茎が硬いものは嫌いだ」
「なるほど」
「何だ」
「今まで『野菜が嫌い』でまとめてたけど、全部嫌いなわけじゃないんですね」
「そう言っただろう」
「じゃあ調整できます」
「……調整?」
「青菜をもっと細かく切るとか、軽く焼いて香ばしくするとか。酸味を少し減らして、蜂蜜をほんの少し足すとか」
「そんなことまでして食わせるのか」
「そこまでしたら食べます?」
レティシアは、すぐには答えなかった。
「……試してから決める」
「それでいいです」
「残しても怒らないか」
「全部駄目ならね。味が嫌いなのと、最初から食べる気がないのは別だから」
宗一郎がそう言うと、レティシアは少し意外そうな顔をした。
「もっと『黙って食べろ』と言われるかと思った」
「俺、そこまで雑じゃないですよ」
「いつも食べろと言う」
「必要だから。でも、嫌いなものを毎日同じ形で出して、根性で食べろっていうのも違うでしょう」
「料理人らしいな」
「だから料理人じゃないです」
「もう諦めたらどうだ」
「そこはまだ抵抗します」
二人で笑った。
宗一郎は残っていた野菜を厨房へ持っていった。
「今から作り直すのか?」
「少しだけ」
「営業は終わったぞ」
「だから実験です」
「仕事を増やしている」
「誰のせいです?」
「野菜のせいだ」
「責任転嫁がひどい」
青菜を細かく刻み、油を薄く引いた鍋で表面を軽く焼く。根菜は少し潰し、果実酢は控えめにして蜂蜜と塩をわずかに加えた。
香ばしい匂いが立ち始める。
「これならどうかな」
小皿へ載せ、レティシアの前に置く。
「毒見は?」
「自分で作って毒入れる意味あります?」
「冗談だ」
「最近冗談覚えましたね」
「お前のせいだ」
レティシアが一口食べる。
宗一郎は黙って反応を待った。
「……前よりよい」
「本当?」
「ああ。苦味が弱い」
「じゃあ今後はこっち寄りにします」
「全部これにできるか」
「他の客もいるから、あなた専用に毎回は無理。でも家で食べるならできますよ」
「家?」
「いや、城でも、俺の店でも、二人で食べるときって意味です」
宗一郎が言い直すと、レティシアが少しだけ目を細めた。
「二人で食べるとき、か」
「そこだけ拾わなくていいです」
「大事なところだ」
レティシアは、今度は自分から残りを食べた。
全部ではない。
だが先ほどより明らかに進みが早い。
「食べられるじゃないですか」
「お前が作り直したからだ」
「じゃあ今日は合格」
「何の?」
「野菜」
「恋人としては?」
「何で採点制になってるんです?」
「昨日お前がデートを採点した」
「覚えてたのか」
「当然だ」
宗一郎は少し考えるふりをした。
「じゃあ八十点」
「低い」
「野菜隠したから減点」
「そこまで響くのか」
「大人が小鉢で隠したから十点」
「厳しすぎる」
「残り十点は?」
「何だ」
「恋人になってから、ちょっと甘やかせって圧が強い」
「それは加点要素だろう」
「自己評価高いなあ」
レティシアは不満そうにしながら、それでも最後の根菜まで食べた。
皿が空になる。
宗一郎は満足して下げようとした。
その手を、レティシアが止める。
「何です?」
「野菜は食べた」
「はい」
「なら甘やかせ」
「交換条件だったんです?」
「今決めた」
「無茶苦茶だなあ」
宗一郎は苦笑した。
「何をしてほしいんです?」
レティシアは、そこで少しだけ迷った。
戦場では迷わない女が、こういうことになると急に言葉を選ぶ。
「……もう少しだけ、ここにいろ」
「店閉めますけど」
「分かっている。だから、片づけが終わるまででよい」
それだけだった。
宗一郎は一瞬、もっと何かを要求されると思っていた自分が恥ずかしくなった。
「そんなのでいいんです?」
「そんなの、とは何だ」
「いや、もっと手を繋ぐとか、何か食べるとか」
「それも悪くないが」
レティシアは少しだけ笑った。
「今日は忙しかった。城へ戻れば、また人がいる。だから少しだけ、何も話さずここにいたい」
宗一郎は、その言葉を聞いてようやく気づいた。
レティシアは「甘やかせ」と言った。
その意味は、好きなものだけ食べさせろという話ではなかったのだ。
ただ、気を抜ける時間がほしかった。
「分かりました」
「よいのか」
「恋人なんでしょう?」
「……ああ」
「じゃあ、それくらいは」
宗一郎は皿を持って立ち上がる。
「ただし」
「何だ」
「手伝ってください」
「甘やかす話ではなかったのか!」
「一人で片づけるより早く終わるでしょう。その分ゆっくりできます」
レティシアは呆れた顔をした。
「本当に甘くないな、お前は」
「今さらでしょう」
結局、レティシアは卓を拭き、宗一郎は厨房の洗い物を片づけた。
公爵に雑巾を持たせるのはどうなのかと一瞬思ったが、本人が妙に楽しそうなので放っておくことにした。
「そこ、拭き残し」
「細かい」
「店だから」
「恋人にもう少し優しくしろ」
「雑巾がけに恋愛持ち込まないで」
そんなことを言い合っているうちに片づけは終わった。
宗一郎は二人分の温かい茶を淹れ、窓際の席へ座った。
外では夕方の町がゆっくり静かになり始めている。
レティシアは茶を飲みながら、何も言わなかった。
宗一郎も無理に話さなかった。
ただ同じ卓に座っている。
それだけで、少し前とは違う。
「宗一郎」
しばらくして、レティシアが口を開いた。
「何です?」
「今日の野菜」
「はい」
「次も、あの焼いた方なら食べる」
「分かりました」
「だが全部の野菜を好きになったわけではない」
「それでいいですよ」
「無理に好きにならなくてもよいのか」
「食べられる方法を増やせば十分でしょう」
「そうか」
レティシアは少し考えてから言った。
「では、お前も嫌いなものがあれば言え」
「俺?」
「ああ。私ばかり直されるのは不公平だ」
「何で料理の話から俺の欠点探しになるんです?」
「恋人だから互いに知るのだろう」
「そう来たか」
宗一郎は笑った。
「じゃあ、そのうち話します」
「今では駄目か」
「今日はあなたの野菜の日です」
「逃げたな」
「順番です」
レティシアは不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。
代わりに卓の上で手を伸ばし、宗一郎の指先へ触れる。
今度は宗一郎も逃げない。
そのまま手を重ねた。
「これで少しは甘いですか?」
「……まあまあだ」
「採点厳しいな」
「お互い様だ」
恋人になっても、レティシアは野菜を残す。
宗一郎も急に格好いい男にはならない。
身分差もなくならず、仕事も減らない。
それでも、嫌いなものをどう食べるか一緒に考え、疲れているなら黙って同じ場所にいる。
恋愛というものは、もっと特別で派手なものだと思っていた。
実際は案外、こういう面倒な日常の積み重ねなのかもしれない。
宗一郎は、それなら自分にも続けられそうだと思った。
ただし翌日。
レティシアは、宗一郎が人前で初めて何気なく「レティシア」と名前で呼んでしまっただけで、朝から夕方まで妙に機嫌が良くなる。
そしてその変化に最初に気づいたのは、当然ながら本人ではなく、城中の使用人たちだった。




