第15話 いや、その男、俺なんですが
噂というものは、正体が分からないうちは妙に格好よく育つらしい。
三枝宗一郎がそれを思い知ったのは、食堂を開ける前の朝市だった。
「聞いたかい、三枝さん」
いつもの八百屋の主人が、籠いっぱいの根菜を量りながら声を潜める。
「何をです?」
「うちの領主様の話だよ」
「公爵様?」
「そうそう。最近、男がいるらしいぞ」
宗一郎は受け取ろうとしていた根菜を危うく落としかけた。
「……男?」
「声がでかいよ」
「いや、すみません。でも男って、どういう」
「だから、そのままの意味だよ。レティシア様が毎日のように会いに行ってる男がいるって話だ」
八百屋は、他人の恋愛話を仕入れた商人特有の楽しそうな顔をしている。
宗一郎は少し考えた。
「公爵様って、そんな時間あるんですか?」
「お前さんがそれを言うのかい?」
「何で?」
「何でもない」
主人は妙な顔をしてから、さらに声を低くした。
「何でも、その男は城の者でも貴族でもないらしい。素性もよく分からんのに、閣下が自分から会いに行くらしいぞ」
「へえ……」
「しかも若い男じゃないって話だ」
「そうなんです?」
「四十くらいだとか」
宗一郎の眉が少し動いた。
「それ、ずいぶん具体的ですね」
「噂だからな。他にも三十代後半だとか、元傭兵だとか、南の大商人だとか、実は外国の王族だとか、いろいろある」
「後半どんどん豪華になってません?」
「噂は育つんだよ」
確かに育ちすぎである。
四十代の謎の外国王族が、北部最強の女公爵と密会している。
字面だけなら、宗一郎自身もちょっと聞いてみたい。
「公爵様、そういう人がいたんだなあ」
何気なく言うと、八百屋の主人が手を止めた。
「三枝さん」
「はい」
「本気で言ってる?」
「何がです?」
「いや……まあいいや」
「途中でやめないでくださいよ」
「俺から教える話でもない気がしてきた」
「何なんですか、それ」
結局、八百屋は答えてくれなかった。
宗一郎は根菜と葉野菜を受け取り、次の店へ向かった。
すると、今度はパン屋でも同じ話をされた。
「レティシア様の相手、知ってるか?」
「今聞きました」
「この辺りにいるらしいぞ」
「へえ」
「飯を作るのが上手いって話だ」
宗一郎はパンを袋へ入れながら頷いた。
「珍しい男ですね」
パン屋の主人が黙った。
「何です?」
「お前さん、本当に分かってないのか?」
「だから何が?」
「いや、いい。俺も面倒に巻き込まれたくない」
「みんな同じこと言うなあ!」
朝市を一周するころには、宗一郎は妙に詳しくなっていた。
噂の男は四十前後。
料理ができる。
公爵が城から自ら会いに行く。
庶民の出だが物怖じしない。
北部では見かけない顔。
公爵と平然と言い合いをする。
たまに彼女へ野菜を食べさせている。
「……変な男だな」
宗一郎はそこまで考えて、まだ気づかなかった。
店へ戻ると、ニーナが開店準備を手伝いに来ていた。
「おはようございます、三枝さん」
「おはよう。ニーナ、知ってる?」
「何をです?」
「公爵様に男がいるらしい」
ニーナの手から木皿が滑りかけた。
「……どこで聞きました?」
「市場中」
「もうそこまで……」
「有名なんだな」
「そうですね」
「知ってた?」
ニーナは宗一郎の顔をじっと見る。
「知っている、と言えば知っています」
「どんな人?」
「四十二歳くらいです」
「かなり具体的だね」
「独身です」
「そこまで?」
「料理ができます」
「やっぱり同じ噂だ」
「食堂をやっています」
宗一郎の手が止まった。
「……食堂?」
「はい」
「この町で?」
「はい」
ニーナは笑いをこらえているように見える。
宗一郎は少しずつ嫌な予感がしてきた。
「その人、文字読めなかったりする?」
「かなり苦労していらっしゃいますね」
「元総務だったり?」
「ソウムという謎のお仕事をされていたそうです」
宗一郎は黙った。
ニーナも黙った。
しばらくして、宗一郎が自分の胸を指さす。
「……俺?」
「ようやくですか」
「いやいやいや」
宗一郎は両手を振った。
「待って。おかしいだろう」
「何がです?」
「公爵様の男って俺?」
「噂では」
「俺、公爵様と付き合ってないよ?」
「知っています」
「告白もされてない」
「そうですね」
「手も握ったこと……いや、怪我したときと酔ったときに支えたくらいか」
「なるほど」
「なるほどじゃない」
宗一郎は額を押さえた。
自分が噂の中心だったと知った瞬間、急に朝市での会話が全部恥ずかしくなってきた。
八百屋の主人の顔。
パン屋の微妙な沈黙。
全員、宗一郎が本人だと分かった上で聞いていたらしい。
「誰がこんな噂流したんだ?」
「誰か一人というより、自然に広まったのではないでしょうか」
「自然に?」
「レティシア様が毎日のようにここへいらっしゃいますから」
「飯食べに来てるだけだよ」
「普通の服に着替えて?」
「客が怖がるから」
「たまに公務を早く終わらせて?」
「それは本人の都合だろ」
「三枝さんが他所へ行くという話を聞いたら機嫌を悪くなさって?」
「領内の店が減るから」
「酔ったときには『うちに来い』と?」
「料理人としてだよ」
ニーナが完全に黙った。
「何?」
「いえ」
「その顔やめてくれる?」
「何も申し上げていません」
「ガレスさんみたいな逃げ方覚えたなあ」
昼前になると、さらに事態は悪化した。
最初の客として入ってきた縫い物屋の女性が、席につくなり笑った。
「おや、噂の男」
「その呼び方やめてください」
「もう知ったのかい?」
「今朝知りました」
「遅いねえ」
「俺以外いつから知ってたんです?」
「数日前から」
「教えてくださいよ!」
「だって本人がまったく気づいてないから、面白くて」
「この町の人、性格悪くない?」
「娯楽が少ないんだよ」
「俺を娯楽にしないでください!」
後から入ってきた荷運び人まで口を挟む。
「でも店主、本当に違うのか?」
「違いますよ」
「閣下、毎日来るぞ」
「常連だから」
「お前が女と話してると不機嫌になるぞ」
「野菜が硬いだけですよ」
「それ本人が言ったのか?」
「言いました」
「信じたのか?」
「普通は信じるでしょう」
店内に妙な沈黙が落ちた。
宗一郎は料理を並べながら首を傾げる。
「何です、みんなして」
「いや……」
「店主って、料理以外は案外駄目なんだな」
「急に酷い評価されてる!」
そこへ、問題の本人が現れた。
レティシアである。
「宗一郎、今日の昼は何だ」
いつもどおりの調子で入ってきた彼女を見て、店内の客たちが一斉に黙った。
宗一郎は気づいた。
そして嫌な予感がした。
「公爵様」
「何だ」
「ちょっと聞いていいです?」
「料理なら先に注文を――」
「俺たち、付き合ってるんですか?」
その瞬間。
食堂が完全に静まり返った。
ニーナが厨房の奥で顔を覆った。
ガレスはレティシアの背後で目を閉じた。
レティシア本人だけが、宗一郎を見たまま動かない。
「……何?」
「いや、噂になってるらしくて」
「誰と誰が」
「俺と公爵様」
「……」
「違いますよね?」
レティシアはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな間だった。
しかし、その沈黙を店内にいた全員が聞いた気がした。
「今は」
レティシアが言った。
「今は?」
宗一郎が聞き返す。
「そういう関係ではない」
「ですよね」
宗一郎は安心した。
店内の他の人間たちは、なぜか一斉に複雑な顔をした。
「ほら、違うじゃないですか」
「店主」
縫い物屋の女性が言う。
「今の返事のどこを聞いて安心したんだい」
「『そういう関係ではない』って」
「その前」
「今は?」
「そこだよ!」
店内から笑いが爆発した。
「何で!?」
宗一郎には分からない。
レティシアは顔を赤くしている。
「お前は、なぜそんな話を店中の前でする!」
「だって噂になってるんですよ? 本人に確認するのが一番早いでしょう」
「場所を選べ!」
「今、公爵様来たから」
「そういう問題ではない!」
ガレスが壁へ顔を向けたまま肩を震わせている。
「副団長、笑ってます?」
「いいえ」
「絶対笑ってますよね?」
「護衛中ですので」
「便利ですね、その言い訳」
レティシアはいつもの窓際へ座ったが、今日は妙に落ち着かない。
「それで」
宗一郎が料理を運ぶ。
「公爵様も噂、知ってたんです?」
「昨日聞いた」
「何で教えてくれなかったんです」
「教える必要があるのか」
「俺が相手なんですよ?」
「……そうだな」
「否定しておいてくださいよ」
レティシアが器へ伸ばしかけた手を止めた。
「なぜ私が」
「事実じゃないでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ」
「だが」
レティシアは宗一郎を見る。
「不快ではなかった」
「噂が?」
「ああ」
宗一郎は少し戸惑った。
「公爵様って、こういう噂嫌いそうなのに」
「普通なら嫌いだ」
「今回は?」
「……相手がお前だからだろう」
宗一郎の動きが止まった。
今度はさすがに、少しだけ意味を考えた。
「俺なら害がないってことです?」
「違う!」
「信用できるから?」
「それだけでもない!」
「じゃあ何なんです?」
レティシアは口を開きかけた。
だが周囲の客たちが全員聞き耳を立てていることに気づいたらしい。
「……後で話す」
「何で今じゃ駄目なんです?」
「後でだ!」
「分かりましたよ」
宗一郎は諦めて厨房へ戻った。
すると縫い物屋の女性が、小声のつもりでまったく小声になっていない声で言う。
「閣下も大変だねえ」
レティシアの肩がわずかに揺れた。
「聞こえているぞ」
「申し訳ありません」
女性はそう言いながら笑っていた。
昼の営業が終わるころ、噂を聞きつけたミレイユまで現れた。
「聞いたわよ」
「早いなあ」
「あなた、自分が噂の男だと今日まで知らなかったんですって?」
「普通分からないでしょう。謎の男って言われて、自分だと思う人います?」
「条件が全部あなたじゃない」
「途中まで聞いても分かりませんでした」
「救いようがないわね」
「言いすぎじゃない?」
ミレイユはレティシアを探した。
「本人は?」
「城に戻りましたよ。午後から会議があるって」
「ふうん。それで何て言ってたの?」
「『今はそういう関係じゃない』って」
「……今は?」
「はい」
ミレイユは数秒黙り、宗一郎を見た。
「それを聞いて何とも思わなかったの?」
「何とも?」
「未来は分からない、って意味に聞こえなかった?」
「そこまで考えます?」
「考えるでしょう!」
宗一郎は困った。
「でも、知り合ってまだ二週間も経ってないんですよ」
「日数だけが全部じゃないでしょう」
「それはそうですけど」
「あなた、レティシアのこと嫌い?」
「いや、好きですよ」
ミレイユが固まった。
「……今、何て?」
「好きですよ。人として」
「最後を付け足すのが遅い!」
「何で怒られるんです?」
「知らない!」
今度はミレイユまで怒った。
宗一郎には理由が分からない。
「公爵様、真面目だし、領民のこと考えてるし、部下の話も最終的には聞くし。食事は面倒ですけど」
「それ本人の前で言える?」
「普通に言ってます」
「そうでしょうね!」
ミレイユは椅子へ座り、頭を抱えた。
「でもなあ」
宗一郎は洗い終えた器を拭きながら続けた。
「公爵様みたいな人が、俺をそういう意味で見るとは思えないんですよ」
「どうして?」
「どうしてって」
宗一郎は苦笑した。
「俺、四十二ですよ。特別格好いいわけでもないし、金持ちでもない。魔法も使えない。こっちの文字もまだ子供以下。今だって店を回すので精いっぱいです」
「それが理由?」
「十分でしょう」
「レティシアは三十五よ」
「年齢の話じゃなくて、立場が違いすぎます」
「立場」
「向こうは公爵で、俺は異世界から落ちてきた住所不定のおじさんですよ」
口にすると自分で少し悲しくなる。
「今は住所ありますけどね」
宗一郎は付け加えた。
ミレイユは呆れた顔をしながらも、今度はすぐ否定しなかった。
「あなた、本気で自分をそう見ているのね」
「事実でしょう」
「事実の一部よ」
「一部?」
「まあいいわ」
「また教えてくれないんです?」
「これはレティシア本人がどうするか決めることだもの」
宗一郎は肩をすくめた。
夕方。
店を閉め、宗一郎が表の椅子を中へ運んでいると、レティシアが再び姿を見せた。
一人ではない。
少し離れてガレスが立っている。
「会議終わったんです?」
「ああ」
「昼に話すって言ってたこと?」
レティシアは頷いた。
「少し歩かないか」
「今から?」
「嫌ならよい」
「いや、片づけ終わったので大丈夫ですよ」
宗一郎は前掛けを外し、店の鍵を閉めた。
二人で大通りを外れ、城壁沿いの道を歩く。
夕暮れの領都は昼とは違い、商人たちの声も減り、家々から夕食の匂いが漂っていた。
レティシアはしばらく何も言わなかった。
「公爵様」
「何だ」
「俺、怒られるんです?」
「なぜそう思う」
「昼からずっと話が重そうだから」
「怒ってはいない」
「それなら良かった」
また少し歩く。
「宗一郎」
「はい」
「昼の噂のことだが」
「うん」
「私は訂正するつもりはない」
宗一郎は横を見る。
「何で?」
「わざわざ領民の噂一つ一つに説明して回るほど暇ではない」
「それは確かに」
「それに」
レティシアは前を向いたまま続けた。
「お前とそういう噂になることを、私は嫌だと思わなかった」
「昼も言ってましたね」
「意味が分かるか」
宗一郎は考えた。
問われた以上、適当に答えるのも違う気がする。
「信用されてる?」
「それもある」
「仲がいいと思ってる?」
「それもある」
「……それ以上?」
初めて少し踏み込んだ答えを出す。
レティシアの歩みがわずかに遅くなった。
「そうだ」
宗一郎は黙った。
さすがに、ここまで言われれば何も感じないわけではない。
胸のどこかが落ち着かなくなる。
だが同時に、別の気持ちも出てくる。
「公爵様」
「何だ」
「俺が勘違いしたら困りません?」
「何をだ」
「その……恋愛的な意味だと思ったら」
言っている本人が一番恥ずかしい。
四十二歳にもなって何を確認しているんだ、と宗一郎は内心で自分に突っ込んだ。
レティシアはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「困るかどうかは、そのとき考える」
「ずるい答えですね」
「私は恋愛に詳しくない」
「俺も詳しくないですよ」
「四十二年も生きているのに?」
「そこ刺します?」
「事実だろう」
「否定できないけど」
二人の間に、昼間とは違う静かな笑いが生まれた。
「だから」
レティシアが続ける。
「急いで答えを出す必要はない。ただ、私がお前を他の者と同じようには見ていない。それだけは覚えておけ」
宗一郎は返事に少し時間がかかった。
「……分かりました」
「本当に?」
「そこまで馬鹿じゃないです」
「少し安心した」
「少し?」
「かなりだ」
宗一郎は苦笑した。
噂の男は、自分だった。
しかも、その噂をレティシア本人は嫌がっていない。
そこまで分かっただけでも、今日一日で宗一郎の中の何かは確実に変わった。
まだ恋人ではない。
告白されたわけでもない。
それでも「ただの常連客と店主」だけでは説明できなくなりつつあることくらいは、さすがの宗一郎にも理解できた。
「公爵様」
「何だ」
「明日から店でみんなにからかわれると思うんですけど」
「私もだ」
「どうします?」
「堂々としていればよい」
「強いなあ」
「それくらいでなければ公爵などやっていられん」
レティシアは少しだけ宗一郎へ近づいて歩いた。
「それに」
「はい?」
「噂が完全な間違いになるかどうかは、まだ分からん」
宗一郎は足を止めかけた。
「それ、かなり意味深ですよ」
「今日は分かったか」
「今回はさすがに」
「なら進歩した」
「公爵様に褒められると、ちょっと腹立つなあ」
レティシアは声を上げて笑った。
その笑い声を聞きながら、宗一郎は久しぶりに、自分が女性を意識していることを認めざるを得なかった。
相手は三十五歳の女公爵。
自分は四十二歳の異世界人。
どう考えても簡単な組み合わせではない。
だからこそ、帰り道で宗一郎が考えていたのは恋愛の結論ではなく、もっと現実的なことだった。
明日の昼、公爵様の分だけ少し多めに作っておこう。
それを知ったら、ミレイユあたりに「もう十分始まってるじゃない」と笑われそうなことには、まだ気づいていなかった。




