第14話 女公爵が知らない男に嫉妬しているらしい
料理教室を始めた翌日、三枝宗一郎は、朝から店の裏口で一人の男と向き合っていた。
年齢は宗一郎より少し若い、三十代後半くらいだろう。日に焼けた顔に短い黒髪、少し癖のある笑い方をする男で、仕立ての良い旅装を身につけている。
男の後ろには二台の荷車が止まり、小麦粉、乾燥豆、香草、油、それに宗一郎がまだ見たことのない赤褐色の乾燥果実が積まれていた。
「つまり、この油を買わないかって話ですか?」
「それだけなら、わざわざ俺が店主殿に会いに来る必要はないな」
男は小さく笑った。
「アルノー・フェルグ。南部を中心に食料品を扱っている商人だ。領都へ来たのは昨日だが、この店の噂は三日前から聞いていた」
「俺の店の噂って、そんな遠くまで行ってるんです?」
「料理の噂もあるが、どちらかというと女公爵閣下の噂だな」
「そっちかあ……」
宗一郎は納得してしまった。
異世界から来た四十二歳のおじさんが小さな食堂を始めた、と言われても大して面白くはない。
しかし、戦場で「銀狼公」と恐れられている女公爵が庶民向けの食堂へ毎日のように通い、前掛けまでつけて料理を習っているとなれば、話の種としては十分すぎる。
「昨日なんて、『銀狼公が卵を握り潰した』という話まで聞いたぞ」
「もうそこまで広がってるんですか」
「事実か?」
「……本人の名誉のために、回答は控えます」
「その顔で十分だな」
アルノーが声を上げて笑った。
宗一郎としては、笑い事ではない。
レティシア本人の耳に入れば、また「誰が広めた」と騎士団を巻き込んだ犯人探しが始まりかねない。
「それで、本当の用件は?」
「食べてから話す」
「まだ開店前ですよ」
「金は払う」
「そういう問題じゃないんですが……」
「昨日の夜から何も食っていない」
「先に言ってくださいよ」
腹を空かせた人間を追い返すのは、どうにも苦手だった。
宗一郎は諦めて店へ入れ、朝の仕込みで作っていた豆と鶏肉のスープ、それに焼いたパンを出した。
「朝飯なので、店で出すものより簡単ですよ」
「構わん」
アルノーは最初の一口こそ無言だったが、二口、三口と進むにつれて食べる速度が上がった。
「肉が少ないな」
「朝から重くしたくなかったので」
「なのに物足りなくない」
「豆が入ってますからね。あとは野菜を少し多めにしてます」
「塩も少ない」
「薄いです?」
「いや。香草が効いているから、これでいい」
商人らしく、ただ美味いと食べるだけではなく、材料や量まで見ているようだった。
宗一郎は少し面白くなった。
「料理、分かるんです?」
「作る方はさっぱりだ。ただ、売る物について何も知らない商人は長生きしない。油が悪ければ料理人に怒鳴られるし、小麦が湿っていればパン屋には二度と買ってもらえんからな」
「なるほど。それは俺も助かります」
「だから来た」
アルノーはパンをちぎりながら言った。
「店主殿、仕入れで困っているだろう?」
宗一郎の手が止まった。
「分かります?」
「分かるさ。この店の規模で毎日献立が少し変わる。市場でその日に安い物を拾っているんだろう。それ自体は悪くないが、客が増えれば追いつかなくなる」
図星だった。
宗一郎は毎朝市場を歩き、値段と状態を見ながら買っている。
今は三十食前後だからどうにかなっているが、四十、五十と増えれば仕入れだけで朝が終わりかねない。
「うちなら、麦粉、油、豆、塩、乾燥肉くらいは定期的に運べる。量を決めてもいいし、必要なときだけ頼んでもいい」
「ありがたい話ですね」
「だろう?」
「でも、俺みたいな小さい店にそこまでして、アルノーさんに得あります?」
宗一郎が尋ねると、男は笑った。
「そこを聞くか。普通なら値段から入るぞ」
「得がなかったら続かないでしょう。最初だけ安くして、後から高くされるのも困りますし」
「慎重だな」
「四十二ですから」
「その年齢は便利な理由になるんだな」
「最近、俺もそう思います」
アルノーは最後のスープを飲み干した。
「正直に言えば、今の取引だけなら大した儲けにはならん。だが俺は、この店が大きくなると思っている」
「店を大きくするつもりはないですよ」
「店主殿がそう思っていても、客が決めることもある」
「怖いこと言いますね」
「商売なんてそんなものだ」
アルノーは身を乗り出した。
「それと、もう一つ提案がある。もしその気になったら、南の交易町に二号店を出さないか?」
「……二号店?」
「資金は俺が出す。店も探す。店主殿は料理のやり方と人を育ててくれればいい」
「いやいや、待ってください」
宗一郎は両手を上げた。
「俺、この店を始めてまだ十日くらいですよ」
「だから今すぐではない」
「料理人でもないですし」
「その言い訳は、もう客には通用してないんじゃないか?」
「それを言われると痛いなあ」
自分でも最近、何者なのか分からなくなってきている。
元食品会社の総務。
現在、異世界の食堂店主。
週に一回は料理教室の先生までやることになった。
履歴書へ書いたら、採用担当者が混乱する経歴である。
「話だけは覚えておきます。でも今は無理です。この店だけでも手いっぱいなので」
「それでいい。断らないなら十分だ」
「いや、保留ですからね?」
「商人は保留を『まだ可能性がある』と読む」
「面倒な職業だなあ」
「お互いにな」
そんな話をしているところへ、店の扉が開いた。
「宗一郎、今日は――」
声が止まった。
宗一郎が振り返る。
レティシアだった。
今日は午前の公務の合間なのか、簡素な濃紺の上着に細身のズボンという格好で、後ろにはガレスがいる。
「おはようございます」
「ああ」
レティシアは返事をしたが、いつものように真っ直ぐ窓際の席へは向かわなかった。
アルノーを見ている。
「……誰だ」
「アルノー・フェルグさん。南部の商人だそうです。食材の仕入れについて相談してたんですよ」
「そうか」
返事は短い。
アルノーが立ち上がり、商人らしい丁寧な礼をした。
「これはアルヴェイン公爵閣下。お噂はかねがね」
「どの噂だ」
「北部を守る名領主という噂でございます」
「今、一瞬考えただろう」
「商人ですので」
「正直だな」
宗一郎は少し笑った。
「アルノーさん、さっき公爵様が卵を握り潰した噂まで知ってましたよ」
「宗一郎!」
「なぜ言う!」
「秘密にする約束してないでしょう」
「名誉を守ると言ったではないか!」
「本人が来る前の話です」
「同じだ!」
アルノーは笑いをこらえながら頭を下げた。
「なるほど。噂より楽しそうなお方ですな」
「何だ、その噂は」
「聞かない方がいいですよ、公爵様」
「なぜお前が止める」
「平和のためです」
レティシアは不満そうだったが、それ以上追及しなかった。
代わりに、アルノーの前に置かれた空の器を見る。
「宗一郎」
「はい?」
「そいつに飯を出したのか」
「朝から何も食べてないって言うから」
「まだ開店前だろう」
「そうですけど」
「私は以前、開店前に来たとき断られたぞ」
宗一郎は記憶を探った。
「そうでしたっけ?」
「忘れたのか!」
「いや、毎日来るから、どの日の話か分からなくなってきて」
「私は毎日ではない!」
ガレスが後ろで咳をした。
「副団長」
「何も申し上げておりません」
「顔が言っている!」
宗一郎は苦笑しながら新しい器を出した。
「じゃあ公爵様も食べます?」
「……食べる」
「最初からそう言えばいいのに」
「私が催促したようではないか」
「今かなり催促してましたよ」
レティシアは窓際ではなく、なぜかアルノーの向かいへ座った。
宗一郎は少し首を傾げた。
「いつもの席、空いてますよ」
「今日はここでよい」
「そうですか」
特に意味もないのだろうと思い、宗一郎はスープを温め直した。
しかし、アルノーは意味が分かったらしい。
口元が少し笑っている。
「閣下はこちらの店へよく?」
「領都視察だ」
「毎日ですか」
「毎日ではない」
「ほぼ毎日です」
厨房から宗一郎が訂正する。
「宗一郎!」
「昨日も来たでしょう」
「昼食を食べただけだ!」
「それを客って言うんですよ」
アルノーは楽しそうに二人を見る。
「なるほど。店主殿が領都を離れるのは難しそうだ」
レティシアの動きが止まった。
「どういう意味だ」
声が少し低くなった。
宗一郎は鍋をかき混ぜながら答えた。
「さっき、南の町にも店を出さないかって話をもらったんですよ」
「何?」
「いや、断りましたよ。正確には保留ですけど」
「保留?」
「今すぐは無理だから」
「今すぐでなければ行くのか」
「まだ何も決めてませんって」
レティシアはアルノーを見る。
「なぜ宗一郎を南へ連れていく」
「連れていくとは言っておりません。腕のある店主に商売の話をしただけでございます」
「宗一郎は料理人ではない」
宗一郎が厨房から顔を出した。
「それ、俺が言うなら分かるけど、公爵様が言うんです?」
「お前がいつも言っている」
「まあ、そうですけど」
「それに、こいつはこの領都で店を始めたばかりだ」
「承知しております」
「なら、しばらく放っておけ」
「閣下」
アルノーが笑った。
「それは領主としてのお話ですか?」
「当然だ」
返答が速かった。
少し速すぎるくらいだった。
「有益な人材が領外へ流れるのを防ぐのは、領主として当然だろう」
「なるほど」
「何だ、その顔は」
「いえ。領主として、ですな」
「そう言った」
アルノーは宗一郎を見る。
宗一郎は肩をすくめた。
「うちの公爵様、仕事熱心なんですよ」
レティシアが何か言いかけ、やめた。
なぜか少し機嫌が悪くなったように見える。
宗一郎には理由が分からなかった。
それから始まった昼の営業でも、レティシアは妙だった。
いつもなら食べ終われば、もう一杯欲しいと言うか、宗一郎の料理へ感想を言う。
今日は違う。
「宗一郎」
「はい」
「あの男とは、いつ知り合った」
「今日です」
「以前から取引は?」
「ないですよ」
「南の町へ行ったことは?」
「異世界に来て十日ちょっとですよ。領都と城くらいしか知りません」
「南へ行きたいのか」
「何です、急に」
「聞いただけだ」
「旅行なら行ってみたいですけど、今は店がありますからね」
「そうか」
レティシアは葉野菜を食べる。
いつもより少し強く噛んでいる。
「公爵様」
「何だ」
「野菜に恨みでも?」
「ない」
「今日、やけに噛んでますよ」
「硬いのだ」
宗一郎も同じ野菜を食べてみた。
「普通ですよ」
「私には硬い」
「歯、大丈夫です?」
「そういう意味ではない!」
怒られた。
ますます分からない。
昼の忙しさが一段落すると、ミレイユがやってきた。
最近は王都から来た宮廷魔術師というより、普通に昼飯を食べに来る客になりつつある。
「何なの、この空気」
店へ入るなり、ミレイユは言った。
「何か変です?」
「レティシアがものすごく不機嫌じゃない」
「野菜が硬いらしいです」
「野菜?」
「俺には普通なんですけど」
ミレイユはレティシアを見る。
次にアルノーを見る。
最後に宗一郎を見た。
「……ああ」
「分かるんです?」
「分かるわよ」
「何で?」
「あなた以外には、たぶん誰でも」
「またそれですか」
宗一郎は困った。
「じゃあ教えてくださいよ」
「嫌」
「なぜ?」
「面白いから」
「性格悪いなあ!」
そこへニーナまで店へ来た。
宗一郎が事情を話すと、彼女まで一度レティシアを見てから妙に納得した顔になる。
「なるほど」
「ニーナまで?」
「はい」
「何なの?」
ニーナは少し迷った後、宗一郎へ小声で言った。
「レティシア様、嫉妬していらっしゃるのではないでしょうか」
「嫉妬?」
「はい」
宗一郎は驚いてレティシアを見る。
その本人は、アルノーへ何か商売の質問をしている。
「……アルノーさんに?」
「そうです」
「何で男に?」
ニーナが黙った。
ミレイユが額を押さえた。
「三枝さん」
「何です?」
「そこから説明しないと駄目なの?」
「俺、何かおかしいこと言いました?」
「嫉妬というのは、恋敵にするものだけじゃないでしょう」
ミレイユが呆れたように言う。
「自分が大事にしている人や物を、誰かに取られそうだと思ったときにもするわ」
「ああ」
宗一郎はようやく理解した。
「なるほど。公爵様、自分の領地の店を南に持っていかれると思ってるのか」
ミレイユとニーナが同時に黙った。
「……何です?」
「もうそれでいいわ」
「何が?」
「疲れた」
「まだ昼ですよ?」
ミレイユは返事をせず席へ座った。
宗一郎は首を傾げながら、彼女の分の料理を用意した。
その日の営業が終わり、アルノーも宿へ戻った。
「明日、仕入れの値段表を持ってくる」と言い残していったので、商売の話は続けるつもりらしい。
宗一郎が店先を掃いていると、レティシアだけが残っていた。
「公爵様、今日は戻らなくていいんです?」
「もう少しいる」
「仕事は?」
「終わらせた」
「本当に?」
「今日は本当だ」
「今日は、って自分で言っちゃいましたね」
レティシアは反論しなかった。
少しして、ぽつりと言う。
「宗一郎」
「はい」
「南へ行きたいなら、止めるつもりはない」
宗一郎は箒を止めた。
「急ですね」
「私はお前の領主だが、お前の人生まで決める権利はない」
「そうですね」
「……簡単に肯定するな」
「どっちなんですか」
宗一郎は笑った。
レティシアは笑わなかった。
「お前は元の世界へ帰りたいとも言っていた」
「帰れるなら、今でも帰りたいですよ」
「そうか」
返事が妙に静かだった。
宗一郎は、ようやく少しだけ気づいた。
この人は、商売の利益だけを気にしているのではないのかもしれない。
自分がどこかへ行くこと自体を、気にしている。
「でも」
宗一郎は箒を壁へ立てかけた。
「少なくとも明日、突然いなくなったりはしませんよ」
レティシアが顔を上げる。
「この店も始めたばかりだし、文字もまだろくに読めない。料理教室も始めちゃったし、仕入れの話だってこれからです。それに……」
「それに?」
「公爵様の料理も、まだ目玉焼きしか教えてないですからね」
「そこか」
「大事でしょう」
「もっと他にあると思った」
「何を期待したんです?」
「何でもない」
レティシアは少しだけ笑った。
「なら、しばらくここにいろ」
「命令です?」
「……頼んでいる」
宗一郎は一瞬だけ黙った。
酔った夜にも、似たことを言われた。
あのときは「うちに来い」だった。
今日の言葉は、それよりずっと控えめだったが、不思議と宗一郎の胸には残った。
「分かりました」
「本当か」
「今のところ、ここ以外に行く場所もありませんし」
「そういう言い方をすると、仕方なくいるように聞こえる」
「面倒臭いなあ、公爵様」
「何だと」
「じゃあ言い直します」
宗一郎は少し考えた。
「今は、この町で店を続けたいです。俺の意思で」
レティシアの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「そうか」
「はい」
「ならよい」
「それで、アルノーさんを睨むのはやめてくださいね」
「睨んでいない」
「かなり睨んでましたよ」
「あいつが胡散臭いだけだ」
「商人だから?」
「宗一郎を南へ連れていこうとするからだ」
「やっぱりそこなんじゃないですか」
レティシアは返事をせず、店の外へ出た。
ちょうど迎えに来たガレスが待っている。
「閣下、お帰りですか」
「ああ」
「ご機嫌が直られたようで何よりです」
「最初から悪くない」
「左様ですか」
「副団長」
「何も申し上げておりません」
宗一郎は店先から二人を見送りながら、笑った。
女公爵レティシア・アルヴェインが、見知らぬ商人に嫉妬していたらしい。
ただし、その理由を宗一郎は「領内の有望な食堂を他所へ取られたくないから」と理解した。
翌日、その話を聞いたミレイユは、しばらく無言になった後でこう言った。
「あなたが恋愛で四十二歳まで苦労した理由、少し分かった気がするわ」
「急に失礼じゃないですか?」
「かなり控えめに言ったつもりよ」
「もっと酷い評価があったんです?」
「ええ」
「聞かないでおきます」
宗一郎はそう言って厨房へ戻った。
そしてその日の午後、さらに厄介な噂が彼の耳へ入ることになる。
最近、アルヴェイン公爵には「毎日のように会いに行く謎の男」がいるらしい。
領都では、いつの間にかそんな話が広まり始めていたのである。




